『明日?』
受話器の向こうで、仁王は珍しくきょとんとした声をあげた。
幸村や赤也に明日テニス部は休みだという確認も取っていたけれど、テニス部では珍しい休日に仁王が暇をしているかどうかは一種の賭けだった。
ついさっき、葵は先週買った二枚のチケットを片手に眺めながら、決して行動的ではない自分にしては珍しく、仁王を遊びに誘ってみた。正直突然明日出かけないか、なんて、なんとも無茶な振りだな、という自覚は一応ある。だが、明日誘おう明日誘おうと思っている内に、気がつけば前日になってしまったのだ。自分から人を誘い慣れていないこの上ない証拠だと、少し情けなく思う。
が、しかし、
『部活もないし、行きたいナリ』
と、仁王が快諾してくれたので、すぐに気分は浮上した。
「ほんと?」
『ちゅーか間違ってたらかなりの自惚れで恥ずかしいんじゃけど、それ、俺のために取ってくれたんじゃないんか?』
「うん、あたり」
鋭い仁王には、下手な嘘をついても隠しても通用しないだろう、という前提が最初からあったので、敢えて隠さず素直にそう返した。
今さっき仁王を誘ったのは、以前雑誌の広告部分に載っていた、期間限定の世界各国インテリア展だ。今注目されている若手のインテリアデザイナーの作品が沢山展示されるというそれは、ニュース番組で度々取り上げられたり、大きな駅の構内に広告が貼られたりと、随分大々的に宣伝されていたように思える。
あの騒動が起きた翌日、この広告のビラが駅のラックに並べられていたのを見た時、すぐに先日の雨の日、フラワーガーデンで将来の夢を語ってくれた仁王のあの穏やかな笑顔を思い出した。
それからの行動は早かった。
その足でビラに記名されていたコンビニに向かい、専用の機械でチケットを二枚注文し、ATMで金をおろし、そのままチケットを手に入れた。
仁王を誘おう、とか、考えることもしなかった。とにかく無我夢中で、あの時は買わなければという強迫観念に捕われていた。
『デートに誘われてしまったナリ。しかもチケットももう用意済みとは…別所は男前じゃのう』
別所はいい彼氏になるぜよ、と、今携帯電話の向こうでご満悦、といわんばかりに弾んだ仁王の声を聞いていたら、あの時の強迫観念なんてどうでもよくなってしまった。
「デートって、他人が聞いたら誤解するようなこといわないの。しかもいい彼氏になるって、ちょ」
『うちにお婿入りして欲しいぜよ』
「長男である仁王がいるんだから、お姉さんと結婚できたとしてもお婿さんにはなれないなーあはは」
『俺に婿入りすればよか』
「仁王がウェディングドレス着てくれるならちょっと考えようかな」
『……それは、だいぶえげつない図になると思うんじゃけど…』
「あ、確かに顔的には幸村君や丸井君とかのが似合いそうかも」
『いや、テニス部ん奴らは結構全員いい体格しちょるから、そっちが問題…ちゅーか想像したら気持ち悪うなってきたナリ…変なこというんはやめんしゃい』
「えー婿入りって言い出したのは仁王なのにー」
『わかったわかった降参じゃ、だからこの話はここで終わりじゃきに』
「はーい」
いつも通りのテンポで会話が進む。
この一週間も、そうだった。あの日の翌日も、仁王は何事もなかったように葵に話しかけてきて、テニス部のレギュラー達も、時折何か悩むように眉を寄せ考え込む姿を見ることこそ増えたが、何事もなかったように仁王や葵と接している。
「じゃあ、明日学前駅に10時で大丈夫?」
『ピヨッ』
「うんうん肯定ね、了解」
じゃあ、と、いうと、仁王もおう、と返してきたので、また明日、と告げ電源ボタンに指を伸ばした。
