「葵のために創ったんじゃ!」
花が飛びそうな無邪気な笑顔で、気がつけば目の前に立っていた仁王がそういった。
現状把握ができず真っ青な顔をしている葵の腕をつかんだまま、地面までひきずりそうな黒マントを羽織った仁王が駆け出す。
引きずられるように走り出した葵は、慌てて今自分がいる周囲を見渡した。
空はどうみても正常じゃない。暗めの色の縦筋で構成されたその空は、黒い何かでつぎはぎされている。その空に向かい、どこからか色とりどりの風船が絶え間無く飛んでいく。
宙に傾きながら浮いているメリーゴーランド。
地面に斜めにめり込んでいる巨大観覧車は、実際に稼動しているようだ。地中から地面へ奇妙な音をたて戻ってくるその姿は、どこかクロテスクで気味が悪い。
その向こうには緑色の沼につっこむジェットコースター。
園内には先程までいた遊園地同様、軽快な音楽が流れ続けているが、目の前の景色と耳から入る音楽のミスマッチ具合が更に不気味さを駆り立てる。
非現実的、という言葉が頭を過ぎったが、この場所はまさにその言葉が当て嵌まる。
ここは、何。
おかしい。
葵が顔をみるみる病的なまでに真っ青に染まっていくのにも気づかず、仁王は鼻歌を歌いながら葵の手を引き、先へ先へと進んでいく。
「ね、ねえ仁王…っ」
「なんじゃ仁王なんてよそよそしいのう、雅治って呼びんしゃい」
「わ、私、さっき鏡の中、落ちたよね…!?何、起きてるの?それに、ここ、どこ?さっきまでの遊園地…?なん、なの…ここ、アトラクションの中?」
「?ようわからんけど、ここは葵の遊園地じゃよ」
「私、の…遊園地…?」
現状が知りたいと聞いているのに、先程からまるで会話が成立しない。
そう思った瞬間『あの日』が、フラッシュバックする。
白い息を吐きながらも目を輝かせボールを追いかける、仁王。突然、柳生との試合を放棄しラケットを投げ捨て葵の元に走ってきた、仁王。フェンスをわしづかみ葵を真っ直ぐ見つめる仁王。目が覚めたように困惑した表情を見せた、仁王。そして、走り去っていく仁王の背中。
「……………っ放して!」
あの日の光景が鮮明に蘇った途端、無意識に、仁王の手を振り払っていた。
振り払われた仁王といえば、きょとんと首を傾げ、距離をとった葵に再び歩み寄る。
「葵、どうかしたんか?」
「あなた、誰…!?」
自分でもおかしな質問をしているのは、十分わかっている。
先程まで葵の腕を掴んでいた掌にも、日々ラケットを握ってきた事を証明するマメがあった。黒マントこそ普段とまるで違うものの、目で見える限り、目の前に立っている男は確かに『仁王雅治』だ。
―――――でも、
「仁王、じゃ…ない…」
目で見える限りは間違いなく『仁王』なのに、この男は自分の知る仁王ではないと、葵の勘が渾身の力をこめ否定の言葉を叫ぶ。
何が違うかと言われれば、言葉に表す事はできない。でも、全てが違う。
この人は仁王じゃない。
どんなに姿形を真似たって、仁王じゃない。
その勘に従い、目の前に立つ『仁王』をきつく睨みつけた。
が、仁王はそんな葵に臆することもなく、腹を抱えてくつくつと笑っていた。
笑い方も仁王そのものなのに、やっぱり彼は葵の知っている仁王じゃない。
「俺は、いや、『俺が』仁王雅治じゃよ?」
「え……?」
「さ、葵!案内しちゃるから一緒に周ろう!」
うまい具合に話を逸らされてしまった。そして仁王らしき男は黒いマントを翻し、満面の笑みで手を差し伸べてきた。
ぞわり、と、背筋に悪寒が走る。
気づけば条件反射的にその差し伸べられた手を叩き落としていた。目の前の男の顔が驚きの色へと変わる。が、そんなことを気にしている余裕がない。
――――――逃げなきゃ。
どんな状況にあっても人間は自分が最優先すべきことがわかるのか、葵は男の手をはたき落として瞬間、身を翻して走り出していた。
「葵ー何で逃げるんじゃー?」
のん気に間延びして後ろから男がそう尋ねてきたが、振り返りもしない。どこへ行けばいいかはわからないが、とにかく一目散に走っている。
「そうか、鬼ごっこしたかったんか」
じゃあ百数えるから逃げんしゃーい、と、けたけた笑う声も、こうやって姿を見ずに聞く限りは仁王そのものなのに。
でも、仁王ではない。
ならば、本当の仁王は?
