「放して!!やだ、放して!」

 結局男に腕を引きずられながら鏡を通り抜け、元の場所に戻ってきてしまった。
 なんとかその手を振り解こうとしても、男の、仁王の力に葵の力が敵うわけもない。
 しゃがみ込むことで対抗しようとしたが、体全体を担がれそうになってしまったので、それならばまだ腕だけを拘束されている方がマシだと思い、しぶしぶ自分で足を進め、またこの屋敷に戻ってきてしまった。
 手を引かれ、また鏡をくぐり抜けるという時には、緊張しすぎてまともに息すらできていなかったと思う。昔流行った魔法ものの本の中に出てきた、九番ホームと十番ホームの間にある柱の壁を突き抜ける学生達も、最初の頃はきっとこんな思いだったんだろうな、と、恐怖に萎縮する頭でそう思った。
 そんな怯えきった葵を男が手を引いて連れてきたのは、葵が最初寝かされていた部屋ではなく、応接間のような広い空間だった。
 扉から階段が見える事から、この部屋は最初葵が黒いマントを着た男が本を読んでいた部屋のようだ。
 学校の他目的室ほど広い洋間は、廊下や階段より片付けられているように見える。家具などからはやはり年期が感じられるが、埃は比較的払われていて、人がいれる場所、という印象だ。
 が、廊下同様、部屋の中には古びた、というよりも、すでに使用不可能にも見える調度品や装飾品、それに赤い薔薇が溢れていて、普通に見れば素敵であろうアンティークな洋館を見事幽霊屋敷に仕立てあげている。人工灯がない分、なおさら。
 さらに、裂けたカーテンやら、ところどころ目につく蜘蛛の巣やら、とにかく、まったく馴染みない空間は、葵にはやはり居心地が悪い。

「……仁王はどこ」

 ようやく葵の腕から手を離し、ばさり、と、黒外套ごと皮張りのソファに腰をおろし背中を預けた男をにらみつけ、もう何度目になるだろうか質問を投げつけた。
 厳しい表情の葵をちらりと見上げて、男が小さくため息をつく。
 立海のシャツに濃緑のネクタイとズボンの上に、床に引きずるほど長い黒外套を羽織ったこの仁王と容姿がうりふたつの男は、この空間に酷く馴染んでいるように見えて、それもあわさって葵の気分は最低に悪い。
 目の前のこの男が、仁王じゃないとわかっていても、だ。

「だから、仁王は俺じゃき」

、何度も同じことを聞くな、と、いった態で、おおげさに肩を竦めてみせた男のその様子に、怯えが怒りへとみるみる変換されていく。
 そんな葵を見て、男はまたひとつ、ため息をこぼす。
 が、しかし、葵が今この質問をすることは、どう考えたって男に呆れられるようなことではないはずだ。

「ちゃんと、説明して。私、思い出したもん。ここで目が覚める前のこと」

 起きたばかりの頃はもやがかかっていた頭も、今はもうはっきりしている。
 葵は確かに今日、赤也とその彼女、そして仁王と最寄り駅で待ち合わせ、四人で遊園地のゲートをくぐった。
 四人で遊園地を謳歌していた途中、仁王とふたり、赤也達を思い、抜け出した。
 様々なアトラクションを楽しみ、土産を買った。家族や友達にあてたものももちろんながら、仁王と揃いの薔薇のストラップを買ったりもした。
 本当に、楽しかった。
 あの時は、こんなことになるなんて知るはずもなく、浮かれていた。
 なのに、
 現実は、記憶は、あの、ミラーハウスでの出来事に繋がる。

「今日までのことだって、」

 鮮明に思い返せる。
 仁王の姉が入院した日の放課後、様子のおかしかった仁王。
 あの日を境に、いつ何時でも眠り続けていた仁王も。
 そして、あの、練習試合の日。
 目を輝かせテニスをする仁王。ラケットを投げ捨てた仁王。葵を真っ直ぐ見つめる仁王。困惑した表情を見せた仁王。そして、走り去っていく仁王の背中。それを、ただ呆然と見つめるしかできなかった、自分。
 それら、全部、

「今までの違和感をひとつひとつ拾い上げていけば、あなたに繋がる」

 強く睨みつけて、そう断言する。
 あの時感じた違和感を、疑問を、全部重ね合わせれば、ひとつになるのだ。
 自分を別所とではなく葵と呼び、奇怪な言動を繰り返した仁王の姿と、目の前にいる、この男の姿が。