通話時間を示す数字が表示される画面から更に電源ボタンを押せば、待受画面に画面は戻る。
携帯電話をそのまま充電器に繋ぎ、その横に手に持っていたチケット二枚を置いた。
「(…………あの、練習試合の日から、もう一週間…か)」
あの日を、思い返す。
古い映画のワンシーンのように、あの日の光景が記憶に焼き付いている。
フィルムの一コマのような静止画の中、フェンスの向こう側に立つ仁王の姿が、蜃気楼のように揺らめく。
一コマ一コマ、光景が移り変わる。
目を輝かせテニスをする仁王。ラケットを投げ捨てた仁王。葵を真っ直ぐ見つめる仁王。困惑した表情を見せた仁王。そして、走り去っていく仁王の背中。
あれからずっと、考えていた。
一度話をしなければ、と、幸村と帰ったあの日からずっと考えていた。
誰にも邪魔されない場所で、何を話せばいいのかもよくわからないけれど、仁王と話さなければと、ずっと思っていた。
「(……………明日、)」
明日、約束を取り付けられた。
学校という友人や顔見知りが行き交う場所ではなく、大多数が第三者である場所に、ふたりで出かける。誰に邪魔されることもなく、話ができる。
そして考えてみれば、仁王と学校外で会うのは明日が初めてだ。
自分がこんな心境でなければ、仁王もあんなことがなければ、きっと楽しい一日になっただろう。それが、唯一悔やまれる。
気がつけば鏡に写っていた自分の眉間に皺を寄せていていたのに気づき、明日何着よう、と、気持ちを切り替えクローゼットを開いた。
引っ張り出したワンピースを手に、普段の仁王を思い返す。
きっと、大丈夫だ。
そう鏡の中の自分に言い聞かせているのに、鏡に写る自分はいつまで経っても眉の下がった情けない顔をしていた。
□□□□
「え」
「おう、別所」
約束の時間より十五分は早く着くよう心掛け家を出たのに、待ち合わせ場所である駅の改札近くに着いた時にはもう仁王がそこに立っていた。
改札横の柱にもたれ掛かるように立つ仁王は、遠くから彼を見つめる周囲の女性達からの視線などまるで気づいてもいない、という風に悠然としている。
葵を見つけると仁王は片手をあげて笑ってきたが、その笑顔が目に入らないほど周囲の女性達からの鋭い視線が突き刺さる。仁王といる限り覚悟していたことではあるが、まあ気分はよくないというか、相変わらず怖い。
「まだ十五分も前なんに、早いのう」
「私が早いなら、私より先に着いてた仁王はすごく早いよね…というか、何分前に着いてたの一体」
「はは」
ほら行くぜよ、と、ぽんと葵の肩を叩き、その場にいる女性達から自分の体に葵の姿を隠すように仁王は葵の腕を捕み、引き、駅構内へと足早に歩きだした。
いつの間に買ったのか、ほい、と、現地までの切符を手渡され改札を通り抜ける。
お金、と声をかけると、昨日学食で肉まん買った代金、と、白々しい顔で返された。
昨日すでに肉まんの礼って私数学の宿題見せてもらったよね?と問うと、なんのことじゃ、と、仁王はこれまた大袈裟なまでににっこりと笑ったみせた。
こうなったら、仁王はてこでも自分の主張を曲げない。
仕方なくあとでお茶おごるからね、と呟くと、横で仁王がけたけた笑う。おそらく後でも真面目に取り合ってはくれないだろう。わかっているが、どうしようもない。
「いつも仁王には全然敵わないなぁ…」
「むしろ俺に張り合えるような奴はろくな性格しとらんよ。ほれ、柳生とか幸村とか」
「ふたりに怒られちゃうよ?」
「別所が喋らなきゃ俺は無事でおれるけぇ」
だから、しー、と仁王は茶目っ気いっぱいに口元に手を当てる。ホーム近くに立っていた部活帰りらしき女子高生が甲高い悲鳴をあげた。
