「やっぱり仁王だ」
雨が降ると、この中庭からは人気が消える。
この立海大附属高等部の中庭には、用務員や園芸委員の手によりこまめに手入れされた小さなフラワーガーデンがある。外から見る限りあまり見栄えのいいものではないのだが、真田程の背丈の植え込みと植え込みの間には幅百センチほどの入り口があり、そこを抜けると色とりどりの花々が来訪者を迎えてくれる。しかも一度中に入ってしまえば、外からは中にいる人物が見えない。
ぐるりと円を描く植え込みの中央には、少し小さめの白いベンチが二脚、背中合わせに設置されていて、それに簡単な白い屋根がつけられている。あくまで少人数向けらしいその空間は、実はこの学校の生徒にあまり知られていない。
中庭の中でも人目につかない隅の方にあるこの小さなフラワーガーデンは、このマンモス校の敷地内の施設の中でも、一二を争うほど脚光を浴びることは少ない。
他の施設に比べれば狭く閉鎖的で、地味ともいえてしまいそうな控えめな場所であるからだろうが、ひとりの時間を好む仁王にとっては都合がいい。
そんな、常日頃から人気の少ないフラワーガーデンは、雨の日になると来客率が限りなくゼロに近づく。わざわざ傘を開いてここにやってくる物好きなんてめったにいないし、しかも今は冬間近だ。
ということで、そんな物好きな自分は、カーディガンにブランケットを備えてここで本を読んでいたりする。
もしこれが柳であれば、本が湿気を吸うことを頑なに否とし、外で読書なんてするわけがない。
が、自分は本なんて内容さえ知れれば、よれていようが汚れていようが構わない。とにかく自分の時間が邪魔されなければそれでいいのだ。
だから、そんな場所にいる自分に声をかけてくる人物がいるとは微塵も思っていなかった。
「別所」
「あ、本読んでたの?邪魔しちゃってごめんね」
「いや、よかよ」
なんで俺がここにおるってわかったん?と問うと、二階の廊下の窓から銀色が見えた気がしてね、降りてきてみたんだ、と葵は少し照れくさそうに笑った。
なんで彼女はこうも可愛らしいのだろう。
葵がいるだけで、緑の匂いが強く湿気が多かっただけのこの空間が色を持つ。途端に花々が自分の持つ色を主張し始めたかのように、視界が明るくなる。ひまわり色の傘を片手に笑う葵を見て、この先見つけるはずだったろう世界中に散らばった自分の幸せがすべて今この瞬間に集まったような、そんなばかげた想いさえ抱いた。
恋の病、とは本当にうまい言葉だと思う。これは元の人格を破壊する病だ。
現に自分の頭は、つまり読書の時間、つまり自分の時間を邪魔をされた、なんて普段なら重要ことを些細なこととして処理し、この状況のメリットを指折り数えている。末期だ。
「んじゃ、別所も一緒にこれ、見るか?」
「見てもいいの?」
「誘っとるんは俺じゃよ」
「じゃあ遠慮なく」
狭いベンチの端に身を寄せ、葵の座るスペースを作ると、ちょっと申し訳なさそうに、でも少し嬉しそうに葵が傘を閉じ腰をかけた。
一旦閉じていた本をふたりの膝の上で開くと、わあ、と感嘆の声があがった。
「これ、もしかして建築の本?」
「ん。建築とかインテリアとか、意外じゃろうけどすきなんじゃ」
「初耳かも」
「まず人にあんま言ったことないからのう、仕方なかよ」
「でも仁王がインテリアって、なんだかすごく似合うよ。大学もやっぱりそっちに進むの?」
「そじゃな、たぶんそーするナリ。んでバイトして金ためて、北欧とかはじめに世界各国あちこち行ってみたいぜよ」
家族やテニス部の仲間くらいにしかこんなことは言ったことがない。それも、茶化しつつのことだ。
飾ることのない、自分の将来の夢。
そんなことを真面目に語るのも恥ずかしいし、内容が曖昧なだけあって胸を張って少し気恥ずかしい。
それでも、
話しておきたいと感じたから、素直に自分の気持ちに従うことにしてみた。このどこか閉鎖的な空間にほだされたのかもしれない。どちらにしても、夢を語るだけでこれだけ内心緊張してしまうなんて詐欺師形無しにも程がある。
が、そんな仁王の様子に気づくこともなく、葵は笑顔でへえー、なんて感嘆を交えつつ楽しそうに仁王の顔を覗きこんでいる。
「世界各国かぁ、きっと素敵だね」
「そじゃろ?」
「でもめったに会えなくなっちゃいそう。ちょっと寂しいな」
「…寂しいんか?」
「当たり前だよ!」
私達友達じゃないの!?と目に炎を宿し勢いよく拳を握る葵の姿に、嬉しさも半分ながら、少しがっかりしたのは言うまでもない。
ここは頬を染めて照れるとこじゃろ、と、むなしいツッコミを心の中にとどめ、別所にはしゃーないからマメに連絡しちゃるよ、といえば、葵は顔を綻ばせて喜んだ。その笑顔をみた途端、まあいいか、と思ってしまう自分は、もはや重症を通り越して再起不可だとすら思う。
