「………………ん…」
瞼を開いた時、すぐに見えたのは白い布に投げ出された自分の手だった。
それから少しして、それはシーツだとぼんやりした頭が認識する。
暖かい布団に柔らかいシーツ、ふわふわと意識が少し浮かび、また沈み、それを繰り返す内に、ゆっくりと意識が戻ってくる。
そんなまどろみの中、少しずつ、少しずつ葵は目を覚ました。まだぼんやりとした頭を抱え、体を起こし、ひとつのある現実にようやく気がつく。
「ここ………どこ…?」
言葉にすれば、頭も覚醒し働き始める。
明らかに自分の部屋ではない高い天井に、首を横へ向ければ蝋燭が何本か立てられた照明。すぐ脇に置かれた装飾の施された木製の縦長なサイドテーブルには、紺色の花瓶に真っ赤な薔薇が数本活けられている。
体を起こしてわかったのは、今まで横たわっていたのが、自分には不必要なまでに大きなキングサイズのベッドだということだった。
床には深い紅のカーペットが敷かれていて、その色の具合から年期の入ったものだということも、わかった。
ベッドの上に座り込み、この現状に頭がついていかず、ぼんやりと呆けてしまった。
全く見覚えのない古びた洋室に、眠っていた自分。
どうしてこの場所で眠っていたのか思い出そうと頭を全力で稼動しても、眠る前の記憶がどうしても曖昧で、霞んで、はっきり思い出せるのがいつの記憶なのかもわからない。
自分の着ている服だけは確かに自分の物で、秋の中頃友人とショッピングに行った時に気に入って購入したものだ。これは、思い出せる。
「(……記憶喪失、なんてわけじゃなさそうだし…慌てず落ち着いて、ゆっくりと頭を整理していけば、きっと大丈夫だ)」
正直頭は混乱したままだし、心臓はばくばくと普段以上のスピードで鼓動を打っている。それでも、迂闊な行動はとれない。
思い出せないから何とも言えないが、こんな状況ならば、拉致された可能性もないとはいいきれない。むしろ、その可能性の方が高い。
葵は細心の注意を払い、できる限り音をたてないようにしながら、再び今自分のいる場所を確認し始めた。
よく見渡せば、履き慣れたブーツがベッドの横に綺麗に並べられている。そうっと足を通し、そしてようやくベッドの上から床へと足を下ろすことができた。
部屋は、ホテルのふたり部屋の寝室ほどの広さがある。
時代をひとつふたつ飛び越えたような古めかしさを見せる洋間には、ベッドと、木製のアンティーク調の洋箪笥。そして花瓶の置かれた木製のサイドテーブル。これまた木製の外套掛けには、葵が去年買ったコートとマフラーが掛かっている。
「(………この、コート…)」
今年に入ってからは、まだ使っていなかったはずだ。
ただ、いつ使うかは決めていた。
以前、誕生日に仁王にプレゼントされた蒼いマフラーに合うと、そう思って。
「………!」
思わず言葉が漏れそうになった口を、手で塞いだ。
そうだ、思い出した。
今朝、葵は確かに以前赤也に貰った遊園地のチケットを手に、このコートを着、仁王に貰った蒼いマフラーを首に巻き家を出た。
今着ているこの服だってこの靴だって、前日の夜に何を着ていくか散々迷ったあげくに決めた格好だ。鞄だけ周囲に見当たらないも、これは間違いなく赤也と蓮夏、そして仁王と遊園地に遊びに出かけた時の服装なのだ。
「(…じゃあここは、遊園地の救護室……な、わけはないし…)」
出かけ、そして駅で三人に合流し遊園地の門までやって来たところまでは思い出せたが、どうもその先の記憶がまだはっきりしない。
どうして遊園地に遊びに行ったはずの自分が、こんな古めかしい洋室で眠っていたのか。
他の三人は今どこにいるのか。
どんなに首をひねっても記憶のもやは晴れず、自分の記憶があやふやなことにも悪寒がしてきた。
とにかく現状確認が先決だ、と、葵はこれ以上ない程神経を張り詰め、おそるおそる扉へと近づいた。
「(……人の気配は、ない…よね…)」
細心の注意を払い耳を澄ませるも、どこからも音は聞こえてこない。
ひとまず深呼吸をして改めて部屋を見渡すと、ふと視界に窓が入った。
