「―――…で、あるからして、ここのthatの用法は関係代名詞の…」

 四限のリーディングの授業中、葵は青色のハイテックを片手にじっとななめ数席前に座る仁王の背中を眺めていた。
 机に伏せる丸い背中は授業をまじめに聞く気がさらさらないらしく、規則的に浮いて沈んでいく。要するに、寝ている。
 朝、葵はいつものように仁王に朝食を届けた時、葵はもう一度だけ昨日のことを尋ねてみた。
 でもやはり仁王は昨日のことを覚えていないらしく、葵が再び尋ねたせいでむしろ、自分は何かやらかしてしまったのかと仁王が不安がるようになってしまった。
 変態とまで呼ばれるような何をしたんじゃ俺、と、本気で困惑しているように見えた仁王をそれ以上責めたてることは、やはりはばかられた。
 本気で覚えていないのか。
 もしくは、昨日の仁王のあの行動は、彼にとってなんら問題のない普通のコミュニケーションであるのか。
 または、これからやらかす予定の詐欺の布石だったのか。
 自分が悩んだところで詐欺師と謡われる仁王の心境なんて測れるはずもないが、誰かに相談するには内容が恥ずかしすぎる。
 こうやって少し思い返すだけで、なんだか顔が熱くなってきた。

「―――…、別所!」

 ハッと顔をあげれば、クラス中の視線がこちらに向いていた。
 仁王もいつの間に起きたのか、体を完全に机から起こしこちらを見ている。
 まずい、と思った次の瞬間、気がつけば教科書片手で目前に立っていた教師が苦笑いまじりに葵の頭をぺしりと教科書ではたいた。

「おまえ、仁王に何の恨みがあるのかしらんが、そんな殺意をこめた視線を送るのは休み時間にしろよー」
「さ、殺意!?」

 名指しされた仁王は珍しく目をまんまるに丸めると、今度は背中を丸めてくつくつと笑い始めた。クラス中もそれにつられて笑いが広がる。
 ち、違います!と慌てて否定したが、もはや葵の悪あがきにしか見えないのだろう。
 さらに、仁王が雅治傷心じゃ、なんて大げさな振りつきで言ったせいで、ますます教室内の笑いの渦は大きくなった。葵の言い訳を聞こうとしてる人物なんて、もはや誰もいない。
 生徒同様笑い続けていた教師が話題を授業に戻し、場は一応おさまった。葵も恥ずかしさをこらえながら教科書に視線を戻す。が、授業なんて聞いていなかったのだから、当然内容がわからない。
 この時間はもう諦めよう、と、再び昨日の仁王についてを考え始めることにした。
 昨日のことを相談するとしたら、一体誰がいいだろうか。
 第一に、口の堅さ。
 次に、的確なアドバイスを返してくれそうな頼りがい。
 ただ、あの仁王の思考が読めるような人物が果たしているのだろうか。
 一瞬幸村の存在が頭を過ぎったが、それと同時に、次の日テニス部全員に相談内容が知れ渡ってしまっている光景が目に浮かんだ。……幸村は、やめておこう。下手したら仁王にまで知れてしまいそうだ。
 仁王と思考が似ていそうな奇特な人物なんて、そうそう、

「(…………あ)」

 いた。
 葵は授業が終わると同時に、弁当とブランケットを片手に駆けだした。
 行き先はもちろん、彼のいるクラスである。


□□□□


「お昼、急に一緒になんてごめんね」

 学生ホールの端の方にある二人席に腰を下ろしてすぐ、葵は柳生に頭をさげた。
 昼食時の学生ホールの賑わいは、それはもう凄まじい。
 先輩に頼まれたのか、必死の形相で大きいテーブルを確保する一年生。
 日替わりで当番を決めて席を確保しているのか、毎日必ず特定の場所にいる女子達。
 そんな中で、この二人席を確保するのは至難の業だった。葵ひとりではおそらく歯も立たなかっただろう。
 まあ、テニス部の一年生が柳生と葵に席を譲ってくれただけと言ってしまえばそれまでだが。

「いえ、私は構いませんよ。後から仁王君に羨ましがられそうですが、それをからかうのも楽しいので」
「仁王が何で羨ましがるの?」
「別所さんと仁王君は普段からとても仲が良いでしょう」

 ああ見えて意外に友達大すきっ子なんですよ、と、柳生は弁当の蓋を丁寧に外しながら笑った。
 確かにね、と、葵も笑いながら弁当の蓋を外す。

「それで、仁王君の件で何か私に相談したい事があるんですよね?」
「うん、本当に…って、あれ?私柳生君に言ったっけ?」
「いえ。ですが別所さんが突然私を呼び出すなんて、あの困ったダブルスパートナーの事に関してだけだと思ったので」
「……さすがだね、柳生君を呼んで正解だったな」
「そう言って頂けると光栄です。あ、いただきます」
「あ、うん。いただきます」

