千歳先輩は、狂ってなんかいない。



狂ってるのは



千歳先輩を傷つけるオサムちゃんと白石部長。
千歳先輩の気持ちなんて分からない謙也くん。

可哀想な千歳先輩。

可哀想な―――

俺。
 





すっかり俺に馴染んで、寝乱れたままになっているベッド。
最近は部活もないし、学校もサボってほとんどこのベッドの上で過ごしている。
一日に何回かオサムちゃんや謙也くんからの連絡はあるけど、最近ではメールも電話も、無視するようになった。

数回、オサムちゃんがこの部屋の前まで来たけれど、居留守を使ってるうちに帰っていった。



オサムちゃんは少し、アホや。






千歳先輩と白石部長が行方不明になって、いつの間にか3週間経っていた。
俺にとってはもう、何日経ったかなんてどうでもよくて、ただ、そんなに経つのに先輩が俺を必要としてくれないことが悲しい。

…白石部長と付き合うようになっても、俺の相手はしてくれるって言ってたのに。

実際に白石部長を手に入れたらどうでもよくなったんかな。
元々、俺は白石部長の代わりだったんやし…

せんぱい………俺のこと、忘れた…?



ベッドの上でぼんやりとMP3を再生する。
片付ける気も、空気を入れ替える気も起きなくて、部屋の中の空気は濁っていくばかり。
カーテンを閉め切った、空気の悪い部屋は何だかいい。
千歳先輩みたいで、凄く好き。



この部屋の主の匂いを、逃がしたくない。



最後に千歳先輩に会った日を思い出した。
あの日は確か、千歳先輩と白石部長が音信不通になって、4日目くらいの日。



千歳先輩は突然俺の部屋に来て、こう言った。



「この部屋、俺にくれんね」



一瞬、何を言ってるのか分からなくなって、すぐに納得した。
後ろには、俯いたまま顔を上げもしない白石部長がいたから。
手首に頑丈そうな縄をかけられて、見えないように袖の長い服を着てた。

俺の部屋は鍵ついとるし、家族もあんまり干渉せんし、俺は友達んちに泊まり込むこととかしょっちゅうやったから都合が良かったんやろう。
俺はすぐに必要なものをまとめて、部屋を出た。



そして今、ここにいる。



千歳先輩の、部屋―――
 


オサムちゃんはアホやと思う。

この部屋に、本当に千歳先輩がいると思ってるんだから。
何回も足を運んで、ドア越しに怒鳴ったりもしてた。



『財前も心配しとるんやで?』
『せめて連絡くらい寄越せや』
『千歳、頼むから白石だけは―――』



あまりにも人が良くて、ちょっと笑ったっけ。
俺は先輩を心配したりなんてしないし、先輩がオサムちゃんに連絡なんてするわけないし、先輩が白石部長を手放すわけがない。

…普通に考えてそんなわけないのに。

オサムちゃんは俺を疑いもしない。

むしろ、千歳先輩に関しては被害者だとでも思ってるようだ。
普通に考えて、そんなわけない。



俺は千歳先輩を裏切らない。



俺しか千歳先輩を愛せない。



無論、現在は千歳先輩と白石部長がおるあの部屋は、俺の部屋なんだから合鍵くらい持ってる。
けど俺はそれを使って部屋に行ったりはしない。
だって、それはきっと先輩が怒るから。
先輩を怒らせたりがっかりさせるようなこと、俺はしない。

千歳先輩の言うことは、絶対。
例え会えなくなっても、それは変わらない。



………でも、

「………やっぱり、会いたい、わなぁ………」

誰とも言葉を交わすことなく部屋に篭りっきりだったせいで、声は掠れてた。
空気が震えて、天井近くの濁った空気がゆるりと動いたように見えた。

先輩の匂いのするベッド。
先輩の匂いのするシャツ。

それでも心は満たされなくて、どんどん千歳先輩が欲しくなる。

このベッドで寝起きすること、好きやったんやけどな…

先輩はなかなか部屋には泊めてくれなかったから。
ベッドの上で行為に及ぶこともあんまりなかったし。
だからずっと、夢だった。
…でも今、その夢は叶えられて、それでも俺は幸せじゃない。