「………私、仁王がずっと悩まされていた原因は、あなただと思ってる」

 握りしめた拳に力が入りすぎたのか、てのひらに血が伝った。
 そこではじめて、ぴくり、と、ソファに腰かける男の肩が揺れた。
 さっきまでなら、そんな一挙一動にもおびえていたかもしれない。
 でも、そんなことよりも。

「(――――――仁王、が、)」

 いつも、我にかえった時には、らしくもなく、慌てていた。
 自分でも、どうしてあんな事したのかわからん、と、らしくもなく、か細い声で告げてきた。
 なんとか励ましたくたかった葵のつたない言葉に、泣きそうな、でも本当に嬉しいんだという思いを全面に出した笑顔を、くれた。
 ずっと、ずっと、
 ―――――悔しかった。
 ―――――情けなかった。
 何の救いにも、力にもなれない自分がもどかしくて、悔しくて、情けなくて、
 こんな時自分が男で、テニス部で、もっというならば頼りがいのある人間ならば、きっと、と、近頃いつも寝ている仁王の背中を見つめながら、何度思っただろうか。
 本当に、ずっと、ずっと、
 思ってた。願ってた。仁王の力になりたい、と。
 早く、元気になってほしいと、いつも通りふざけたような言葉を重ね、ニヒルに笑ってみせてほしかった。
 そのためならば、どんな努力も厭わないと、ずっと思っていた。
 そして、
 おそらくその元凶が今、葵の目の前に座っている。

「あなたは、何」

 覚えている。ちゃんと、覚えている。
 今目の前にいるこの男に鏡の中へ引きずり込まれた時に。
 水の中のような、雲の中のような、薄れゆく視界の中、必死に自分へと手を伸ばしてくれた仁王を。
 後ろから自分を捕らえていた、この男。
 正面から腕を伸ばしていた、仁王。
 だからこそ、自分の違和感という人からすれば曖昧なものだけではなく、断言することができる。
 この男が何といい張ろうが、確実にふたりは別のものである、と。

「仁王を、返して。仁王はどこ」
「だから…」
「あなたは、仁王じゃない」

 うつむいたままの男の言葉を意図的に遮り、はっきりと、いいきった。
 そのまま、反応がない。
 質問にまともな答えは返さず、飄々と葵の追及をかわしてきた男だ。また無視されてしまうことも十分考えられる。
 でも、絶対に、引いたりはしない。
 血がついた手をタイツで拭って、少しでも怯えた様子を見せないように表情を目一杯しかめてみせて、男を睨みつける。
 沈黙が、落ちる。
 それでもじっと睨みつけていれば、ようやく、顔を上げないまま男が口を開いた。

「おまえさんのいう、『仁王』の件じゃが…」
「………!」
「確かに、此処におるよ」
「な、ら…案内、して、」

 突然男が立ち上がったので、一瞬怯んでしまった。
 でも、はぐらかすだけだった男がようやく、仁王について重い口を開いたのだ。そして、案内しろといった自分の言葉に対し、男は立ち上がってみせた。
 仁王に、会える。
 わずかに見えた希望に、今日はじめて胸が弾んだ。
 が、次の瞬間、

「すまん」

 ぐわん、と、視界が回転した。
 とん、と、押された肩からバランスを崩し、足がもつれ、後ろへと、倒れこむ。
 ぼすん、と、柔らかいものに背中と頭がぶつかり、突然のできごとについていけていなかった頭が、ようやく動き出した。
 何が、起きたんだろう。
 呆然としている葵の上から、黒外套が体を覆うように覆いかぶさってきた。もちろん、それを身に纏っているのは、男、だ。
 要するに、

「……………え…」

 先ほどまで男が座っていたはずのソファに、押し倒されるのだ。
 さらり、と、仁王のそれによく似た銀色の髪が、頬をかすめる。
 顔の横につかれた手が、そんな頬をなぜた。
 突然の事態に、その距離に、細められた目の発する眼光の強さに、言葉を、なくした。

