「………………っ」
学校から帰宅し、崩れ落ちるように玄関をくぐり抜け、倒れ込んだ。
膝や頭が床に叩きつけられ痛んだが、何より頭が痛い。
ぶつけたから痛いわけではない。
たぶん、病気でもない。
でも最近ずっと、頭が痛い。
「くそ…っ」
再び必死に立ち上った。
鞄を放り投げ、マフラーをはぎ取り、上着を脱ぎ捨て、震える足を必死に動かし自室の扉を開いた。
部屋に明かりをつける余裕もなく、暗い部屋を探るように必死に前へ進む。
が、今朝自分が放置した服に足を取られ、転ぶようにベッドに倒れ込んだ。
息があがる。
汗が止まらない。
体の節々が、痛い。
頭の裏側から握りこぶしで殴りつけられているような衝撃が、体から意識を引き剥がそうとする。
がんがんがんがん、痛みは引くばかりか増していく一方。
痛い。
つらい。
でも、何よりつらいのは、痛みじゃない。
自分の息切れにまじり、自分の声が頭の裏側から響いてくるのが、つらい。
葵
葵
ようやくみつけた
ようやく会えた
待ってた、ずっと
さみしくて、つらくて
待ってた、また会えるって信じてた
ちゃんと謝るから
今度こそ、そばにいて
だから
もう、おまえさんはいらんよ
だって、俺じゃない
あいつの側にいていいんは、俺
俺だけだから
もう、返せ
はやく、俺を
俺 を 返 し て
「黙れ……っ!」
ダン、と仁王の拳がベッドに沈む。
頭の中の声はそれでも止まない。
以前異様なまでに眠たい時期があったが、今ではもうこの頭痛と声のせいで夜でも眠気さえ感じない。ベッドに潜り込んでも、ただ辛い時間が続く。ようやく眠れた時も、眠るというより痛みに意識が剥がされる、と、いったような状態だ。
そして頭の中の声は、仁王に話しかけ続ける。
何がいらないだ。
何を返せと言うんだ。
ふざけるな、
ふざけるな、
「俺は俺のもんじゃ…っ!」
衝動的に、痛み悲鳴をあげる頭を壁に打ちつけた。
その痛みが頭痛や声をかき消すような気がして、そのまま断続的に頭を壁に叩きつける。
次第に意識が薄れ、頭の中の声も消えていく。
ざまあみろ。
そう思った次の瞬間、仁王は頭の痛みに耐え切れず、フローリングの床へと倒れ込んだ。
□□□□
「う…………っ」
意識を取り戻した時、普段とはまた違う、外傷的な激しい頭痛に目眩がした。
幻聴を真に受けて、ひとりで怒鳴り、ひとりで壁に頭に打ちつけ気絶するとは、精神異常者もいいところだ。
明日の遊園地が終わったら、明後日には病院に行こう。少し前に行った時には異常なしと診断されたが、これが異常でなくしてなんだというのだ。もしそれでも駄目ならば、次は神社に足を運びお祓いをして貰おう。
これ以上先延ばしにできないことは、今日の異常な行動を見れば十分わかる。
この前の柳生との練習試合の時を考えても、あのくせ者揃いのテニス部の奴らをごまかし続けるのは、そろそろ限界。
「(――――潮時、なんじゃろ)」
悔しい。悔しい。
何で俺が、こんな目に遭わなきゃいけない。
明かりもつけていない暗い部屋の中、涙が出てきた。
それを制服の袖で拭った時、ふと違和感を感じた。
袖が、すでに濡れているのだ。
頭が急激に冷めていくと同時に、暗闇の中の違和感が次々と浮き彫りになっていく。
何だ、この匂いは。
ふらつく頭を押さえなんとか立ち上がり、壁に手をつきながら部屋の明かりをつけるスイッチを探した。
そしてスイッチを押した、その瞬間、
「――――――っ」
言葉が、まるで出てこなくなってしまった。
随分な時間、スイッチに手を当てた間抜けな姿勢のまま絶句して、ようやく出てきた言葉は、なんじゃこれ、という、これまた間の抜けた言葉だけだった。
惨状。
この言葉が、今のこの部屋にはまさにふさわしい。
室内はまるで空き巣に荒らされた後かのようにめちゃめちゃにされていて、何かに切り裂かれた枕カバーや布団からは綿が飛び出ている。
そして何故かフローリングや荒れたベッドの上には赤々と咲き誇る薔薇の花が大量に散っていて、この光景の異様さを増幅させている。
だが、それより何より驚愕したのは、全身鏡に写った自分の姿だった。
頭から膝元まで、べっとりと血糊に濡れた自分のその姿は、猟奇映画に出てくる殺人者そのもの。
自慢の銀髪も、どす黒い液体がこびりついていて、その隙間から光る銀色が鈍く光るその様は、異形としかいいようがない。
まさかとは思ったが、つい先程自分で自分の頭を壁に叩き付けたのが原因か、と思った。
首から上は負傷すると山程血が溢れ出すというし、と、自分にいい聞かせるように考える。
が、すぐに、現実がそれを否定する。
「………………なん、で…」
