「仁王君、っていうんだ」

 知らない女に声をかけられることなんて日常的で、仁王はそちらを見もせず、適当な相槌をうっただけだった。
 高校一年生。四月。
 ちらり、と、仁王は自分カンバスの上から少し先に向かい合って座る女子を盗み見た。顔はほとんど相手側のカンバスに隠れて見えなかったが、既にかなり気が重い。
 美術の時間、教師による組み合わせでペアにされたのは、運の悪いことに女子だった。
 しかも合同授業なので、ほぼ面識のない隣のクラスの、さらに運の悪いことに外部生。面識なんてあるわけがなければ、自分がどういう男かなんて、きっと何も知らないのだろう。
 内進生の女子で良識のある者なら、仁王とそう近しく関わろうとはしない。
 仁王は、距離を詰めてこようとする女子に対し、どこまでも辛辣だからだ。

「(きっぱりフらんとしつこいし、きっぱりフればあとが気まずいじゃろなぁ)」

 既にこんなことを考えている自分は、相当嫌な奴だ。自覚はある。
 でも、過去こういうシチュエーションで起きたことを思い返せば、そうともいってられないのだ。変に隙を見せれば、いらない期待をさせてしまう。そうなれば自分も面倒だし、相手にも悪いと思う。
 だから、気があるようなそぶりをされたら、辛辣な言葉を吐き捨てる。
 これは、驕りでもある。自覚も、ある。
 今正面に座る男はそういう最低さと自惚れでできた男だなんて、カンバス越しの彼女はきっと知らないのだろう。だからこそ、億劫なのだ。

「珍しい苗字だね」

 案の定、彼女はこの場に不必要な話題を持ち出してきた。
 それに対して、自分は何の言葉も返しはしない。
 もちろんカンバス越しに戸惑いが感じられた。だが、ご機嫌取りのくだらない話に付き合うつもりもないし、そうではなかったとしても、その場しのぎの雑談なんてやはり億劫でしかない。
 お互いの姿をデッサンしろ、だなんてありきたりな、でも気まずいだろう時間を、これからしばらく美術の時間のたび、つまり毎週過ごさなければいけないと思うと、さらに憂鬱だ。
 なんて、思ったのだが、その時カンバス越しに感じた彼女の戸惑いが、なぜか一瞬にして消えうせた。
 そして次の瞬間、

「なんだか、つんつんしてるなぁ。人見知り?それとも女嫌いかな。どっちにしても、感じ悪いなぁ」

 何事もなかったような口調で、ずけずけとそう切り込まれた言葉が自分に向けられたものだと判断するのには、時間がいった。そして、自分にいわれたのだと頭が判断した際には、組んだ膝の上についていた肘がずり落ちかけた。
 人見知り。女嫌い。
 感じが、悪い。
 マイナス要素を内在したこれらの言葉は、今、正面に座る女から自分に向けられたものらしい。
 それも、無視されたことからくる腹いせの厭味でもなく、ただ感想を述べるような、興味がまったくなさそうな、そんな口調で。
 今のは、何だ。
 が、一瞬でも呆気にとられた自分の様子が悟られるのは癪だったので、平静を装って言葉を返した。

「…おまえさんこそ、初対面でいいたい放題いうんじゃな」
「え、だって、」
「なんじゃ」
「これから嫌でも毎週顔を合わせなきゃいけない相手と、まともにコミュニケーションも取ろうとしない人にいわれたくないよ。人見知りにしたってさ、社交辞令とか、ほら」
「うざ」
「……私、クジ運悪かったなぁ…」

 再びカンバス越しにわかったのは落胆の意と、彼女がため息をついたということだけだった。
 が、自分から喧嘩を売るような、つき放すような言動を取っておきながらも、彼女のそのため息やいいようが、癇に障った。ふつふつと、不満の種が胸の内で芽を出していく。
 あまりにも酷く、自己中心的な感情だ。
 やっぱ俺は心底自分勝手な人間だったんじゃな、と、つくづく呆れながらも、不満の芽は消えてはくれない。

「つまり俺がペアなんは不服っちゅーことか」
「うーん…だって、毎週こんなにぎすぎすしてたら、いくら見た目がかっこいい人がペアでも気分悪いよ」
「ならペア変更の申請でもするんじゃな」