「今からひと仕事してこんといけんくてな、『力』が必要なんじゃ」
「な、んの、こ…と…」
「ちょっとだけ、我慢してくれ」

 そのまま頬を撫ぜる手と逆の手で、肩をソファへと押さえつけられる。
 近すぎる距離から抜け出そうともがくも、狭いソファで腰に乗られてい囲うように覆いかぶさられているせいか、それとも男の力が強いせいか、唯一自由な右腕以外びくとも動くことができない。

「やだ、放し……っ!!」

 その瞬間、
 ついさっき、さらったばかりの過去の記憶のひとつが、反射的に脳裏に浮かんだ。
 あの日、
 夕焼けで赤く染まる教室で、机にもたげて眠っていた仁王が、目覚めた時、
 そうだ、あの時、
 あの時、仁王は、いや、この男は、何といった?
 葵、と、名を呼び、
 ようやく会えた、帰ろう、と、
 そして、返してもらわんと、とか、用済みじゃ、とか、よくわからない不可思議な言葉を並べ、

「じゃあ、」

 血をくれ、と。
 彼は確かに、そういわなかったか?






「―――――――いただきます」






 やめて、と、最後は声にすらならなかった。
 恐怖で引き攣り声というものを忘れてしまった喉の、すぐ近く。首元に、ゆっくりと鋭い何かが皮膚の中にと沈んでいく感覚に、痛みに、ぐらりと世界が揺れた。
 やめて、やめて、やめて。
 声が出ない。出るのは涙と、腕の震えだけだ。
 視界の端に、銀色が揺れる。
 血が、体外へと流れていく。
 仁王、仁王、
 大切な友人の名前を、揺らぐ頭の中で必死に呼んだ。
 助けて、仁王、助けて、
 涙が、とめどなく流れ落ちていく。
 痛い、怖い、痛い、気持ち悪い、助けて、仁王、助けて、
 ぐわんぐわん、頭の中が揺れる。
 どれだけ時間が過ぎたのか、もう判断はつかなかった。
 仁王、と、心の中でその名前を呼ぶことで、ただただ時間が過ぎ去りこの行為が早く終わることだけを祈り、
 気がつけば、ぽたり、と。
 距離が開いた端正な顔の口元から、赤い滴が葵の頬を伝った。

「―――怖がらせて、すまん」

 温度の低いひんやりとした指先で、頬に落ちたらしい血がぬぐわれる。
 血がぬぐわれ、そしていまだ涙が流れ続ける目元を押さえられるも、涙は止まらない。謝罪の言葉を述べてくる男の表情も、見えない。見たくない。
 葵、すまん、ごめん、と、謝り続ける男を振り払うように、唯一自由な右腕で男の肩を押した。
 男が、何もいわずソファから下りる。
 そのまま自由になった両腕で顔を隠すも、涙は止まらず服を濡らしつづける。
 それでも、腕で目を隠した。
 これ以上泣いている姿を見られるのも嫌だし、もし男が申し訳なさげに眉を八の字に下げでもしている姿を見れば、きっと動揺して隙がでる。
 どんなに内面が違うと叫びつづけても、男は仁王とうりふたつなのだ。

「葵」

 何か言葉を返す気すら起きない。
 できることならば、関わりたくもない。仁王に会わせてやると騙されたことも、悔しくてたまらない。
 恐怖や悔しさ、悲しさが全て涙に化していく。

「…こういったところで大人しくしてくれるとは思っとらんが、屋敷ん中は安全な場所ばかりとも限らんけぇ、起きてもできるだけ大人しくしてんしゃい」

 起きても、って、どういう、
 嫌な予感を感じて目を覆った手の隙間から男を覗き見れば、目と鼻の先にかざされた、男のてのひらが見える。
 何を、するの。
 そう聞きたかったのに、そのまま、ぷつん、と。
 糸が切れるかのように、意識は闇に落ちていった。
 仁王、仁王、
 大切な友人の名前を、揺らぐ頭の中で必死に呼ぶ。
 助けて、仁王、助けて、
 意識が、沈んでいく。
 痛かった、怖い、気持ち悪い、助けて、仁王、助けて、
 声にならない声で、彼を呼ぶ。

