「姉貴、入るナリ」

 返事がなかったが、いらぬ気遣いは無用だろうと仁王は病室の扉を開いた。
 案の定、姉は点滴を腕にさしたまますやすやと眠っている。なんだかんだでまだ具合はよくないのだろう。いらない心配をかけるなとのことで、葵や赤也には敢えていわなかったが、入院の段階では、姉は目に見えて酷く衰弱していた。あの時から比べれば、顔の血色もだいぶマシになったように見える。
 静かに見舞い客専用の丸椅子をベットの横へと引きずり、できる限り音をたてないように腰をおろした。
 そして、眠っている姉に向かい、呟くように静かに話しかけた。

「赤也の計らいでな、今度別所と遊園地に行くことになった」

 もし姉が起きていたら、きっと散々ばかにして腹を抱えて笑い転げた後、当日できる限りかっこよくなれるよう協力してあげると豪語してくれただろう。
 自分の恋を知っている姉は、いつも協力的だった。
 ある日突然自室に押しかけてきた姉が、あんた葵ちゃんのことすきなんでしょ?と、ニヤリと笑いながら聞いてきた日は驚いた。
 知らない間に葵とは仲良くなっていたらしいし、たまにふたりでカフェに行くと聞いた時にはめまいがした。
 そんな仁王を見下ろしながら、何年あんたの姉やってると思ってるのとニヤニヤ笑う姉をみた時、おそらく自分は一生彼女には適わないだろうと悟ったのだ。
 だから、そんな姉が救急車で運ばれたと聞いた時、本当に驚いた。
 貧血、らしい。
 だが少し状態の悪い貧血だったため、こうして入院している。
 働き過ぎ、というわけでもないと思う。
 葵や部活仲間にはそう伝えたが、実際そんな様子はなかったし、会社の方にも両親が確認したところ特に大きなストレスになりそうなことはなかったという。
 柳生のいっていたような無茶なダイエットをしているようには、少なくとも自分の目からは見えなかった。
 でも、姉も一応女だ。
 影で見えない努力を積み重ねていたのかもしれないし、職場での苦労も、自分が思っている以上に大きかったのかもしれない。

「…姉貴も、女じゃったんじゃな」

 この呟きが万が一にでも本人の耳に届いていれば、おそらく即座に鉄拳が飛んできているであろう。
 でも、姉は青白い顔をして点滴を腕につけながら、寝息もほとんどたてずに眠っている。
 こんなに、細かっただろうか。
 こんなに、弱かっただろうか。

「…………なんか、滅入るのう」

 先に見舞いにきた弟が飾っていった、姉のすきなアネモネの花が、少し開いた扉からさしこむ風に揺れた。
 そんな僅かな風に、頭が痛む。

「(あー…何で薬、効かんのかのう…)」

 最近、頭痛が酷い。
 病院は嫌いだが、一度病院に足を運んだ方がいいかもしれないと思うほどの痛みだ。
 それに加え、眠気も凄まじい。意識せずとも気がつけば眠っていることもよくある。
 偶然に偶然が重なりテニス部レギュラーが自分の教室に集合した今日の昼も、四限から幸村達がやってくる頃までの間ずっと眠りこけていた。丸井いわく、赤也が自分の襟足を引っ張っても起きなかったとか。比較的眠りの浅い自分とは到底思えない。
 中学の時、幸村の予期せぬ大病があったからこそ、こういう症状を見逃してはいけないことは重々わかっている。
 ただ、検査を受け万が一何か発見されたとして、今は困る。今だけは困る。
 今月はまだレギュラー選抜戦が残っている。それに参戦できないのだけはできれば避けたい。
 そして、今月は葵と赤也達と行く、遊園地の予定がある。
 もし自分が行けないとなれば、きっと代わりに誰かが呼ばれる。赤也が配慮してくれるとは思うが、仁王の想いにまるで気づいていない葵をごまかし説得する力があの実直な赤也にあるとは思えない。
 そいつが葵とふたりで遊園地を回るなんて、耐え難い。そして、それは男女比を合わせるために男子であることは間違いない。
 少し前まで、テニスが全てだったはずなのに、と、今こうやって勝手な想像にすら腹が立つ自分を内心嘲笑いながら、ふと思った。
 恋愛は人を変えるというが、まったくもってその通りだと今なら自信をもっていえる。