 どうせしやしないだろう、と、思いながらも投げやりにそう返した。口先だけだ、と、内心悪態をつく自分の性根の悪さにも、ほとほと嫌気がさすが。
 カンバス越しの彼女は、うなっている。
 ちらり、と、ポケットに突っ込んでいた携帯のサイドボタンを押し、時間を確認した。この授業はまだあと四十五分近くある。
 はあ、と、仁王がため息をついた、次の時、木製の椅子ががたんと床を擦れる音と共に、視界の上の方で人影が動き、遠退いていく。

「(は)」

 顔を上げれば、美術室の前の方へと歩いていく、女子生徒の後ろ姿。
 椅子に座ったまま体を動かし、カンバスの向こう側を覗く。
 空っぽの椅子と、教卓にいる教師と話をしている女子の背中を見比べて、ようやく悟った。
 あいつ、

「(…本当に、ペア変更しにいきやがった)」

 きっと随分と間の抜けた顔を晒していたのだろう、向こうで既にスケッチを始めていた隣のクラスの幸村が、不思議そうにこちらを見ている。
 そして間もなく、彼女が戻ってきた。
 その時、ようやく顔を見た。
 特別目を引くような美人では、ない。可愛いとは思うが。
 が、その表情は極めて残念といわんばかりに眉が下がり、あまりかんばしくはない。

「もうみんな始めてるから、ペア変更、できないって」
「…………」
「どうしたの、すごい仏頂面だけど」
「…………」
「かっこいい人でも表情次第でデッサンが崩れること、あるんだね」
「おい」
「あ…ご、ごめん、喧嘩売りたかったわけじゃなくて、えっと…口がすべったというか」
「なんのフォローにもなってないナリ」
「え、ナリって何?」

 未知の物を見るかのような形相でこっちを見てくる女子が、一歩後ずさった。
 何度も繰り返すのは気が引けるし自分でいうのも何だが、仁王は顔がいい。
 初対面の女子に後ずさられたことがあるとすれば、それはこの銀髪だったり目つきの悪さにだったりであり、少なくとも、こんな風に気味の悪いものを見たかのような目を向けられて後ずさられたことは、覚えている限り、過去ない。

「でも、ペアが替えられないなら仕方ないね。これから毎週、こうやって変な口論をしながらやってくしかないか」

 お互いの表情がまったく見えない状態を作り出していたカンバスを、よっこらしょなんて女子らしくない掛け声を出しながら、その女子が位置をずらす。
 少し斜めの位置に座り直したせいで、もう椅子をずらしても完全に顔を隠すことができなくなった。
 彼女が、腰を下ろす。
 カンバスという壁がなくなった。
 距離が、近い。
 自分の領域に、何の警戒心も持たない女子が、向かい合って座っている。
 何ともいえないむずがゆさに眉間に皺を寄せ視線を外すことしかできずにいれば、また話を切り出してきたのは彼女の方だった。

「さてと、」

 少し先にある、その足元を見た。
 上履きに書かれた学年とクラス名。そして、今目の前にいる、彼女の苗字。窓から吹く僅かな風に、長くも短くもないスカートの裾が揺れる。
 直視しないために、無意識に視線を下げていた。
 でも、おそるおそる、それを緩やかに引き上げていく。

「でも、どうせ描くなら一番いい表情が描きたいからさ、」

 自分より明らかに小さな手が、鉛筆をくるりと回す。
 緩くもきつくも結ばれていないネクタイ。
 何かが崩れる予感に、期待なのか怯えなのかわからない感情が、胸の内を渦巻く。
 怖い。
 なら、顔を上げるのをやめて、このまま無愛想無関心を貫き通せばいい。いつものように。
 でも、その先が、知りたい。

「描きたいから、なんじゃ」

 だから、
 顔を、あげた。
 そして、問うた。
 真っ直ぐ正面を、見据える。
 彼女、と、はじめて視線が交わる。

「どうせ描くなら一番いい表情が描きたいから、仏頂面やめて、とりあえず一回笑ってみてよ、仁王君」

 屈託のない笑顔で、彼女がそう笑った。
 途端、ずん、と、目の奥が重くなるのを感じた。
 何気ない言葉が、声のひとつひとつが、耳を打つ。
 頭が醒めるようなような、この感覚を、自分は知っている。
 中学に入り、はじめてコート上でネット越しに幸村と対面し、こてんぱんに負かされた後に言葉を交わした、あの時のような、言いようのない、すべてに納得がいったような、何かを認めてしまった、あの、感覚。
 テニスというフィールドではない。ひとりの人間として向き合った時の、あの時の。
 どういい表せばいいか、わからない。目の前の女子と幸村は似ても似つかない。それなのに、この感覚は知っている。
 重ねに重ねて引いたはずの境界線のひとつが、勝手にぶれる。
 無意識の内に、認めてしまった。この中への立ち入りを。
 自分のテンプレートが、決まっていた世界の一角が、崩れる。