「せんぱい…」

この部屋に寝起きするようになって、どれだけ己を慰めただろう。
どれだけ先輩の名を呼んで、涙を流して果てただろう。

もう涙も出ない。

愛しすぎて、夢だったみたいだ。

先輩がいた時間。
先輩に恋した時間。

本当は全部無かったことみたいだ。

「初恋は、実らへんな…せんぱいも、俺も…」

白石部長は千歳先輩を好きにならんかったし、千歳先輩は俺を好きにならんかったし…






―――、






玄関から小さく物音がした。

普段なら耳にも入らないような音が妙に気になって玄関に続く扉を開ける。



この部屋に一番馴染んだ男の姿が、そこにあった―――――



「せん、ぱぃ、」

振り返った先輩の久々に見る顔は、少しやつれたみたい。
ほとんど外にも出てないのか、どことなく血行も悪そうだし。
でも、それでもやっぱり俺の好きな千歳先輩は凄く格好良くて…
思わず見惚れて、次の言葉が出てこなかった。

「………久しぶり。どうしとる?」
「ぁ………」

久しぶりに聞く声。
返事をしようと思うのに、思いの外嬉しくて声が出ない。
喋ったら泣き出してしまいそうだった。

「何か声枯れちょるね?どげんしたと」
「………ずっと、誰とも口利かんかった、から…」

やっとのことでたどたどしく口を開くと、千歳先輩が楽しげに笑った。

「引きこもりやね、財前」

俺もつられて笑顔になる。

………そうや。
忘れてたけど、俺はいつも通りでいなきゃいけなかったんだ。

先輩がいなくて、気付かなかった。
いつの間にか全くいつも通りじゃなくなっていた自分に。
 
「まぁ俺もほとんど家から出とらんけん、財前のこと言えんけど…」

楽しそうに笑う先輩は、きっと聞くまでもなく幸せなんだろう。
ずっと大好きだった白石部長が、今はずっと傍におるんやもんな…

例えそれが人道外れたことだとしても、俺はええよ。
千歳先輩が幸せなのが、やっぱり一番ええ―――

「せんぱい………しあわせ、ッスか?」
「―――、」

小声で問い掛けた途端、先輩の眉が動いた。

微妙に距離を開けていた先輩が、突然間合いを詰め始めた。
あっという間に距離は縮まって、目の前に千歳先輩の痩せた綺麗な顔―
こんなときでも先輩が好きで、嬉しい…



「…どうじゃろ?幸せじゃ、ないかもしれん」



……………

意外な返答に、息が詰まる。



だって、先輩はこの幸せの為に全てを捨てていったのに―――
テニス部も、学校も、家も………俺も………

「白石、泣いてばっかだし言うこと聞かんし、財前のが良かったかもしれんね」

眉を寄せて困ったように笑う千歳先輩。
至近距離でのその表情が久しぶりで、気がつけば抱きついていた。

「………財前?」
「…代わり、でええから…それでもええから…」

ただ、今千歳先輩に抱いて欲しかった。

愛なんてなくていい。
今まで通りの、冷たい目で構わない。
少しでも白石部長に勝てる部分があるなら。

従順にでも何にでもなる。
殺されたって構へん。

先輩、

千歳先輩…
 


「抱いてください………」



思い切り跳ね除けられて、体力の落ちた体は床にくずおれた。
咄嗟に顔を上げれば、先輩が冷たく俺を見下してた。
俺がよく知る、俺を抱く先輩の表情―――

「…もう、お前なんか抱かん」
「……………」

殺されるよりも、その言葉が辛かった。

体さえ、もう千歳先輩に必要としてもらえない―――

それなら、もう死んだって…



「手遅れたい。今更…」
「………ぇ…?」

冷たい目の千歳先輩は、どこか悲しそうに呟いた。

「もう、ここまで来たらどこにも戻れんばい」

千歳先輩。

「俺…は、…先輩が戻りたいんやったらいつだって待っとる!」
「もう、そげんこと言うな!」

先輩。
いやや。

何でそんな顔するん。

俺はいるから。
ここにいるから…
ちゃんと待ってる。
俺は千歳先輩しかいないから。
愛してるから。

「千歳先輩…愛してるんです…」
「…お前が、そんなやけん俺は―――死にきれんとよ」



―――――



そのまま、千歳先輩は部屋を出て行った。







―お前が、そんなやけん俺は―



―死にきれんとよ―



………千歳先輩。

千歳先輩、千歳先輩は今、死にたいん―――?






千歳先輩は、狂ってなんかいない。



狂っているのは



俺。






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