もしかしたら場所がわかるかも、と、忍び足で窓に近づき、少し力を入れるだけで軋む窓枠に手をかけ、重たいそれを必死に持ち上げ、金具につり下げた。
開いた窓から、冷たい空気が一気に部屋に流れ込む。
その時初めて暖房器具もないこの部屋が、十二月のこの時期なのに暖かく保たれていた事に気づき、少し疑問に感じたが、今はそれどころではない。
そう大きくない窓に首を伸ばし、外を仰いだ。
が、
「な……に、ここ……」
眼前に広がる景色に、愕然とする。
階下には、右から左まで一面赤い薔薇が敷き詰められている。
その薔薇と薔薇の間に、石畳の細い小道があるが、それは門に繋がっているようではなさそうだ。
少し向こうには、葵がいる建物を大きく囲むように古びた柵が扇形に続いている。
これが、建物の裏側ならばなんら問題はなかっただろう。
しかし、正面玄関らしき大きな扉はこの窓の真下にある。見えるのは柵ばかりで、門は何処にも見当たらない。
そして何より葵にショックを与えたのは、柵の向こう側に見える、柵が行き止まりとなっているおかしな小道だった。
あの小道を、自分は知っている。
古い洋館。
庭を半分埋め尽くす薔薇。
門のない柵。
行き止まりの小道。
「ここ…まさか、薔薇屋敷?」
立海生なら誰でも知っている、誰も柵の向こう側を知らないという幽霊屋敷。
が、もしこの考えが当たっているとすれば、自分は今その屋敷の中にいることになる。
「(でも…もし本当に薔薇屋敷なら、)」
自分はどうやって中に入ったのだろうか。
薔薇屋敷は鼠返しの高い柵に囲まれた、出入口が見つからない不可侵の場所。
しかも、遥か以前に面白半分に梯子まで用意し中へと侵入した立海生が数名いたらしいが、その帰り道にメンバー全員が不審死を遂げたという、いわくつきの心霊スポットだ。
そして何より気味が悪いのが、中庭一面に咲き誇る薔薇の花。柵の内側から建物まで、いつの季節も丁寧に手入れのされた薔薇は枯れることがない。
なのに、誰かの手により薔薇が手入れをされている光景を見た人物は、誰ひとりいない。
住宅街の奥地に広がる中世めいた屋敷の入口も、住人の有無も、誰ひとり知らない。誰もが不気味がり手出ししない。幽霊屋敷こと薔薇屋敷は、そんな場所だ。
「(それぐらいしか思い当たらないけど、じゃあ何で中に入れない事で有名な幽霊屋敷の中で、私寝てたんだろう…)」
薔薇屋敷かも、と、思ってしまった時から指先がどんどん冷たくなっている。自分のおかれている状態を推察する度に、今自分がどれだけ不可思議で危ない状況にいるのかもわかっているのだ。自分でいうのもなんだが、こんな状況で怖くならないわけがない。
記憶も何故か曖昧だし、ついさっきまでこんな場所で眠り込んでいたことを考えると震えが止まらない。
誘拐された?じゃあ何で記憶が飛んでいる?考えればきりはない。
「(私、確か遊園地にいて…?)」
確かに今日の朝仁王と赤也、そしてその彼女である蓮夏と駅で待ち合わせをして、遊園地の前に行った。
そこまでは、もうはっきり思い出せるようになった。
が、そこから先はどうしても思い出すことができない。
それでも、ただこの場にじっとしているわけにはいかない。自分をこの状況に置いた人間が同じ建物内にいると仮定して、この場に留まるのが得策とは決して思えないのだ。
考えるのはひとまず後にして、知っている場所か知っている人を探そう。
お化け屋敷と呼ばれる建物の中を出歩き回る事に迷う心こそあったけれど、そう心を決めて、コートに袖を通しマフラーを掴んで扉の前に立った。
ごくりと、息をのむ。
おそるおそるノブに手を伸ばし、出来る限り音をたてないように、それを捻る。
すると、
「………開いて、る」
閉められているかもしれない、という予想は簡単に裏切られた。相手に軟禁の意志はないのかもしれない。
上半分に盛大に薔薇の柄が掘られた木製の扉を開くと、そこには薄暗く広い廊下が広がっていた。
床には部屋と同じ色の濃い赤い絨毯が敷き詰められていて、天井は学校の廊下より少し高く、椅子か何かに乗ったところで葵には到底手が届かないだろう。
