理科室にて






この学校に来て、もう1ヶ月が経とうとしている。
さすがにちょっとやそっとじゃ動揺しない。
しかし今、俺はちょっと心臓が止まった。この俺が、だ。



放課後、俺は理科室に急いでいた。
さっきの実験の授業で、理科室にペンケースを忘れたのだ。
まぁ正直急ぐほどじゃない。ペンくらい家に帰ればある。
でも俺のお気に入りのシャーペンは某有名ブランドのもので、まさかこんな金持ち学校で窃盗なんてないだろうが万が一のこともある。

そういうわけで足早に理科室に辿り着き、扉を開けた。

その瞬間俺の心臓はちょっとだけ止まったのだ。



「…あ、何か相談か?悪いけどちょっと待ってくれ。先にこの子の話聞いてから…」

…パタン、と静かに扉を閉めた。

「……………」

…人体模型、だった。



定番だ。あまりに定番だ。
動く人体模型だなんて、耳が腐るほど聞いた定番の怪談だ。
この学校ならいたって全くおかしくないじゃないか。

…でも、実際にあの半身内臓剥き出しのあの置物が動いて喋っている姿は、正直肝が冷える。

俺は扉に手をかけたまましばらく思考を整理した。
おかしくない、うん。蓮二だって銅像だし、変わらない。
何度か頷いて自分を納得させているうちに、扉が開いた。
出てきたのは女子生徒。先程人体模型と対峙していた子だ。
何て肝が据わっているんだろう。さすが女子は強い。

彼女は俺に軽く会釈して廊下をぱたぱたと駆けていった。

彼女の背中を見送って、俺は理科室を覗く。

「おう、待たせて悪かったな。入れよ!」

…まだいる。当然だが。
引き返そうかと思ったが、シャーペンのことが頭をよぎり、俺は理科室に足を踏み入れた。

「お前は何の相談だ?」

随分気さくに話しかけてくる人体模型。よく見ると剥き出しじゃない方の半身は人懐こい笑顔を浮かべている。
だが勿論俺に相談はない。

「…悪いけど相談しに来たわけじゃないんだ」
「何だ、そうなのか。あんまり見ない顔だな?」
「1ヶ月前に転校してきたんだ。今日は忘れ物を取りに来ただけ」

さっきの実験の時、この人体模型はいなかったように思う。
どこに仕舞われていたんだろう?

俺が使っていた机の辺りを探すが、そこにペンケースはない。

「何忘れたんだ?」
「ペンケース。青いやつ」
「もしかしてこれじゃないか?」

人体模型は自分の近くの机からペンケースを取った。
間違いない、俺のペンケースだ。

「ああ、それだよ。良かった」
「俺が出てきたら机に置きっぱなしになってたんだ。不用心だから預かっておいた」
「助かったよ。ありがとう」

ここで俺は初めて人体模型に近付いた。
よく見ると普通の人体模型より随分色が浅黒いように見える。

「…何か黒くない?」

正直に聞いた俺に、人体模型は眉を寄せて情けない顔で笑った。
とても人間的な表情だ。

「昔は俺、そこの窓際に出しっぱなしだったんだ。そのせいで陽が当たって色褪せちまって」
「へぇ…今はどこにいるの?」
「向こうの理科準備室」

道理で授業中には見掛けなかったはずだ。
つやつやとした質感の人体模型の、あまりに親しみやすい態度に、俺は段々興味を抱いていた。

「…生徒の相談に乗ってるみたいだけど、何で?」

先程の言い方から察するに、彼にとって生徒の相談に乗ることは日常茶飯事のようだった。

「何年か前にたまたま一人の生徒の悩み相談に乗ったんだ。それ以来何だか頼られるようになっちまって…」

困ったように笑ってはいるが、満更でもなさそうだ。
確かによく見ると頼りがいのある、凛々しくて優しげな顔をしている。

「それに、聞いたんだ」
「聞いた?何を?」
「全ての生徒の悩みを解決したら人間になれるってさ!」
「…誰に?」
「西棟階段の仁王。知ってるか?」

……………

騙されている。

新しい生徒が毎年入ってくるっていうのに全ての生徒だなんて規模が大きすぎる。
教えてやるのは簡単だったが、それは憚られた。
この人体模型の、仁王の言葉を信じきった綺麗な目を見て、真実を教えるなんて酷なことは出来ない。

「人間になりたいの?」
「そりゃあなぁ。全ての人形は人間に憧れてるもんだぜ!」
「蓮二も?」
「お前柳の友達か?柳は…ちょっと変わってるからなあ」
「この学校で実体があるのって蓮二と真田と君だけなの?」
「今んとこな。でも真田は鎧兜に取り憑いてる霊だからちょっと違うけど」

いつの間にか俺は彼の前の椅子に座って話し込んでいた。
彼は話しやすい。生徒達が相談を持ちかけるのも分かる気がする。

「そういえばお前、名前は?」
「幸村精市」
「どういう字を書くんだ?」

俺は彼の前に置かれていたノートに、お気に入りのシャーペンで名前を書いた。

「きれいな名前だな」
「ありがとう。君は?」
「俺はこう、」

人体模型はノートに鉛筆で「ジャッカルくわはら」と書いた。
その字はどこかぎくしゃくして、覚束ない。

「柳がつけてくれたんだ。俺が外国人みたいだからって」
「確かに外国人に見える」
「くわはらは漢字があるんだけど、俺はまだ漢字は勉強中で…」

話を聞くと彼の手は字を書くのに向いていないらしい。
人体模型だから当然といえば当然だが。
でも蓮二はとても綺麗な字を書く。指先も器用だ。

「銅像と人体模型じゃ造りが違うからな。銅像は細部まで細かいから」
「君も細かいよ。…その、筋肉とか、内臓の配置とか」

ジャッカルは俺の言葉に少し笑った。

「…相談がなくても、来てもいいのかな」
「勿論。家庭科室のブン太なんて用もないのにしょっちゅう来るぜ」

俺はこの人体模型が好きになり始めていた。

優しくて少し悲しい、陽に焼けた人体模型。
短くなった鉛筆で、字の練習をしている。
仁王に騙されて日々生徒達の相談に乗って、滑稽で、でもやっぱり優しい。

「…その鉛筆書きづらくない?」
「ん?まぁずっと使ってるからな。相談に乗った生徒がたまにくれたりするんだ」

鉛筆を摘まんでゆらゆら揺らして、ジャッカルはにっこり笑った。
結構悲壮感のある姿なんだが、本人はそう思っていないらしい。



……………



「…これ、あげる」
「え?」

きょとんとした顔を向けるジャッカルには答えず、俺は席を立った。

「また来るよ、ジャッカル」

軽く手を振って理科室を後にする。
少し軽くなったペンケースを持って。



ジャッカルの手に握られた俺のお気に入りのシャーペンが、窓からの日差しできらりと光っていた。



 


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