 仁王、どこにいるの、


□□□□


「………これは一体…何事でしょう」

 柳生がいく度もの着信に気がついたのは、幸村からの最初の着信から三十分ほど経ってからのことだった。
 出先から帰路についた住宅地の中で、ふと携帯を開いた際には、さすがの自分もぎょっとした。
 画面には、並外れた量の不在着信を示す履歴に、数回に渡り録音された留守電のボイスメモ。
 それは幸村であったり柳であったりだったのだが、その中に赤也の名前を見つけた時には、思わず首をひねってしまった。
 赤也は今日、彼の彼女である蓮夏、それに仁王と彼が想いを寄せる葵と共に遊園地に出かけているはずだ。
 と、瞬時に最悪の事態が頭を過ぎる。

「(……まさか、切原君が何かしでかしてしまったんでしょうか)」

 走り去る葵の後ろで、絶望に暮れる仁王。そんな姿が簡単に想像できてしまったのが、また恐ろしい。
 普段散々からかっているとはいえ、柳生だって相方の恋を応援していないわけではない。
 直球こそ投げれずとも、あらゆる変化球を駆使して彼女の好意を掴もうとする相方の姿は、それまでの彼を知っている柳生としては滑稽といえば滑稽だったが、見ていて清々しかった。
 らしくもなく表情に焦りや喜びが出てしまっている姿も、自分達の言動に振り回されている姿も、長い付き合いなのに新鮮で、真剣さがひしひしと伝わってきて。だからこそ、心から応援していた。
 最近はどうもおかしな不調が続いていたようだから、今日の遊園地を機に気分転換になればいいと、そう思っていたのだが。この携帯を見るにそうはいかなかったようだ。
 自分がフォローできる話ならいいのだが。
 ふう、と、白いため息をひとつ吐き出してから、履歴の中から幸村を選択し、発信ボタンを押そうとした、のだが、ふと頭を上げた。

「……………?」

 何か、空気が変わったのだ。
 妙な空気に周囲を見回せば、あるものに目が止まる。
 塀の、上だった。
 少し霧がかったこの道の、少し先の塀の上。
 霧のもやからこちらへと、何かの影がゆらりと揺れた。
 猫にしては、どう見てもその影は大きすぎる。
 少し足を進めて目を擦れば、影がさらに近づいてくる。
 寒色で灰色に染まる景色の中、それを切り裂くように鋭く、銀色が光る。
 それが何なのか、はっきりとわかると、さすがに驚いた。

「…………仁王、君…?」

 こちらに向かって塀の上を歩いていたのは、人だ。
 寒がりなはずなのに、この冬空の下、コートもマフラーも身につけず、なぜか制服姿で。
 ポケットに手をつっこんだまま、ゆらり、くらり。バランスを取っていることを楽しんでいるのか、口元には笑みをたたえていて。
 見間違えるわけもない。
 あれは、自分の相方だ。
 でも、妙な違和感と、どんよりと重い何かが、胸の内をぐるぐると渦巻く。
 見間違えるわけがない、あれは、仁王だ。
 長年の仲間であり、おそらく最も数多くダブルスを組んだ、親友だ。
 なのに、何だ。
 この感情は、何だ。
 自分のこの目は、今少し先に立つ男を仁王だという。
 けれど、自分の中の、なんともいいがたい、いうならば直感。くさいことをいうならば、ダブルスパートナーとしての、仲間としての絆。
 それが、あれは仁王ではない、と、叫ぶ。
 あの男は、あれは、仁王君じゃない。
 でも、あれは確かに仁王君だ。
 感覚が、一致しない。
 妙なズレが、気分を害す。携帯を持つ手が、震える。まばたきもできず、目がくぎづけになる。
 ―――――この感覚を、自分は確かに知っている。
 これは、あの時のような、
 あの日、そう、あの曇天の乾燥した冬空の下。
 ネット越しに見た、ラケットを投げ捨て、自分に背を向け走り出した、
 あの時、の、
 あの、

「――――――っ、仁王君!!」

 違和感を断ち切るように、この奇妙な空間の空気を裂くように、彼の名前を呼んだ。
 ぴたり。
 揺れながら歩いていた仁王が、足を止め、ふい、と、こちらに視線を向ける。
 そのまま、すたん、と、仁王は小さな音をたて塀の上からアスファルトの地面へと着地した。
 ポケットに手を突っ込んだまま、少し背を丸めてこちらに歩いてくる立ち姿は、やはりどう見ても仁王そのものだ。
 そもそも、こんな奇抜な髪色にしている男も、それでいてそれがやたらと似合う容貌をしている男も、仁王を他にはなかなか見つけられないだろう。
 なのに、何故だろう。
 違和感は消えないどころか、仁王が近づいてくる程に、背中に寒気が走る。