所々に飾られる装飾品の数々には、ここ数日で積もったとは到底思えない年期の入った分厚い埃が被さっていて、調度品も時代を感じる色褪せや変形が目立つ。その中でも所々に飾られている薔薇だけが煌煌と光を浴びていて、それだけが生を感じさせる。不気味な程に。
まるで本の世界の中のような現実離れした空間に、驚きより先に眩暈がした。
こういう場所の相場はミステリーだなぁ、なんて自分で思っておきながら、やはり足が竦む。が、今怯えている暇はない。一刻も早く自分の状況を把握して、できれば逃げ出さなければ。
「(本当に薔薇屋敷なら、外に出る扉があるかはわからないけど…とにかく一階に行こう)」
あちこち動き回れば、出会いたくない相手に出会う危険性も増す。もし自分が誘拐されたならば、誘拐犯は確実にこの建物内にいるに違いないのだから。
それでも、ただあの部屋で誰かやって来るのを待つわけにもいかない。
勇気を振り絞って、できる限り物音をたてないよう、葵は壁伝いに廊下を進んでいく。
「(………それにしても、)」
何処も彼処も古めかしい。
少なくとも、大人数がこの建物を使っている様子はなさそうだ。が、廃墟という程廃れてもいない。生花が飾ってあるのだから、誰かしら人の出入りはあるのだろう。
ふと、その誰かしらが本当に実在の人間なら、と、考えてしまった自分を殴りたくなった。自分で恐怖を助長させてどうする。
とにかく変な事は何も考えず、音をたてないよう気配を消して一階を目指す。
そしてしばらく壁伝いに周囲に気を配りながらゆっくりと歩みを進めていたら、無事階段を見つけることができた。
学校の階段以上に広く、部屋や廊下同様荘厳な造りをしていて、薄暗い。どうやら蛍光灯などの人工的な明かりはないらしく、蝋燭を使用するらしい照明は等間隔に見かけた。その照明には、今がまだ昼か夕暮れ時のためか、火は点されていない。窓から入ってくる明かりが全てだ。
一旦周囲を見渡してから、静かに壁から離れ、手摺りの間をおそるおそる覗き込んだ。
「(上も二フロアはあって、下も二フロア…ここは三階で、この建物は他に階段がない限り五階建てって事か…)」
とにかく今は、一階に降りるしかない。例え噂通り建物に出入りする扉がなかったとしても、この建物には窓があるのだ。いざとなれば窓から外に出て逃げればいいのだから。
あの高い柵を超える事ができるかといわれると自信はないが、ひとまず扉の有無の確認が先決だ。柵の事はそれから考えればいい。
そして何より重大な事は、ここから脱出するまで誘拐犯と仮定する相手に遭遇しない、という事だ。
幸いにも、床一面に敷いている赤い絨毯のお陰で、あまり足音をたてずに進んで来れている。
少し埃は積もっていたものの、今度は壁ではなく手摺りに手を添え、葵は一歩一歩ゆっくりと階段を下っていった。
そしてやはり階段の踊り場にも、窓の手前の木製のテーブルの上に真っ赤な薔薇が飾られている。
普段薔薇を見れば綺麗だなぁ、と、思うだろうが、薄暗い洋館の中で煌々と光る薔薇は、どうしても不気味としか感じられない。
そしてそのまま二階を素通りし、ついに目的の一階へと繋がる踊り場に差し掛かった。
が、そこである事に気づき、葵は爪先いっぱいに力をこめ、進もうとしていた足を踏み止まった。
「(…………人の、気配…)」
階段を降りた先右方向の部屋から、かすかに物音がする。
それは何か紙の捲れるような音で、室内にいるだろう人間はおそらく本か何かを読んでいるのかもしれない。
「(…………どうしよう)」
いくら物音をたてないよう気をつけても、すぐ近くを歩けば気づかれる可能性は高い。
が、二階から飛び降りて脱出、というのも、危険度は高い。幸村をはじめとしたテニス部の面々ならばそれぐらい軽いものかもしれないが、運動部ですらない葵にはハードルが高すぎる。それこそ骨折なんてしてしまったら、ここから無事脱出できる可能性が限りなく低くなってしまう。
そうなると、選択肢はひとつしかない。
「(………とりあえず左方向に降りて、出口と梯子を探さなきゃ…あと、電話も)」