葵本人がそれに苦笑いを浮かべたことに仁王が内心肩を落としたのだが、仁王がそれを悟らせるわけがなく、その話は電車の到着と共にうやむやに流れるのだった。
□□□□
「「おおお…!」」
会場はインテリアを扱うだけあって、それはお洒落だった。入口から入ってすぐ、四階まで天井まで吹き抜けになっていて会場内は明るい。パンフレットによると、出展した地域ごとに階が分かれているらしく色分けもされていて、下から上を見上げると綺麗なグラデーションになっている。客の入りも程々、盛況しているように見える。
入口で手渡されたパンフレットを片手に、指定された順路をふたり並んで時折足を止めながら進んで行く。
そして、仁王が建築、インテリア方面を目指していると言ったのはやはり嘘ではないと、すぐにわかった。
テニス程ではないにしろ、展示物に釘付けになり、説明書きを真剣に読んでいるその様子は、普段の仁王とは思えないほど真面目な姿だ。
これは何年頃に流行った柄でな、と、説明書きに付け足すように葵に説明をする仁王は表情こそいつも通りだったが、声が少し生き生きしているように葵には感じた。
葵は仁王を誘う事に頭がいっぱいで、このインテリア展への関心は特になかったのだが、実際こうやって足を運び実物を見て仁王に詳しい説明を受け、楽しそうな仁王を見ていると、やはり楽しくなってくる。
が、あともう少しで通路を一周するという、そんな時、事件は起きた。
「うおぅっ!?」
隣を歩く仁王が、突然奇妙な悲鳴をあげたのだ。
「え、ど、どうかした?」
「なんか、足に後ろから衝撃が…」
「足?」
立ち止まり眉根を寄せる仁王の足元に、視線を落とすと、
「………手?」
「て?」
仁王の右足に、白い小さな腕が巻き付いていた。
そのホラーのような光景に一瞬ぞわりと鳥肌が立つも、すぐに他の髪やら足やらが足からはみ出て見えたので、仁王の足に後ろから子どもがしがみついているのだとわかった。
「なんじゃ、このちまっこいの」
ひょい、と、仁王が自分の足にしがみつく少年の首根っこを掴み、ひょいと自分の眼前まで軽く持ち上げた。
仁王の眼前まで持ち上げられた少年は、小学校の低学年くらいに見える。この季節に白い腕が見えたのは、空調がいいお陰でトレーナーを腕までまくっているからのようだ。
どうしたの、と、葵が尋ねようとしたが、少年の様子がどうもおかしい。
何かに怯えたかのよう険しい表情をしていたのに、顔色は驚愕の色に変わり、目をまんまる丸め、みるまに目に涙が溜まっていく。最後には仁王の顔をじっと見ながら顔をぐしゃりと歪め、
「うわああぁ!白髪ぁぁぁぁ!」
と、わんわん泣き始めてしまった。
葵も仁王も、思わず一瞬言葉を失った。
「…なんちゅう失礼ながきんちょなんじゃ…」
「ま、まあ、ちっちゃい子はびっくりするよね、その髪…」
泣いている子供を掴み上げる仁王に、周囲の視線が集まる。銀髪であることもあってか、不良が子供に因縁をつけてるよ、なんてヒソヒソ声すら聞こえてくる。酷い言われようだ。
葵は慌てて仁王に少年を一旦床に降ろすようにいい、ようやく地に足のついた少年に目線を合わせ、尋ねてみた。
「君、どうしたの?この銀髪のちょっと目つき悪いお兄ちゃんに何か用事あった?」
「おい」
「…………おとーさん、だと、思ったから…」
「おやじさんと来たんか?」
「おとーさんと、おかーさん…」
落ち着き始めていたのに、少年の目に再び涙がじわりじわりと溜まっていく。
すぐに周囲をぐるりと見回してみたが、それらしい人影は見当たらない。
「もしや迷子…?」
「百パーそうじゃろな」