「こんな所で何をしているんですか貴方は…今日は別所さんとのデートでは?」

 その違和感を消そうとしてなのか、平静を努めて何事もないように、いつもの通りだといった様子で、そう問うた。
 そうだ、そもそもの疑問はそこだ。
 今日は、口にこそしていなかったがあれほど楽しみにしていた、ダブルデートの日ではなかったのか。
 本来まだ遊園地にいるだろう時間であること、しかも幸村や赤也からの並外れた着信のことも考えると、何もなかったとは思えない。
 もし、何かしら関係性の好転があったならば、仁王は今こんな場所にひとりでいはしないだろう。
 寒がりのくせにコートも着ずマフラーもせず、休日の今日にわざわざ制服なんて着て。
 一体、どうしたというのだろう。
 仁王からの返答は、ない。
 ただ、うつむいたままこちらにつかつかと近づいてくるだけで、表情も読めない。
 だから、再度名前を呼んだ。

「仁王く、」
「――――――ああ、おまえさん、『こいつ』の知り合いか」

 よく知る口元が、よく知る声が、そう言葉をつむいだ。
 ああ、おまえさん、『こいつ』の知り合いか。
 その言葉の意味が一瞬では解釈できず、自身も固まりつくことになる。
 そんな柳生を、少し頭を上げ、仁王が見据える。
 見知った口元が、見知った顔が、にたり、と、笑ってみせる。
 仁王が、口を開いた。
 仁王が、笑った。
 なのに、
 その瞬間、それまで胸を渦巻いていた何かが、破裂するように弾けとんだ。
 仁王が、笑う。
 違う。
 仁王が、話す。
 違う。
 この感情は、この寒気は、この違和感は、このズレは、この、
 この人は、
 いや、これは、

「(―――――――――違う!!!!)」

 この人は、これは、仁王君ではない。
 これは、自分の友人ではない。
 自分の全てが叫ぶ。
 これは、違う。これは、仁王君じゃない。
 飛びのくように後ずさったその時、手の中の携帯が震えた。
 目の前に立つ仁王とよく似た何かから目が離せないまま、携帯を視界の端まで持ち上げる。
 『幸村精市』
 着信中とのその表示の向こうで、男が笑う。そして、近づいてくる。

「貴方、は、一体、」
「おまえさんは…ああ、思い出した。一回会うたな。前に」
「何を、」
「ネットの向こうで、『俺』と向き合うてた奴じゃろ、確か」

 その言葉に、凍りつく。
 それは確かに、つい先ほど自分が抱いた感覚。違和感を的確に射抜くそれだった。
 あの日、あの曇天の乾燥した冬空の下。
 ネット越しに見た、ラケットを投げ捨て、自分に背を向け走り出した、
 あの時、の、
 あの、

「『さよなら』じゃな」

 一瞬気を取られ、警戒を緩めてしまったからだろうか。
 いつの間にか真っ正面に迫っていた男の腕が、自分の首へと伸びていく。
 仁王、君。
 今ここにはいない友人の名を、心の中で呼んだ。
 恐ろしい力で喉をわし掴まれ、声にはならなかった。
 バランスを崩した体が後ろへと倒れていく中、手の中から震え続ける携帯が踊り落ちていく。
 被さるように自分の首を絞める男が、再びにたりと笑った。
 そのまま、もう片方の手が、眼前にかざされる。
 そして、柳生は、


□□□□


「………………ん…」

 重い頭を押さえて、起き上がった。
 辺りをぐるりと見渡せば、ふかふかのベッドにアンティークな室内。床には年季の入った深い紅のカーペット。蝋燭が立てられた照明に、木製の縦長なサイドテーブルには、紺色の花瓶に真っ赤な薔薇。
 間違いなく、ここは最初葵が寝かされていた部屋だ。
 ただ、最初目覚めた時とは違い、頭こそ重いが記憶ははっきりしている。
 休日、四人で遊園地へと出かけたこと。
 その途中、意図的に赤也と蓮夏とはぐれ、そのまま仁王とふたりで遊園地を回っていたこと。
 そして、ミラーハウスに入ってからの、仁王の豹変。駆け付けた赤也の青ざめた顔。鏡に引きずりこまれた瞬間見えた、こちらに必死に手を伸ばす仁王の姿。
 それからこの場所で目覚め、この場所が町内で以前から幽霊屋敷だと噂されていた『薔薇屋敷』なのでは、という仮説を立てた。
 そして、屋敷内を歩き回っていた際、あの仁王とよく似た黒外套の男に遭遇したのだ。