ここが薔薇屋敷であるという証拠はない。
けれど、なぜか薔薇屋敷らしい場所にいる事だけでも外にいる人に伝えられれば、状況は大きく変わるだろう。
「(……慎重に、慎重に…慎重に、)」
今まで以上に慎重に、一歩一歩階段を下っていく。
そろり、そろり、とフロアに降り立てば、気温は低いはずなのに首筋に汗が伝った。掌にも汗をかいている。
すぐそこの部屋にいる人物が廊下に出て来たら、その場でおしまいだ。
――――怖い。
自分に何が起きたかまったくわからない状態で、そこにいる人間を誘拐犯と断定するのは間違いかもしれない。もしかしたら、道端で貧血かなにか起こし倒れていた自分を助けてくれた、そういう人かもしれない可能性だってある。
それでも、最悪の可能性を考えて動かなければ。命を落としかねない可能性だって、今この場にはあるのだから。
なんとか自分を奮い立たせ、拳を握りしめ辺りを見回した。
「(建物が横まっすぐではないんだ…廊下、どっちも途中で曲がってる)」
階段から右手の廊下も左手の廊下も折れ曲がっていて、どのくらい先まで続いているのかここからはわからない。ここから見える限り、玄関らしき場所も見当たらない。
更に気になる事は、三階に比べ、窓と窓との間隔が異様に広いように感じられるのだ。おそらく、五倍ほどはあるだろう。
加えて窓枠すら三階のものとは別の物のように見える。三階のものは小さなかんぬきがひとつつけられている程度だったのに、この階のものはもう少し仰々しいもののように見える。
と、その時だった。
「(…………あの、部屋…扉、開いてる…!)」
しまった、と、思った次の瞬間には足が恐怖で萎縮して、まったく動かなくなってしまった。
葵が立っている位置からは、半開きの扉の奥をしっかりと見ることができる。勿論、あちら側からも場所によっては葵がまる見えということだ。
人の気配のした一室はどうやら応接間のような場所らしく、奥行きから考えてもそれなりに広い部屋のようだ。おそらく、立海の職員室かそれ以上に広いように見える。
扉の隙間から見える暖炉らしき物からは燃料が燃えているらしく、ぱちぱちと火が弾ける音が聞こえる。暖炉が使われている、ということは、当然ながら使用している人間がいるということだ。
そして何より、階段にいた時から聞こえていた、紙をめくるような音。少し先のソファの先の床に見える、人影。
どうする。
今すぐにここを離れなければ。それも、その部屋にいる人物に全く気づかれないように。
が、この距離だ。
少しでも物音をたてれば気づかれてしまうだろう。むしろ、今のいままで気づかれなかったのが奇跡的だ。
どうしよう。
どうすれば。
このままではまずいと思いながらも、動くに動けない。
部屋の中に浮かび上がる影に、目が釘づけになる。
どうする。
早く、早くこの場から。
気持ちばかり焦って、どうにもできない。
そんな矢先、
その影が、立ち上がったのだ。
「――――っ!!」
見つかる。確実に、見つかる。
見つかることか避けられないならば、せめて逃げ延びなければ。頭の中でがんがん警鐘が鳴り響く。
そして背を向けて走り出そうとした、その時、
「――葵、起きたんじゃな」
ぴたりと、足が止まった。
彼いわく、様々な場所のものが混ざった辺鄙な方言。
聞き覚えのある、テノール。
緊張のあまり痛い程速く脈打っていた心臓の辺りを押さえ、おそるおそる振り向くと、
「……………に…」
薄暗い廊下でも、僅かな光を浴び銀色に輝く髪。
切れ長の色素の薄い瞳。
顔を特徴づける、口元のホクロ。
駅を降りあの海沿いの道を行けば、必ず目にする自校の制服。
そして何故か、彼の肩には彼の身長に対し明らかに長すぎる黒い外套がかけられていて、ネクタイの上あたりの留め具でずり落ちないよう留められている。外套の下の部分は、かなりの丈が絨毯の敷かれた床に引きずられてしまっている。
「に、おう……?」
「おはようさん」
見たこともないような満面の笑みで朗らかに微笑む仁王に、そしてその異様な姿に、この異様なシチュエーションに葵は言葉を失う。