 ふたり揃って手を合わせ、弁当を前に深々と頭を下げる。
 弁当に手をつけながら葵は話を切り出した。

「昨日ね、放課後に仁王を探してて、教室で寝てるとこ見つけたんだ」
「またですか」
「え?」
「あ、横槍を入れてしまってすみません。彼最近なんだか体がだるいらしく、朝練や部活後も部室のベンチでよく寝てるんですよ」
「そうなの?」

 尋ねてからすぐ、ついさっきの時間も仁王は寝ていたことを思い出した。よくよく考えれば、その前の仁王がすきなはずの数学の時間も、だ。

「大丈夫かなぁ…それ」
「大丈夫でしょう、たぶん」
「…柳生君てさ、いつも几帳面だけどたまに適当になるよね」
「…先日仁王君にも言われました」

 やっぱり、という言葉はさすがに失礼だと思ったので苦笑いでのみこんだ。
 紳士といえど柳生もひとりの高校生。仲良くなってからそんな一面がちらほらと垣間見えるようになったのが実は楽しかったりもする。同じことを指摘した仁王も、きっと同じことを思っているだろう。

「それで、昨日の仁王君がどうかしましたか?」
「あ、うん…それがね、なんか起きた時の仁王が…なんだか別人みたいだったの」
「別人、ですか?」

 首をかしげる柳生に、どう昨日の仁王を的確に伝えられるか考えてみた。
 そして、

「なんというか…色気全開?」

 結論が、これだ。
 自分の語彙力のなさに泣けてくる。それに、女である自分がいうには、なんともむなしい言葉である。
 が、仁王においてはそれが許される。
むしろ、それがふさわしい。長い間友人関係にいたせいでそれを多少忘れていた。そして、思い出した。仁王について、考えた。
 はじめて仁王に出会った時に感じた、あの憧憬。
 頭をなでてくる、あの手の暖かさ。
 気心知れた仲である相手にしか見せない、気の緩んだあの笑顔。
 自分の知る仁王は、確かに詐欺師とうたわれる異名の通り飄々としている面もある。でも、いつも身近に感じて、暖かくて、優しくて、それが自分のよく知る仁王雅治という人間だった。

「仁王はずっと近くにいたのに、昨日のあの時の仁王は…知らない人みたいだったから」

 昨日のあの時の仁王は、抱きしめてくる腕の暖かさも、笑い方も、すべて知らない人のようだった。
 だからこそ、
 だからこそ、昨日みた仁王がなんだったのかが、知りたい。自分の知らない仁王を、知りたい。そう思うんだと思う。

「ああ、ついに本腰入れ始めたんですね」
「え?」
「いえ、こちらの話ですから気になさらないでください」
「?うん」
「あくまで私個人の見解に過ぎませんが、その件について気にしすぎる必要はないと思います」

 あまりにも柳生が平然と答えるので、もしかしたら私より仁王と付き合いが長いから、あの仁王の変化について知っているのかもしれない、と、ふと思った。
 確かに自分は仁王と仲がいいつもりだが、柳生が中学時代から今日まで強豪テニス部で共に過ごしていた時間を考えれば、自分と仁王の時間なんて微々たるものでしかない。

「…私が知らなかっただけで、あの人格豹変はよくあることだったりするの?」
「きっとそれは接している内にわかってきますよ」
「………そうかな?」
「ええ」
 どこか嬉しそうに答える柳生は、なぜか途端に箸を机に置き、

「や、柳生君?」

 深々と頭をさげた。

「別所さん、仁王君をよろしくお願いしますね」
「え…」
「どうか引け腰になることなく彼に接してあげてください。そして、仁王君と別所さんのことは仁王君と別所さんにしかわかりません。どうか彼のことをたくさん考えて、悩んで、ぶつかってやってください」
「……嫌がられたり、しないかな?」
「嫌がったりなどしませんよ」

 そう断言してくれる柳生に、安心と同時に羨ましさを感じた。
 柳生はこんなにも仁王という人間を理解してる。
 だからこそ、柳生のいう通り仁王と接し続けていけば、付き合いが長くなれば、自分も次第にわかってくるのかもしれない。そう考えると少し気分が軽くなった。

「柳生君!私、柳生君みたいに仁王の親友になれるように頑張るよ!」
「(仁王君ご愁傷様です)ええ、是非頑張ってくださいね」

 葵が笑顔で去ってから、柳生はふところから携帯を取り出した。
 彼女は親友といったけれど、友情なのか恋慕の念なのか、履き違えている可能性はまだある、と、自分の親友らしい白髪頭以外の部員にメールを送ると、彼も上機嫌で教室に帰っていった。


□□□□


「あ、仁王」

 廊下を歩く仁王は目立つ。
 他ではめったにお目にかからない銀髪、しっぽのように長く伸ばされた襟髪、スポーツ選手らしからぬ丸まった背中、長い足。すべてが人の目を惹きつける。
 呼ばれた事に気がついた仁王は、足を止めくるりとこちらを振り向いた。
 そしてフッと口元を緩ませた仁王の一連の動作を見て、そんな動作のひとつひとつが様になるのはすごいな、と改めて感心しつつ、葵は仁王の元へ駆け寄った。