確かに、全力で叩きつけた。
あれだけ頭に打ち付けたならば、必ず怪我しているはずだ。
なのに、血は頭にもこびりついているのに、いくら頭に触れ傷を探しても怪我はどこにもない。
どこも痛みを感じない。
触れても、何もない。
なら、この血は何なんだ。何で怪我がないんだ。
何が、起きてる。
これから、どうなる。
誰か、誰か、誰か、
誰か、誰か、
誰、か、
そんな時、携帯が鳴った。
「…………あ…」
その音があのメロディーでなければ、きっとこんな状況で気にかけられなかった。
でも、それがこのメロディーだったから。
彼女がすきといっていた、あのメロディーに変えていたから。
彼女からの連絡がきた時にだけ、この曲が流れるようにしていたから。
正気に戻った頭を掻きむしり、ベッドの上に投げ出していた携帯に血まみれの手を伸ばした。
すがるように通話ボタンを押すと、雑音混じりに彼女の声が血がこびりついた耳に届く。
『あ、もしもし仁王?』
おう、としか答えられなかった。
ただ声が聞けただけなのに、泣きそうになった。
『明日ね、九時に遊園前駅改札集合だって。切原君が仁王にメールしたのに返信ないってぼやいてたから』
受話器の向こうでクスクス笑う、その彼女の笑い声を聞くだけで生き返る。
心が息を吹き返すように鼓動し、揺らいでいた自分という存在が、別所という存在により確立されていく。
俺は、別所がすきだ。
別所がすきだと感じている自分こそが仁王雅治で、この感情を持っているのは俺だ。
「わざわざすまんな」
『なんか、元気ない?大丈夫?』
「いや、明日が楽しみ過ぎてちょお疲れただけじゃ」
『あははは、可愛いね』
「俺、男じゃよー」
『男でも、仁王は可愛いよ』
「俺を可愛いなんていう奴、おまえさんだけじゃよ」
『そうかな?』
「そうそう」
携帯電話の向こうで、声をあげて笑う彼女が愛しい。
別所、別所。
柔らかい葵の声と、今の自分の姿があまりにもアンバランスで、心が落ち着くと同時にもっと泣きたくなった。
「別所」
『ん、なーに?』
「明日、おそろい買お」
『お揃い?』
「ストラップでもアクセサリーでも何でもええ。とりあえずおそろい欲しいんじゃ」
自分とはとても思えない発言だった。
鈍くない女子だったら、この一言でその先の展開を期待するような、そんな直接的な言葉。
自分らしくない、余裕がまったくない初恋をする女子のような、そんな台詞が口からすべり落ちる。
『おそろいってなんかいいね、買おう買おう!』
「…あんがと」
『でも買ったからにはなくしちゃやだよ?仁王しょっちゅう色んな物なくしてるけど』
「なくしてるんじゃなくて、いつもはいらんもんじゃから捨ててるんよ。気に入ったもんは死ぬまで大事にするから平気じゃ」
『本当ー?』
「ほんとほんと」
『じゃあ信じる。でも明日、楽しみだなー』
電話の向こうで無邪気に喜ぶ別所の頭に、その先の展開を期待するような発想はないらしい。
まあ、これが別所だろう。
『じゃあ仁王、明日九時に遊園前駅改札集合だからね!遅刻しちゃ駄目だよ』
「俺よりあのワカメのが問題じゃろ。ん、また明日な」
『うん、おやすみー』
それからすぐ、耳元から一定トーンで電話が切れた事を知らせる電子音が流れる。
しばらくの間その電子音にぼんやり耳を傾けていたが、電源ボタンを押し、電子音を断ち切った。
血にべっとり濡れたディスプレイを服の袖でぬぐい、そのまま携帯を操作しデータフォルダを開いた。
仁王のデータフォルダは、相手の許可なく撮った、悪くいえば盗撮写真が山のようにある。
その中の、以前部室で丸井の誕生日会を開いた時のフォルダを開き、下から順に眺めていく。
ホールケーキにかじりつくブン太。
クラッカーを鳴らす赤也。
部員以外からも山のように贈られたプレゼントの数々の、開封作業を手伝っている柳生。
柳とふたり並び、こっちにピースマークを作る笑顔の幸村。
ケーキをひとりで完食し、真田にゲンコツを食らい、真田に掴みかかるブン太と、ブン太の恐ろしいまでの食への執念に怯む真田。
そんな丸井をなだめるために、新たな食事を運んでくるジャッカル。
が、まさかの赤也との接触事故により、食事は全て真田の頭上にぶちまけられる。ここは我ながらうまいタイミングで撮れた写真だと思う。
そして、笑う別所。
「…………………別所」
そのまま携帯を閉じて、ふと部屋の隅に目をやれば、血まみれの自分の姿が鏡に写る。今にも泣き出しそうなその顔は、酷く情けなかった。
べっとり誰のものかもわからない血のついた携帯をベッドに放り投げ、うずくまるように膝を抱え頭を伏せた。
助けてなんて、言えやしない。