気にはなるが、とにかく、今は逃げ出さなければ。
後ろにいる仁王らしき男からも、この場所からも。
「(まず、人の、いる場所に…っ!)」
そしてその後には、幸村達テニス部員に相談に。
文武両道を掲げる立海において、仁王達のような運動部員に比べれば優れているとは少しいいがたい自分の運動神経を極限まで振り絞り、葵は足元の石畳を蹴るように走り続ける。
数を数えるあの男の声がぐんぐん遠ざかっていくのを感じながら、葵はひとまず姿をくらますために角を曲がった。
曲がった先にも、遊園地のどこか不気味で楽しげな町並みは続いている。
―――この場所は、一体何なんだろうか。
この継ぎ接ぎだらけの空を見れば十分わかるが、ここは『普通』ではない。今、自分の前にあるのは理屈では説明できない『怪奇現象』なのだ。
走り抜ける町並みは、やはりどこもかしこもが可笑しい。
少し向こうには、細かい細工の施された赤い水のしたたる噴水が見える。
人がいる、と、立ち止まりかけたその先には、眼帯をつけたピエロ骸骨が山のような風船の束を手に持ち、それを順にひとつずつ手放し空にはなっていた。
そこから逃げるように駆け出せば、突如自分の足元からけたたましい笑い声が聞こえ、思わず転んでしまった。体を起こし、転んだ足先を振り返った時に目に入ったケタケタと笑い歌う花々を見た時には、もう声も出なかった。
抜けかけていた腰を拳で叩き、走り、走り、走る。
何なんだ。一体何なんだ。
息が切れる。それでも、走る。走る。
誰か、人は。人は?
勝手に音色を奏で、宙に浮く楽器のオーケストラの下を走り抜け、人を探す。この空間の出口を、探す。
そんな時、
「―――――おじぇうさん」
「!!」
しゃがれ枯れた声に、そう呼び止められ急ストップをかけた。
慌てて辺りを見渡せば、植え込みを挟んだ隣の大通りのベンチに、何か大きな物を前に置いてはいるが、誰かが座っているのが見える。
人だ、と、少しばかりの安心感を胸に駆け寄ったが、その人影に近づくにつれ、葵の足取りは重くなってしまった。
ベンチに腰かけていた人物は、背中がこれ以上ない程に丸く、頭から足先が隠れる程の黒いローブに身を包んだ、いかにもこの空間に相応しい、怪しげな人物だったからだ。
「……あ、あの…」
「おじぇうさん」
百を裕に超えたといわれても違和感のないしゃがれた低い声に、この人物が老人だということはわかった。
口調はとてもたどたどしく、滑舌は酷く、言葉を聞き取るのにも葵は眉間に皺を寄せてしまった。
そして、その老人の前には、滑車のついた大きなアンティーク調の木製の箱が置かれている。
大きさでいえば、売り場のカート程の大きさのそれはどうやら箱人形劇か紙芝居のそれらしく、装飾された箱には小さな紅い色のカーテンに、その上にはどこかの言語が書かれた小さな看板が掛けられている。
「にんぎうげき、みていかないかい?」
にんぎょう?と、おそるおそる葵が尋ね返すよりも先に、がしゃん、と、大きな音をたて、使い込まれたオルゴール音を奏でながら、男の前に置かれていた箱人形劇のカーテンが上がった。
思わずそちらに目を奪われると、驚いた。
「え……これ…」
小さな箱の中で紐に吊られ動いているのは、どれも見覚えのある人形ばかりだ。 着せられている服は氷帝や青学、それに立海のテニス部のジャージに間違いなく、人形達の簡易に描かれている顔やその髪の色も、すべて葵には見覚えのあるものばかり。
ゾッと背筋に悪寒が走ると、多くの人形が退場し、二体の人形だけが舞台に残る。
「また、なのさ」
葵が身を屈めていたため、箱の後ろに座る老人の姿が箱にすっかり隠れて見えなくなってしまっていたのと、すっかり箱の中の舞台に見入ってしまっていたせいで、声が聞こえた時葵はまた驚いてしまった。
箱の中の舞台の背景が入れ替わり、街中の背景から建物内のものになる。その絵は、葵がさっきまでいた薔薇屋敷を彷彿させるような、そんな絵。
そして、舞台にいる人形は、背中合わせのまま動かない。