「(……どうするかのぅ)」

 どうする。困った。
 初対面にも関わらず、自分の狭い狭い世界の隅っこに突如現れた彼女を、それも、無意識の内に免罪符を持たされた悪意のかけらもない彼女を、自分はどう扱えばいいのだろう。
 近づこうか。離れようか。
 いや、それよりも、まず。

「……別所は、変な奴じゃな」

 自分の笑顔を期待し目を輝かせる目前の彼女に対し、自分は今どんな顔をすれば、何と言葉を返せばいいのだろうか。これが何よりの問題である。



□□□□


「……………行かなきゃ」

 揃いのストラップの片割れを握りしめ、葵は廊下へと続く扉を開き、自分が寝かされていた客間らしき部屋を後に、館内へと踏み出した。
 出口を、仁王を、連絡手段を探すため、走る。
 暗くなっても、落ち込んでも、悔いても、状況は変わらないから。
 泣きたい気持ちは、変わらない。
 怖いと思う気持ちだって、変わらない。
 でも、今自分は仁王によく似た男に薔薇屋敷に軟禁されていて、仁王本人は行方がわからない。
 さっき自分は心の中で仁王に助けを求めたが、もしかしたら仁王だって今助けを求める状況にいるかもしれない。
 ならば、今やることはひとつ。

「(出口か、仁王か、幸村君達への連絡手段…!!)」

 あの男が帰ってくるまでに、何かを得なければ。ここから仁王とふたり揃って脱出する最良の道への、手がかりを。
 が、連絡手段、と、思った次の瞬間、薄暗い廊下の真ん中で、ぴたりと足が止まった。
 そして、握っていた手を開き、手の中のストラップに目を落とす。
 これは、ストラップだ。
 赤い薔薇と青い薔薇のものがセットになって販売されていた、仁王と揃いのストラップだ。
 そしてもう遊園地のゴミ箱に捨ててしまった台紙には、こう書かれていた。
 『携帯ストラップ』、と。

「そ、そうだ携帯…!!」

 連絡手段といえば、普通何より先に浮かぶのが携帯電話だろう。そもそもこのストラップを見つけたのだって、携帯を探してコートのポケットに手を突っ込んだからだったではないか。
 一体どれだけパニックに陥っていたのだろうか、それにしても情けないし恥ずかしい。柳や幸村や柳生、そして仁王であれば、こんな時でも携帯の存在を忘れたりはしないだろう。
 自己嫌悪に陥りそうになるも、それよりも今は、と、気を取り直し、まずコートのポケットに再び手を突っ込んだ。
 右のポケットにも左のポケットにも、何も物は入っていない。 普段使わない内ポケットも、そして洋服の方のポケットも一応調べてみたが、やはりお目当てのそれは見つからなかった。

「(ど、どこにやっちゃったんだろう…)」

 急く気持ちをいったん落ち着け、記憶を整理する。
 そうだ。確か、携帯は鞄の外ポケットに入れていたはずだ。ならば、鞄はどこにやったのだろうか。
 ミラーハウスに入った時には、確かに持っていた。そこから確か、仁王と歩き、仁王に突然突き飛ばされ、あの時床に落としてしまったような気がする。ということは、鞄は今もミラーハウスの中か、もしくはあの場に駆け付けた赤也が持っていることになるのではないか。
 とどのつまり、