「(……あの変な遊園地は、何だったんだろう…それに、鏡)」

 鏡を渡り、果てのないおどろおどろしい遊園地へと足を踏み入れた。
 そこから逃げ出し、ミラーハウスに逃げ込み、柳の姿を鏡の向こうに見た。
 結局あの男に捕まり、次の記憶はまた薔薇屋敷に戻ってからのものなのだが、その後起きたことはあまり思い出したい出来事ではない。
 ひとりで頭をぶんぶんと横に振ってから、考え直す。

「(……柳君に薔薇屋敷って、ちゃんと伝え切れたっけ…)」

 せめて居場所を伝えたかったが、どうも伝えきれないままだった気がしてならない。
 再び脱がされていたブーツに足を突っ込み、立ち上がる。
 今は、のんきに寝ている場合ではない。
 意識を失う前、あの男は確かに大人しくしていろと葵にいった。
 それは、つまり、

「(あの人からの監視の目が、外れるってことだ…!)」

 ならば、自分が今できることは、ふたつ。
 この屋敷内を捜索して、仁王を、出口を、探すこと。
 仁王がどういう状況にあるかわからない以上、仁王の捜索より出口の捜索に重きを置かなければいけないのが、わかっていてもつらい。
 あの男と仁王は、別人だ。
 でも、

「(…『体』も別々なのか、私じゃ判断がつかない…)」

 もしかしたら、あの男は幽霊のようなもので、仁王に憑依しているのかもしれない。
 この短い間で、鏡を通り抜けたり現実では存在しえない遊園地に行ったりと、何度も超常現象に遭遇したのだ。
 ありえない話ではない。
 そもそもここは、『薔薇屋敷』でもあるが『幽霊屋敷』でもあるのだ。
 過去、実際に何度か仁王の豹変を目の当たりにしていることもるからこそ、そんな可能性を完全に否定することもできない。
 そして、もしもあの男が仁王に憑依しているのならば、葵に今あの男を仁王に戻す術は、ない。

「(……それ、なら、)」

 幸村たち立海テニス部の面々に事情を説明して、助けを求めることが、今自分にできる最良のことに思える。
 鏡の中に連れ込まれた時、あの場に居合わせた赤也から、きっと異常が起きたことは幸村たちに伝えられただろう。
 ついさっき、柳とも鏡越しに顔を合わせたのだ。どこにいるのかは伝えることができなかったが。
 きっと、仁王と自分を心配している。
 何か、連絡を取れる手段があれば、

「……そうだ、携帯…!」

 羽織っていたコートのポケットに慌てて手を突っ込むも、捜し物はそこにはない。
 その代わり、何か、冷たい感触が指にさわった。
 何だろうと思い、それを引っ張り出す。
 金具の部分から細長い輪を作り、二重に重なり合いしゃらんしゃらんと揺れる銀色のチェーン。
 小さな王冠と赤い薔薇のチャーム。青い薔薇のものと、ペアで販売されていた、もの。
 仁王と、揃いで買ったストラップだった。
 それを目線の高さまで持ち上げれば、再び涙腺が緩みそうになった。

「(………………仁王は、)」

 確かに、一緒にいた。あの男は自分が仁王だと主張するけれど、あの人は仁王じゃない。

「別所」 

記憶の中の仁王が笑う。 


 このストラップを自分と揃いで買った仁王は、
 自分が毎朝頼まれた朝食を届けに顔を合わせていた仁王は、
 教室で何気ない話に花を咲かせていた仁王は、
 コートで目を輝かせながら走り回っていた仁王は、
 中庭にあるフラワーガーデンで肩を並べた仁王は、
 一緒に展覧会に行った仁王は、
 部活仲間やテニスがだいすきな仁王は、冗談がすきな仁王は、
 自分のよく知る仁王は、どこに行ってしまったのだろう。




 だからこそ、扉を開き、暗がりの屋敷内へと走り出した。
 自分達の仁王を、取り戻すために。

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