どちらも銀髪で、黄色の衣装を身に纏った人形と、黒い衣装を身に纏った人形は。
「またおきてる、それらけなおさ」
「……おじいさん、何か知っ…」
屈めていた膝を伸ばし、箱の裏に座っている老人にそう尋ねようとしたその時、葵は言葉を失った。
音がところどころ飛んだ軽快な音楽を奏で続ける箱の後ろには、誰も座っていない。
愕然とする葵を嘲笑うかのように、箱は音楽を奏で続ける。
それでも、間もなく音楽はがちゃんという音と共に止まってしまい、幕も自動的に閉まってしまった。
そこでようやく我にかえった葵は、この箱からも逃げ出す勢いで駆け出した。
拳を握りしめて、走り、走り、走る。
が、走っていて気がついたことがある。
「(………ここ、絶対に違う方向に向かって走ってたはずなのに……また同じところに来てる…っ)」
何本かある大通りを進んでも、気がつくと必ず元の場所に戻ってしまうのだ。
強制的に元の場所に飛ばされているというよりも、一周してしまっている、という方が正しいように葵には思えた。景色に違和感はなく、ワープというよりも球体の上をぐるぐる走らされているような感覚に近い。
それに気づいた時にはまた泣きたくなったが、それでもここで諦めるわけにはいかない。なので、次から大通りは避け、細い道を選んで進むことにした。
それでも三度ほど同じ場所に戻ってしまった後、今度はジェットコースターが突っ込む緑の池から続く水路にかかる小さな橋を渡り、向こう側に行こうとしたのだが、
「きゃっ!?」
突然足元が大きく揺れ、派手に転倒してしまった。
なんとか橋に手をつき立ち上がるも、橋はまだ尋常では考えられない動きでゆらゆらと揺れている。
「もう、訳がわからない…っ!」
転んだ時に擦りむいたらしく、掌の下の部分が赤く腫れていて、じんじんと痛む。
それでも、葵は未だ揺れる橋の欄干を掴んで立ち上がり、涙を拭ってから欄干を伝い向こう側へと渡った。
夢なら早く覚めろ、と、頭の中で繰り返しながら、葵はまた走る。
走って、走り抜けて、次に目の前に現れたものに、葵は開いた口が塞がらなくなった。
「これって…」
目の前にある建造物は、立海生ならば誰でも見覚えのあるものだ。
それは、その建造物の絵が美術室のある階の廊下に複製画が飾られているからなのだが、その『建造物』が問題なのだ。
エッシャーの『物見の塔』は、騙し絵。ある一点から見ることで不自然ながら成り立つ絵であって、立体としては決して存在し得ない、目の錯覚を利用した絵画。実際には、存在し得ないのだ。
なのに、今目の前に存在している。
選ぶべき道の片方として、存在している。
「もう、何なの…っ!?」
何に化かされているのだろう。ここにあるものは全て、真っ直ぐ正面から受け入れようとすると頭がおかしくなりそうなものばかり。
しゃがみこんで頭を掻き毟りたくなったけれど、ずと向こう側からは男が葵を呼ぶ声が聞こえてきている。立ち止まるわけにはいかない。
改めて、目の前の道に向き合った。
ひとつは、童話のようなお菓子で出来た道にお菓子で出来た建物が建ち並ぶ、甘ったるいお菓子の世界が広がる道。行き止まりかどうかは、ここからではわからない。
もうひとつは、あの物見の塔のモニュメント。塔の二階から向こう側の建造物にハシゴがつながっていて、こちらも向こう側の建造物の先がどうなっているのかはわからない。
それでも、今は進むしかないのだ。
背後から、声が近づいているのだから。
そう自分を奮い立たし、再び葵は物見の塔の内部へと足を進めた。
そして、ひいひい息をきらしながらハシゴを渡りきり、次の建造物の中へと思い切り飛び込んだ。
履いていたロングブーツのせいで着地時に少しよろけたが、床に手をつき、なんとか体勢を整え顔を上げた。
のだが、
「………何、これ…」
目の前に広がるのは、さっき以上の、異常。
「(これは夢だ、これは夢だ、これは夢だ、これは夢だ…っ!)」