「(……………携帯は、ない)」

 自然と肩が落ちる。
 あと携帯電話に頼れる機会があるとすれば、仁王もこの屋敷に連れて来られていたとして、仁王の荷物または所持品に携帯電話がある場合ぐらいだろう。
 が、そもそも、あの男は誘拐犯といっても過言ではないわけであり、普通ならば連絡手段は断つのではないか。おそらく、備え付けの電話も使えまい。
 散々悩んだあげくの結論が『電話という手段は難しいだろう』とは、やはり情けない。
 一度大きくため息をつき、ならばこれからどう動くか、を、考える。
 ひとつは、手当たり次第片っ端から扉を開いていく方法。もうひとつは、まず先程の応接間に行き、あの男の手がかりがありそうなところから探っていく方法。
 少し悩んでから、一度あの一階にある応接間に行ってみることにした。
 出口があるとすれば一階の可能性が高いだろうし、外の柵を超えるための梯子の捜索はさておき、屋敷からならば出口がなくとも窓から脱出するという道だってある。
 そうと決めてからの行動は、今度こそ早かった。
 前回と違い足音や人の気配に気を配るわけでもなく、紅いカーペットの上を駆け抜け、階段もひと息に駆け下りる。今はただただ、時間が惜しい。あの男が帰るまでの僅かな時間を、有効に使いたい。
 住居と廃墟で比べれば廃墟寄りな屋敷内は、走ればやはり大きく埃がたったが、気にせず駆け抜ければすぐに階段正面に位置するあの応接間にたどり着いた。
 鍵がかけられているのではと危惧した扉はノブをひねれば簡単に開き、一応中に男がいないか警戒しつつ、室内へと足を踏み入れた。

「(………あの変な遊園地に行く前も、気を失う前も、室内はろくに見てなかったなぁ)」

 部屋の入口からぐるりと、室内を見渡す。
 ここはやはり、いうならばひと昔前のヨーロッパの屋敷の応接間だ。
 広さは最初ここに来た時に思ったのとほぼ同じ、立海の職員室程度の広さがある。
 室内にあるのは、窓と、カーテンと、大小ふたつのテーブル。小さい方のテーブルには向かい合ってソファが置かれていて、大きい方のテーブルにはそれに見合った椅子が一脚。この大きいテーブルは部屋の主専用のテーブルなのだろう。
 それに絵本の中でしか見たことがないような立派な暖炉、綺麗な装飾がなされた本棚や飾り戸棚に花瓶用の台。
 が、やはりどれも、古びた、というよりも、すでに使用不可能にも見えるほど、劣化が見られる。室内の埃っぽさは一歩歩くだけでも身に染みて感じるし、視覚的にも酷い。裂けたカーテンやいたるところに張られた蜘蛛の巣が、それを増長させている。
 その中に映える、赤い薔薇。
 薔薇だけが赤々と廃れた室内に輝いている。見事な大輪な花なのに、残念ながら今は不気味にしか見えない。

「(……………さて、)」

 調べられる場所から調べるしかない。
 立海の職員室か、それ以上の広いさのように見える。
 ひとまず、近くの飾り戸棚の開き戸を引いた。
 大きな軋み音をあげ、ガラスのついた扉は開いた。が、中には何もない。埃だけが舞い上がった。
 しゃがみ込み、今度は引き出しを上から順に引いていく。
 ゴミなのかそうではないのか、そんな物ばかりでめぼしい物は見当たらない。
 落胆しながら顔を上げた時、ふと、ある物が目に入った。
 立ち上がり、花瓶の置かれた台へと近づく。すると、花瓶の陰に隠れていて見えなかったらしい小さな箱がそこには置かれていた。
 ポケットにも入れられそうな程、小さな箱だった。
 リングケースよりひと回り大きいか、といったそれは木製で、この部屋の調度品の数々と同じように細かな装飾が施されている。中でも、綺麗な赤色に塗られた薔薇に目を引かれた。
 そっと手に取り、目線の高さまで持ち上げて、箱を見る。その時、掌に何かが触った。
 それは、側面につけられた鈍い金色のぜんまいだ。

「これって、もしかしてオルゴール…?」

 留め具の金属部分は錆び折れ曲がり、もはや留め具としての役割を果たしてはいないようだ。
 蓋をそっと開いても、やはり稼動部分にがたがきているのか、金属の擦れる嫌な軋み音が室内に響いた。
 内側は外側より傷みが少なく、箱に張られたガラスの板も汚れてはいるが破損は見られない。ガラス板の向こうに設置されたオルゴール本体、シリンダームーブメントと呼ばれる円筒と櫛歯も、ところどころ劣化具合が危なさそうだが、大きな破損は見られない。
 一応試しに、と、そろりそろりと、と、細心の注意を払ってぜんまいを巻いてみた。
 すると、

「…あれ、これ………」

 ぽろんぽろん。
 箱のヒビから、そして箱を持つ手の中からこぼれ落ちるような音が、メロディを奏でていく。
 ところどころ櫛歯が折れてしまっているのだろう。よく知っているはずの旋律は、息も絶え絶えといわんばかりで音を奏でていく。