何か尋ねたいものの何から尋ねればよいやら、口をぱくぱくと金魚のように開閉することしかできず、そんな葵の様子を見て、仁王は更に口元を押さえ、くつくつと笑った。葵の知る、仁王の笑い方だ。
聞きたいことは山ほどあるのに、何から聞けばいいのかわからない。あわあわと混乱する葵の肩を仁王はぽんぽん叩き、ちょっと落ち着きんしゃい、と、また笑った。
なぜ此処にいるか、葵が此処にいる理由を知っているのか、遊園地に行ってから何が起きたのか。聞きたい事は山のようにある。それなのに、どうも言葉がまとまらない。
「…そのかっこ、どうしたの?」
ようやくそう尋ねることができたが、仁王はにこにこ微笑むばかりでその質問には答えようとしない。
そんな仁王に、何か違和感を感じなかったわけではない。
それでも、現状がまったくわからないこの状況で、知っている顔に会えた安心感の方が大きくて、葵は大きく息をつくことができた。
例えもし、この建物内にまだ誘拐犯がいたとしても、仁王ほど頼りになる友人はいない。仁王とて同じ高校生であることに代わりはないが、仁王をはじめとした立海男子テニス部の面々は、常に大人以上の頭脳や能力を見せてくれる。特に、仁王は頭脳の面でも能力の面でも、だ。
状況が状況なだけに仁王に頼りきるつもりはないが、仁王がいるというだけで本当に心強い。
そんなことを考えていたら、突然手を取られた。
驚いて顔を上げれば、手を取ったのは勿論目の前に立っていた仁王だった。
「葵、行こ」
「え?」
そのまま仁王は歩き出し、当然手を繋いでいた葵も引きずられるように歩き出すこととなった。
床を引きずっている黒い外套を踏まないようにと足元に気をつけながら、仁王の肩の辺りの外套を弱く引っ張り、尋ねた。
「え、あの、仁王?その、どこに…」
「俺達だけの、遊園地じゃ!」
「遊園地?」
遊園地、と聞き、話は先ほどからまったく通じていなかったが少し安心した。
俺達だけ、という単語が気にならなかった訳ではないが、今この状況で頼れる相手は仁王しかいない。
自分はよく現状が理解できていないが、仁王は理解しているようだったし、遊園地ということはとりあえずこの場所から外に出ることができるのだろう。
そう思い、葵は上機嫌で歩き続ける仁王の後をおとなしくついていくことにしたのだ。
□□□□
「ほら」
「…………」
てっきり外に出るのだろうと思っていた葵の予想は、綺麗に裏切られた。
仁王が葵を連れて行ったのは屋敷の一室だった。
廊下の果てにあったその部屋は、葵が寝かせられていた部屋とはまた違う装飾が彫られた木製の扉で、両手開きの物で、中は部屋というよりも物置き、という言葉がしっくり当て嵌まるほど荒れていた。
学校の社会準備室のように荒れた室内のところどころに、おそらく元は高級なものなのだろうと思えるテーブルやら坪、絵画や古い洋服らが全て埃を被り散乱としている。
外に出るんじゃなかったのか、と困惑する葵はそっちのけで、仁王は物が壊れるのもいとわず、何か探すようにあちらこちらの布という布を引っ張り、粗雑に家具をどけていく。
それからすぐ、あった!と、仁王は布が被せられた何か細長いを探し当てた。
そして葵の肩を抱いて布を取り去ると、笑顔で仁王は目の前の物を指差したのだが、
「………あの」
「なんじゃ?」
「これ、鏡…だよね」
「鏡じゃよ」
何を聞いているんだ、と言わんばかりに呆れた視線を向ける仁王に、葵もなんだか何も言えなくなってしまった。
が、しかし、それでも目の前にあるのが鏡である事実は何も変わらない。
「ほら」
「え、ちょっ、」
背中をぐい、と押され、前のめりにつんのめる。
ぶつかる、と思った、その瞬間。
「きゃ…っ!?」
鏡の表面が水面のように揺れ、ぶつかるはずだった体はそのまま前へ前へと倒れていく。
視界が、青く染まる。
体に、やわらかい何かが纏わり付く。
倒れ、倒れ、頭から、落ちる。
最後の悲鳴はもう声にはならなかった。
ぐるぐる、ぐるぐる。
ふわふわ、ふわふわ。
鏡の中、不思議な感覚に包まれた空間に、ただただ葵はゆっくりと落ちていった。