奥へ、奥へと広がる空間は、階段や壁や天井、通路や扉が多々混在し、上下左右ぐちゃぐちゃな騙し絵のような姿をしている。
迷路、と、そのひと言で片付けるには、言葉が足りない。
夢、と、そのひと言で片付けたいと思っても、目の前の現状は何も変わらない。
短時間の間に叩きつけ続けられた悪夢のような現状に、葵はもう何も言葉が見つからない。文句すら、出てこない。完全に打ちのめされた気分になった。
それでも、
「(………立ち止まってたら、さっきの仁王みたいな人に…追いつかれる)」
一種の諦めを持って、葵は身近にあった扉の前に立った。
そしてその扉を開き、先へ進む。
引き返す事だけは、絶対にできないのだから。
□□□□
あの不思議なモニュメントをなんとか抜け出すと、少し開けた場所に出た。
園内と変わらないレンガ畳でこそあるが、そこは円形に空間が広がっている。
園内を彩るためだけの張りぼての建物や井戸の間には、アトラクションらしきひとつの横長い建物があった。
そして広場の中央には、今度は水の色がまともな噴水が、勢いよく水を噴き出し続けている。
辺りを見渡しても自分が抜けてきたモニュメント以外ここに繋がる道はなく、どうやらここは行き止まりらしい。
「さっきまで、どこに走っても元の場所に戻っちゃったのに…」
これは一縷の希望なのか、それとも絶望なのか。
ついさっきまでどこに走っても元いた場所にぐるりと戻ってしまったことを考えれば、行き止まりということは『ここに何かがある』と、考えていいのかもしれない。
逆に、ただの行き止まりならば葵にもう逃げ道はない。このまま追ってきた男に捕まり、その先どうなるかはもう考えたくもない。
が、何にしろ、もう元きた道に戻ることはできない。今きた道は一本道で、今から引き返せばあの男と鉢合わせしかねないのだから。
戻ることができないなら、進むしかない。
葵は急いで広場の中央にある噴水の前に立ち、あたりをぐるりと見回した。
何かありそうな場所、何かありそうな場所、と、気持ちばかりが先走る。
走り続けたことで冬なのに汗もかいているし、正直これ以上走り続けるのも歩き続けるのも、体力的につらい。
昔漫画であったように、井戸の中へ飛び込めば違う場所へ出られるだろうか、とも思ったが、それより目についたのは、この場にひとつしかないアトラクションだった。
どこか異質な雰囲気を放つその建物に、葵は近寄る。
青い屋根を持ち、横に長い建物は何かのアトラクションらしいが、外から見るだけではあれが何のアトラクションなのかはわからない。
そして、扉の横にある小さな看板の英字を、葵は読んだ。
「ミラーハウス…?」
その文字を口にした途端、頭に映像が駆け抜ける。
ふたり肩を並べて歩く自分と仁王。
上にも下にも右にも横にも、鏡の中の鏡にも、数え切れないほどたくさん写る自分達の姿。突然叫び、自分を突き飛ばした仁王。
「あ……」
仁王が、鏡に写らない。
「………!」
そこまで映像がフラッシュバックした葵は、扉のノブに手をかけた。
そして、軋む扉を開き、その中へと飛び込んだ。
□□□□
ミラーハウスの内部は、ここに連れられる前、赤也達と遊んでいた遊園地のものとなんら変わりなかった。
何か手がかりはないかと辺りに気を配りながら進んでしばらくすると、少し遠くから扉の開く音と、仁王が自分を呼ぶ声が聞こえので、すぐにあの仁王らしき男もミラーハウス内に入ったことがわかった。
「(早く、逃げなきゃ…っ!)」
足を急がせながら考える。
あれは仁王じゃない。
会話をして違和感を感じてはいたが、あれは仁王の姿をした何か別の存在か何かであって、少なくとも葵の知っている仁王じゃない。
じゃあ、仁王は一体どこにいるんだろう。
まさか、あの黒マントの仁王に捕まっているのだろうか。
もしくは、あの黒マントの仁王は葵の知っている仁王本人で、何か幽霊の類に取り憑かれてしまっているのだろうか。
どちらにせよ、葵が今できることは逃げる以外何ひとつない。