「こ、れ…………」

 これは、

「Chim chiminey Chim chiminey Chim chim Cheree…」
「わあ!仁王、歌もうまいんだね」
「んー…」
「でも、この曲しってたの?」
「こんなにすらすらと歌詞が出てきたからには、たぶん知っとるんじゃろうけど…覚えてないのう。ま、たぶん昔姉貴が観てんのを横で観てたりして覚えたんじゃろけどな」
「そっか。でも仁王がこの曲知っててよかったな、この曲にして正解だった気がするもん」



 そう遠くない記憶が、音と共に蘇る。
 この曲を、知っている。
 昔から、とてもすきだった。この曲から感じるものと仁王のイメージに近いものを感じたから、この曲を彼の着信音にしていた。
 だからこそ、

「………なんで」

 あの男じゃない、自分と本当の仁王に連なるものが、なぜここにあるのだろう。
 それに、これはきっと自分と仁王に連なるものだからこの場にあるわけでは、ない。
 葵と仁王が知り合ったのは一年前。いや、もっと言ってしまえば、自分は生まれてからまだ十数年しか経っていない。
 けれど、このオルゴールの年季の入りようは、そんなものではない。何十年という本当に長い時の中、大切に扱われたのであろうことが伺えるアンティーク品だ。
 きっと、何かの偶然だろう。
 でも、今確かに自分は感じている。言葉にできない、得体の知れない何かを。
 と、眉間に皺を寄せた時、ある物に気がついた。
 蓋の内側のポケットに、何か紙のようなものが見える。それも、オルゴールのような年季を感じさせる。

「(…………なんだろう)」

 もはやこのオルゴールには嫌な予感しかしないのだが、一応、その紙をポケットから丁寧に引っ張り出した。
 いくつに折り畳まれていたそれを、ゆっくりと開いていく。
 開いていくたび、曲を聴いた時からずっと感じていた嫌な予感が、風船のように膨らんでいく。
 口を一文字に結んで、やめておけと訴える心の声に耳を塞ぎ、震える指先でひとつひとつ、折り目を開いていく。
 やめた方がいい。
 きっと、後悔する。
 それを感じ取っているのに、開いていく指は止まらない。
  心臓の音が聞こえそうなほど、大きくうるさい。
 折り目をひとつひとつ、丁寧に開いていく。それでも少し力の加減を誤るだけで破けてしまいそうな、それでも、一番最後の折り目を、開いた。


「ーーーーーーこれ、」


 手の中のそれは、写真だ。
 古びた写真の中で立海の制服に身を包み微笑んでいるのは、明らかに葵と仁王だ。
 色もほとんど落ちてしまった劣化しきった写真の中では、今より遥かに髪の長い自分が、どこか屋外で隣に並ぶ仁王に笑いかけている。写真からは、校外学習でのスナップといった雰囲気を感じる。
 だけど、

「…何なの、この…写真…」 

 背筋に冷や汗がつたう。手が、震える。
 こんな写真に、覚えはない。
 そもそも葵が立海に入学してからの写真ならば、どんなに手荒い扱いをしていようと、数十年近くの年季すら感じるこんな段階まで劣化はしないだろう。
 もう一度、写真をよく見る。
 ここ最近で髪を伸ばしていたことはないし、近くに写っている立海の制服を着た女子に至っては見覚えがない。
 それに、その女子の更に横に写っている儚げな彼と、写真の隅の方に写りこんでいる赤髪。これは、確かに幸村とブン太だ。
 知っている人物と、全く知らない人物が混在する、ぼろぼろの写真。
 背筋に走る寒気はそのまま全身に広がり、がちがちと歯が噛み合ない。
 きっと、というか間違いなく、これはあの男の所持品だろう。
 葵、と、あの男が自分を呼ぶ声が、頭の中にこだまする。
 あの男は、仁王じゃない。少なくとも、自分はそう思っている。
 ――――じゃあ、あの男のいう、『葵』とは?
 わからない。
 糸と糸がぐちゃぐちゃと絡まりあうように、目の前の現状が、実態を覆い隠す。

「(………………これ、は、)」

 今、何が起きているの。
 私は、仁王は、あの男は。
 何が、どう、絡まってるの。
 真実は、どこにあるの。
 これは、

 これは、一体何なの。





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