「きっとだよ、約束だからね」
「おー」
「ずっと仲良くしてね、仁王」
すきな子にはにかみながらそう言われれば、頷く以外の選択肢なんてあるわけがない。
本音を言えば、連絡うんぬん以前に一緒に来て欲しい。
でも、たかが高校生の自分がそんなことを口にできるわけもなく、かといって冗談まじりに口にできるほど適当な思いでもなく、結局本音なんてほとんど伝えられやしない。
片思いというのはこんなにも厄介なものなんか、と、内心ため息をつくも、葵が隣で笑うだけでそんな自分の悩みはどこかに吹き飛んでしまう。
なあ、別所。すきじゃよ。
口には出せないから、心の中でそう呟いた。
こんなに自分の中で溢れて出しまいそうなほどいっぱいいっぱいな想いは、なぜすぐ隣にいる別所にこぼれていき、伝わってしまわないのだろうか。
どうやったらこの想いは伝わるんだろう。
どうやったら同じ想いを抱いてくれるんだろう。
「別所」
「んー?」
「…んにゃ、何でもなか」
「?」
「あ、ページ次にめくってもええ?」
「うん」
次のページをめくると、葵がそこを覗きこむ。
肩が触れる。腕が触れる。
しとしとと雨水が足元に滴り、水を得た花の香りが辺り一体にたちこめる。
花と水に囲まれたこんな場所で、こんな風にふたり寄り添って静かな時間を過ごせていることすら、まるで夢の中のように感じる。
片思いしている奴の中では、俺比較的恵まれてるんじゃね、と、今日はじめて前向きなことを考えた。
雨が降る。花と緑が自分達を隠す。
ずっとこの時間が続けばいいのに。
チャイムが鳴るまでのそのほんの僅かな時間、叶わないと知りながらも、ただそれだけを願い続けていた。
□□□□
「や、仁王」
あれから葵と別れ廊下を歩いていたところ、明るいその声が後ろからかけられた瞬間、きた、と思ってしまった。本人に気づかれてないことを祈るしかない。
「よ、幸村」
「やけに機嫌がよさそうだね」
「……そうか?」
むしろそっちのその笑顔が怖い。幸村のこの笑顔は、何か幸村にとって面白いものをみつけた時の笑顔だ。
面白いもの、といっても、それはあくまで幸村にとって、であるのが重要だ。自分達テニス部部員は幸村がその面白を手に入れるための駒であり、いわば下僕である。
この顔を見た時にはいつもろくな目にあわん、という仁王の心の中の悲鳴を聞き取ったのか、幸村はそんな怯えるようなことじゃないよ、と満面の笑みで付け足してきた。むしろ恐怖が煽られる。
「それでさ」
「………………おう」
「さっき仁王と別所さんが中庭にいるのを、偶然遠くから見たよ」
笑顔で爆弾投下された。
いやあ、あんな場所でふたりきりなんてやるじゃないか、と嬉々として喋る幸村の姿に目眩がしてきた。なぜこいつに見られてしまった。見られた相手が幸村とはなんとも質が悪い。悪すぎる。
「あんなに優しい顔ができるとは、知らなかったな」
「…………ほー…そ…そりゃあ、俺も見てみたかったのう」
「あ、写メ撮ったからよかったら見るかい?」
「……………」
「冗談だよ」
あんな距離で撮れるわけないだろう?と、からから笑う幸村に、制服の下の背中にだらだら汗が伝う。表情に出ないように努めたが、きっと幸村にはそんなもの通用しないだろう。
仁王、と改めて名前を呼ばれ、こちらもそらしていた目を幸村に向け直すと、真っ直ぐ真剣に仁王を見つめる幸村がそこにいた。その表情からは冗談なんて一欠けらも感じられない。
「彼女に出会え、彼女を知り、彼女にその感情を抱くことができたのは、きっと君の生涯の宝になるよ」
「…こっぱずかしいことを真顔で言うんは流石じゃのう」
「だろ?」
再びふにゃり、と表情を崩しほほ笑む幸村にぐうの音も出なくなってしまった。やはりこの男には敵わない。
普段だったら、こう直球で言葉を投げかけられると、自分は適当にはぐらかし逃げてしまう。
だが、
「…そうじゃな、幸せじゃよ」
そう言うと、幸村の大きな目がさらに大きく見開かれた。
「へえ…ここで素直になるとは思ってなかったな」
「俺だってたまには純粋で素直な一般高校生男子になるぜよ」
「そっか、別所さんへの想いだけは茶化したくなかったんだね。仁王、かーわいー」
「かわいいじゃろ?」
それじゃあ引き続き頑張ってね、応援してるから、といい、幸村は手を振り行ってしまった。これでとりあえず嵐は過ぎた。
それにしても、なんとも恥ずかしいことを堂々と口にしてしまったものだ。自分はいつからあんな言葉を言えるようになってしまったのだろうか。
「(………まあ、でも)」
こんなこっぱずかしいことを口にできるようになってしまった自分自身の変化が、そう嫌いではない、と思ったりする自分が、また自分らしくなさすぎて笑えてくる。