「(どうしよう、どうしよう、どうしよう…っ!)」
どういう手段を使われたのかわからないが、意識を失う前、確かに鏡の中に引きずりこまれたのは覚えている。
その部分の記憶が少し曖昧になってはいるものの、自分は確かに赤也と、その彼女と、仁王と、四人で遊園地に遊びに来て、仁王とふたりで園内をまわり、ミラーハウスに入った。ここまではぼんやりとだが覚えている。
そこから、あの部屋で目を覚ますまでの記憶が、まったくといっていい程にない。
「……なんで、こんな事に…」
『――――別所?』
再び泣きそうになりながらそう呟いた直後、少し先から確かに、そう声が聞こえてきた。
聞き覚えのあるその声に、葵は狭い通路の中で再び駆け出した。
通路を左に曲がれば、少しだけ開けた空間に出た。
そして、自分がたくさん写りこむ鏡の中、一枚だけ自分を写さない鏡を見つけた。
その鏡の腰辺りの位置に、見覚えのある景色と顔が写っている。
「柳君…っ!!」
その鏡に駆け寄り、膝をつき、その鏡に縋り付いた。
鏡に写る柳の背後を見るに、どうやら柳はテニス部の部室にいるらしく、写り方からして、どうやらこの景色は部室の入り口付近に備えられている鏡から見える景色が写っているらしい。
『別所か…!?』
鏡の向こうで、まさかと言わんばかりの口調で柳が尋ねてきた。
声が届いている。
声が聞こえる。
会話が成立するとわかった瞬間、今までの恐怖が溢れ返るように涙が出てきた。
「や、なぎくん。聞いて、信じられないかもしれないけど、これ、本当に私なの」
泣きじゃくるせいで、声がひっくり返る。
それでも一生懸命に早口でそうまくし立てれば、鏡の中の柳も慌てて返事を返してきた。
『落ち着け別所、話は赤也から電話で聞いている。赤也以外の部員も、今ここに向かっているところだ』
今までに見たことがないほどに焦った様子で、早口でまくしたてる柳の額には、鏡越しでもわかるほどの汗が流れている。
『お前達に何が起きたんだ?』
「仁王、が、仁王が」
『赤也の話では、仁王がお前を鏡の中に引きずり込んだと聞いた。その詳細は後でいい、ひとまずお前と仁王は今どこにいるんだ!?』
「今は、よくわからないけど、さっきまでは確かに薔、」
「みーつけた」
背筋が凍りつく。
背後と、両脇から感じる気配に体が萎縮して、動けない。
体の機能という機能が停止してしまった葵の代わりに、鏡の向こうの柳の後ろから現れた幸村が『後ろにいる男』の名を、呼んだ。
『別所さん!仁王!?』
ゆきむらくん、と、その声は背後から伸びてきた手により塞がれ音にはならなかった。
ずるずるずる。
体は引きずられ曲がり角を曲がれば、もう幸村の姿はかけらも見えなくなってしまう。
「鬼ごっこは終了じゃな、葵」
帰るぜよ、と、前で自分を引きずる仁王によく似た男の笑顔が、鏡に写りこむ。
瞬間、全てがフラッシュバックした。
仁王と赤也、それに赤也の彼女である蓮夏と遊園地にやって来たこと。
お化け屋敷で敢えてふたりから離れ、仁王とふたりで園内を回っていたこと。
お土産屋のことも、ミラーハウスに入ったことも、そこで起きたこと、すべて。
突然豹変した仁王に、鏡の中に引きずりこまれたことも。
引きずりこまれたその時、鏡の中で本来の仁王が、遠ざかっていく中何かを必死に叫び、手を伸ばしていたことも。
後ろから名前を引きずりこんでいた仁王らしき男によって首筋を噛まれ、意識を手放したことも、すべて。
「(仁王……っ!!)」
再び鏡の中に引きずりこまれている今、仁王の名前を、呼んだ。
揺れる視界。水色のもやと水に溶け込む感覚の中、声にならない声で、仁王を呼んだ。
それでも、仁王は現れない。
腕を引く男と共に、ぐるぐるぐるぐる鏡の中を落ちていく。いくつもの景色が浮かんでは消える。そんな空間を、飛ぶように泳ぐように落ちていく。
キャパシティを超える目の前の現実に、再び意識を手放したくなったが、それより先に終着点が目前に迫る。
この夢か現実かわからない事態は、まだ続く。