はぁ、と、げんなりした表情で仁王が溜め息をつくと、びくりと肩を揺らし、少年は葵の後ろにサッと隠れてしまった。仁王の額に珍しく青筋が浮かぶ。
「な、な、なら!入口のとこにあったインフォメーションに連れていった方がいいよね!」
「……そうじゃのう。…おいがきんちょ」
仁王が声をかけるが、少年は葵の後ろから出てくる気配はない。
葵の背中に冷や汗が流れる中、はあ、と、仁王が再び溜め息をつく。
そして次の瞬間、突然仁王はにゅっと少年の方へ腕を伸ばした。
「わあっ!さ、触んな白髪ぁ!」
「にににに仁王っ!さすがに幼児虐待はだめっ!だめっ!」
「別所、おまえさん人をなんだと思っとるんじゃ」
少年が驚き葵が目をまんまるにしてふたりが叫んだ僅かな間のことだった。
仁王はひょい、と、少年の小さな体を軽々持ち上げ、その右肩に担ぎあげてしまったのだ。
そのまま仁王はぽかんとしている少年を、担ぎあげの姿勢から肩に座るよう左手で姿勢を直し、右手でその小さな体を支える。
そこまでの一連の動作はあまりにも流れるようで、そして楽々としていて、葵も少年もただ唖然とすることしかできなかった。
「この方が探しやすいじゃろ、おまえさんのおかーさんとおとーさん」
何事もないといわんばかりの表情で飄々とそういい放った仁王に、葵も少年もただただ言葉を失った。
ん?と、首を傾げる仁王のその首と腕にしがみつく少年の目からはみるみる涙がなくなり、代わりにきらきらと輝いていく。
「白髪のおにーちゃん、おとーさんとおかーさん探してくれんの…?」
「入口んとこ行きがてら、な。俺もこのおねーちゃんもおまえさんの両親の顔わからんから、おまえさん一生懸命探すんじゃよ」
「…!うん!ありがとう白髪のおにーちゃん!」
「耳元で叫ぶんじゃなか」
いつものようにくつくつ笑うと、仁王は少年を肩に乗せたまま、人混みの中をすいすい歩き出した。
ほら行くぜよ別所、と、声をかけられ、慌てて少し先を歩く仁王とその肩に乗る少年の後を追う。
そして左側につき、こっそり仁王の表情を伺ってみた。先程に比べ、どうも表情に緩みがみられる。
「…機嫌、直ったの?」
「がきんちょに本気でキレるほど大人げなくはないナリ」
結構おとなげない一面があることも知っている上で尋ねたのだが、本人が否定しているのだからこれ以上いうのもまずいだろう。
これが柳生や幸村であれば、臆することなくそのことを告げてしまうだろうが、あいにく葵はせっかく直った仁王の機嫌を台なしにする気など毛頭ない。
仁王の機嫌の良し悪しについて考えるのは一旦やめ、葵は改めて横を歩く仁王を眺めてみた。
肩に少年を乗せていても、バランスが崩れる様子はまったくない。少年が後ろ髪を引いても咎めはするが、なんてことなく歩いている。
「それにしても、」
「ん?」
「そんなにらくらく担いで普通に歩けちゃうなんて、さすが立海テニス部レギュラーというかなんというか、男前だねー…」
きょとんとした仁王の肩の上で、白髪のおにーちゃんほめられたじゃん!と、少年がまた銀色のしっぽを強く引っ張った。
いててて、と、仁王は小さく悲鳴をあげたが、その表情はどうもその悲鳴とはちぐはぐとしている。
「おまえさんは俺に幸福を運ぶがきんちょじゃな」
途端に機嫌をよくした仁王の歩調があがる。
疑問符を浮かべる葵を見ながら、おねーちゃんってさりげなくひどいね、と、少年が呟いたのに、仁王は内心激しく同意したのだった。
□□□□
「仁王、何頼む?」
「んー……ココアにするかの」
少年を無事インフォメーションに送り届けると、そこにはすでに彼の両親が揃っていて、ようやく満面の笑みを見せた少年と別れ仁王と葵は近場の少し大きめのカフェに入った。