「(……………そういえば、)」

 赤也に、にお先輩がそんなに優しい恋愛をすると思わなかった、と、いわれたことがある。
 どういう意味かと尋ねたら、相手を自分に依存させるように駆け引きを重ねて、相手が右往左往するその姿を愛でている。そんなのが『仁王雅治』っぽいだとか。
 確かに、それも楽しそうだとは思う。
 実際、自分に依存はさせてみたい。
 でも、俺に振り回されて、悩んで、苦しんで、泣いて、あいつにそんなことはさせたくない。そう思うから。
 いつも笑っていてほしい。
 屈託ないあの笑顔で、笑ってほしい。
 泣き顔なんて、見たくない。
 ましてや、俺のことなんかで泣かせたくない。
 自分でも、こんなに一途になれるとは思わなかった。
 こんな感情を、教えられるとは思わなかった。
 そんなことを考えているうちに、なんだか自分が恥ずかしくなってきた。
 自分の今の心の葛藤なんて誰にも知れるわけないのに、なんとなく辺りを見回してしまう。

「あーあ、こんなはだけてもうて…」

 自分が悶々と考え込んでいるうちに、姉は寝返りをうち、掛け布団がはだけてしまっていた。
 点滴をしてるのに、と、思わずため息。
 布団を直そうと手を伸ばした時、思わずぎょっと姉の首を凝視してしまった。
 それの気味の悪さに、背中に冷や汗が流れる。
 ざわざわと胸が疼き、鳥肌がたつ。

「………なん、じゃ…これ」

 姉の首の付け根にあったのは、ふたつ横に並んだ紅い点。
 まるで、吸血鬼に襲われたかのような、赤々とした傷。

「……何が、起きとる」

 自分の身辺が、何かに確実に侵され始めている。
 その何かが何なのかは、わからない。
 ただ、蜃気楼のようにゆらゆらと、自分というものがブレていく。
 足先から、指先から、頭の中まで侵食され、ゆらゆらゆらゆら。
 ふと、自分の姿を確認したくなって、病室に置かれている鏡を覗いてみた。




 ―――また、写っていない。



「…俺、おるよな………?」

 存在を確かめるように、自分の頬をそっと撫でた。
 低体温の自分の頬は冷たく、この生死が左右される白い箱の中で、生きているのか死んでいるのか、わからなくなった。



□□□□




「血ぃー…血ぃー…」

 ごろん、と転がれば、床を引き摺る程裾の長いマントが体に絡みついた。これはいかにも『それらしい』が、案外機能性に問題があるかもしれない。
 男は制服のズボンに絡みついた漆黒の布を引き抜いて、穴が山程空いた革張りのソファから立ち上がった。床の埃が足元を舞う。

「……あともうちょいなんに…」

 男は床と同じく数センチに渡る埃が積もった木製のテーブルの近くへ足を進める。
 以前は掛けられていただろうぼろぼろのテーブルクロスは、用済みといわんばかりに同じくぼろぼろのカーペットが敷かれた床に丸めて捨てられている。
 そして埃にまみれた室内の中、そのテーブルは唯一綺麗には埃が拭き取られた跡があった。
 が、本来主役である銀の食器や燭台は机の端へと追いやられている。
 代わりに机上の中心を陣取っているのは、ひとつの箱と写真立つだった。
 箱の方はしっかりした黒い厚紙で出来た、横幅より縦幅の方が少しばかり高い長方形の箱だ。容積は恐らくサッカーボールであれば二周りほど小さくしなければ納まらないような、大きいとも小さいともいえない、なんとも不思議な大きさである。
 写真立ての方は―――

「葵!もうちょいじゃ!」

 突然嬉々とした声色で叫んだ男は、箱を手に取り掲げ上げる。

「あともうちょい血が手に入れば、力が戻る!『俺』と葵が取り戻せる程の力が!」

 男の頭の高さより高く掲げられた箱の中で、持ち上げられた振動でからんからんと何かがぶつかり合う音が響く。
 が、男はお構いなしに、また箱を勢いよく自分の胸元に引き寄せ、箱を抱き締めた。先程より大きく音が響く。

「花を慈しんで、文学を愛し、季節を共に過ごして!今度こそ誰にも、何者にも邪魔されん!今度こそ、ふたりで……っ!」

 嬉々とした声が次第に悲観に暮れたそれになり、どんどん萎んでいく。
 頭も垂れ、しゃがみ込み、外套も彼を中心に半円状に床の上に広がる。
 箱を抱えるようにうずくまる男の背からは、すすり泣きが聞こえてくる。

「……好いとう、葵」

 言葉が、こぼれ落ちる。

「この世界の誰よりも、愛しとうよ……葵…」

 箱の上にぽたぽたと、雫が落ちる。
 屋敷の中は、男ひとり。
 喉が張り裂ける程に名前を叫んでも、ここには男以外誰もいない。

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