ブラックはかっこつけすぎか、と、仁王の脳内で計算が働いたことにも気づかず、葵はメニューと睨めっこを続ける。
すいません、と、ゆるく仁王が手をあげると、すぐさま制服を着た店員のひとりが飛んできた。
少し頬を染め緊張した様子のアルバイトらしきその子は葵の目にもとても可愛らしい感じだったのだが、仁王は彼女に目をくれることなく淡々と葵の分の注文も終わらせた。
それを見て、仁王が自分の注文するものにまで気を回していることにも気づかず、仁王ってやっぱり女の子の理想高いのかな、なんて葵が思っていることを知れば、きっと仁王はしばらくの間本気でへこむに違いない。
「以上でよろしいですか?」
「ん」
「あ、はい」
では、と、ぺこりと頭を下げ店員が奥へと姿を消す。
注文が終わると、なぜかお互い何も言葉を発せなかった。
店内を流れるクラシックと、他の客らの会話と、店内独特のコーヒーが淹れられる音や食器の音が場を占める。
そういえばね、と、何か話題を切り出そうとした、その時、
「話、したかったんじゃろ」
葵が話し出そうとするのを遮るように、少し困ったように笑いながら、仁王がそういった。
昨日自分が考えていた事をぴたりと言い当てられ、葵も面食らってしまった。
「あ…」
「この前の、練習試合」
その顔は当たり、と、苦笑いしながらいう仁王に、すぐ言葉が返せなかった。
そんな最中、お待たせしました、と、飲み物が運ばれてきた。
仁王と葵の前に飲み物が置かれ、また店員が去る。
湯煙があがり、視界が揺れる。
「………うん。だから、今日誘ったの」
やっぱな、と、仁王はまだ大きな湯気が揺れるココアに口をつける。
本当にインテリア展が素敵だったこと。迷子の少年に遭遇したこと。色々あったけれど、本来の目的はそれひとつだった。
一度話をしなければ、と、幸村と帰ったあの日からずっと考えていたのだ。
誰にも邪魔されない場所で、何を話せばいいのかもよくわからないけれど、仁王と話さなければと、ずっと思っていた。だから、今日彼を誘った。
きっと、仁王も葵に誘われた時から、わかっていただろうと、そう思う。
「この前の、」
「うん」
「この前の練習試合の時は、本当にすまんかった。信じてもらえんかもしれんけど、俺、あん時のこと何も覚えてなくて…」
自分でも、どうしてあんな事したのかわからん、と、仁王は消えそうな声でカップの中に視線を落とす。
その答えが思った通りなのか意外なのか、葵にもよくわからない。
あの行動は、例えどんな詐欺の手段だとしても仁王らしくなかった。だから、仁王が自分にもよくわからないといったのは、ある意味予想通り。
でも、仁王はいつも葵の二手三手先を読み突拍子もない行動を起こすから、ある意味意外。
なんにしろ、あの時のあの行動は仁王にとっても不解で、だからこそ今日の今日まで葵になんの弁明もなかった。そういうことなのだろう。
仁王のこの答えを、どう受け止めるか。
葵の答えは、もう出ている。
「仁王」
葵が名前を呼べば、仁王は黙って顔を上げた。
視線と視線が交わる。
「仁王が覚えてなくてわからないっていってること、追及したりなんかしないよ。だって、わからないっていってるのに聞くの、おかしいもん」
葵の言葉を、仁王はじっと聞いている。
が、しばらく黙り込んでから、静かな声でこう尋ねてきた。
「詐欺師と呼ばれる俺のいうこと、信じるんか」
言葉尻こそ上がっていないものの、それは確かに葵の答えを待つ言葉。
じっと真っ直ぐ葵の瞳を見つめてくる仁王は全く感情を悟られせない無表情だ。
でも、仁王のこの無表情は、何度も経験がある。
仁王のこの表情は、
「―――――仁王」
「ん」
「私、仁王の嘘によくひっかかるけど、さっきの仁王の言葉が本気だったか本気じゃなかったかくらい、ちゃんとわかるよ。だから、そんな不安そうな顔しないで」
そうじゃなきゃ、そんな確かめるようなこと、仁王は絶対いわないもん、と付け足すと、驚いたように仁王の目が見開いた。これは、あまり見れない表情。
前に、仁王の件について柳生と話をした時、思ったことがあった。
柳生はとても仁王という人間を理解していた。だからこそ、柳生のいった通り仁王のことをたくさん考えて、悩んで、ぶつかって、そうやって仁王と接し続けていけば、付き合いが長くなれば、自分も次第に仁王という人間がわかってくるのかもしれない。そう、思った。
昔なら、きっと仁王の無表情の意味も、わからなかった。
ああ、こうやってわかっていくんだな、と、今だからこそ思う。
「何かあったら相談して」
「…………別所、」
「仁王が解決できないこと、私に解決できるとは思えないけれど…でも、きっと話すだけで変わる思いや、異性だからこそ聞けることもあると思うから」
いつでも呼んでよ、と、いったところで、言葉が途切れた。
仁王は、すぐに言葉を返しては来なかった。
また、会話が途切れる。
店内の賑やかさだけが場を支配し、お互い言葉はなくなる。
再び 店内を流れるクラシックと、他の客らの会話と、店内独特のコーヒーが淹れられる音や食器の音が場を占める。
出過ぎたことをいっただろうか、と、ほんの少しだけ後悔した。
仁王のことを知ったような口をきき、もしかしたら仁王を不快にさせてしまったかもしれない。
不安に感じてしまった瞬間、どうしようもない焦りが全身を支配する。
膝の上で握り締めた掌が汗ばむ。
真っ直ぐ彼を見つめていようと思っていたのに、次第に目線も下へ下へと落ちていってしまう。
そんな葵の様子を見兼ねたのか、それとも何か別の考えがあったのか、別所、と、仁王がようやく声をかけてきた。
それでも顔をあげられない葵に、仁王は、
「――――あんがとさん」
泣きそうな、でも本当に嬉しいんだという思いを全面に出して笑っている。そんな表情でそういった。
「別所は、ほんにいい女じゃな。そんな奴にこんに心配されて、俺はこの世界で一番幸せもんじゃ」
湯気のたつココアに口をつけながら、ふにゃりと笑う仁王からはもう緊張も何も感じられない。
まるで担ぎつづけていた重荷を下ろしたかのように、その表情も、まとう空気も、なにもかもが、鎖でがんじがらめになっていたのが解かれたかのように、軽く明るくなった。
きっと、口には出さずとも、仁王もずっと心に重くのしかかっていたのだと、そう思った。
葵がこの一週間あの日の事を気にかけ続けていたように、話題にはあがらずとも、きっと当事者であった仁王は葵以上に重く受け止め、気にかけ続けていたのだろう。
だから、
「褒め過ぎだよ」
自分のたったあれだけの言葉が、今こうやって仁王の心を少しでも軽くできたのならば、心から嬉しいと思う。
結局、あの時何が起きていたのかはわからず終いだけれど、仁王自身かわからないならば仕方ない。そして、いつか原因がはっきりすることがあれば、きっと仁王は自分から話してくれるだろう。今はそう信じる他ない。
何はともあれよかった、普段の軽口が帰ってきた、なんて安心している葵の向かい側で、笑顔を浮かべながらも、ここまでいってもまだ駄目か、と、仁王が内心少し落胆していることは、まあ葵は当然知るわけもないのだが。
そこにタイミングよくケーキが運ばれてきて、さらに空気は好転した。
ふたり、笑う。
このままこの時が続くと、信じていた。少なくとも葵は、微塵の疑いもなく。