「これはこれは、授業中殺意をこめた視線を俺をくれとった別所さんじゃ」
「…頼むから、それ…忘れて」
「いーや、そんな熱い視線をもらっちゃあ簡単に忘れられんナリ」
「熱い視線って、誤解招くような発言しないの!ばか!」
「…………ピヨ」

 オーバーなまでにしょぼん、とうなだれる仁王のこの姿が演技なのはわかりきっている。が、それでもどこか罪悪感を覚えてしまうのは、さすが詐欺師と呼ばれる男のなせる技なのだろう。

「あ、そうだ!お姉さんどうだった?」
「心配いらんナリ、ただの働き過ぎで貧血じゃと」
「本当?よかったー…」

 一週間で退院するそうじゃから、恥ずかしすぎて見舞いとかいらんって、と苦笑いしながら仁王がわしゃわしゃと頭を撫でてきた。
 一瞬、昨日の出来事がフラッシュバックする。
 が、首をぶんぶん横に振ってその光景を頭からかき消す。ゆっくり親友になっていくと決めたのだから、ここまでまたしつこく仁王を問いただすのはどう考えても得策ではない。
 突然首を振った葵に仁王はきょとんとした。が、

「そいや、」

 なんとなく雰囲気を読んでくれたのか、仁王は笑顔で適当に話をそらしてくれた。
 仁王のこういうところを、密かに葵は憧れ尊敬していたりする。

「ブンから聞いたんじゃけど、おまえさん相手に合わせて携帯の着メロ変えてるんじゃってな」
「あ、うん!」
「俺は何の曲になっとるん?」
「えっとね、チムチムチェリー」
「ちむちむ?」
「こんなのだよ」

 結構昔の映画の中の曲なんだ、なんて説明しながらポケットから携帯を出し、データフォルダを開くといちばん古いものまでさかのぼる。
 携帯を仁王の耳元まで持っていくと、仁王も上半身をひねり体を近づけてくれた。再生ボタンを押すと、静かなオルゴール調のメロディーが流れ始める。

「ん?これ…」

 じっと真剣な表情で耳を傾けていた仁王が眉根を寄せた。
 その真剣な面差しに、葵もつられて口をきゅっと結んぶ。
 曲が流れ終わって、仁王はあごに手をあて何か考え込み始めた。
 どうしたの、と葵が尋ねようとしたその時、

「Chim chiminey Chim chiminey Chim chim Cheree…」

 自然に、といった感じに、仁王の口が動きだした。
 その口から紡がれるメロディは、間違いなくついさっきまで葵の携帯から流れていたものだ。

「わたしーはえんとーつーそうじーやさーん…?」

 語尾がなぜか疑問形の仁王は、かくんと首を傾ける。
 突然歌い出したのには驚かされたが、初めて聞く仁王の歌声は素晴らしいものだった。

「わあ!仁王、歌もうまいんだね」
「んー…」
「でも、この曲しってたの?」
「こんなにすらすらと歌詞が出てきたからには、たぶん知っとるんじゃろうけど…覚えてないのう。ま、たぶん昔姉貴が観てんのを横で観てたりして覚えたんじゃろけどな」
「そっか。でも仁王がこの曲知っててよかったな、この曲にして正解だった気がするもん」

 私、昔からこの曲すきなんだ!と笑う葵に対し、すきな曲を俺専用の曲にしてくれとるんじゃ、と仁王が内心ご満悦なのも知らず、そういえば、と話題を切り替えた。

「この前切原君とその彼女さんに遊園地に誘われたんだけど、仁王も行くんでしょ?」
「あ、あー…おう」
「チケットがもったいないからって誘ってくれたらしいんだけど、やっぱりデートの邪魔しちゃ悪いからさ、よかったら途中でこっそり抜けない?」

 そう尋ねたら、何か衝撃が走ったかのように仁王が驚いた表情のまま固まりついた。
 が、すぐハッとしたように肩を揺らすと、仁王はいつも通りの笑顔を浮かべる。やはり疲れてるのだろうか、心配だ。

「お、おう、そうじゃの…そっちの方がいいじゃろうな」
「私とふたりってちょっと申し訳ない感じなんだけど、当日何かおごるから、それで許してね」
「おうよ。まあ楽しみじゃな、遊園地」
「うん」

 思えば遊園地も久しぶりだし、仁王と学校以外で会うのも今度がはじめてだ。
 これを機に親友への道を切り開こう、と意気込んでいる葵の横で、仁王が内心すさまじく喜んでいることなんて、当然ながら葵は気づくわけもない。


□□□□


「Chim chiminey Chim chiminey Chim chim Cheree…」

 ほこりや蜘蛛の巣こそないものの、暗く荒れ果てた室内は決して人の気配を感じさせない。
 だが、歌声は響く。
 今この室内の時の流れは、このささやくような声量で歌われる歌が支配されている。
 黒い外套を肩からすっぽりはおった男はスプリングの壊れたソファの上に横になり、白い箱を胸に抱えたまま歌い続ける。

「わたしーはえんとーつーそうじーやさーん…」

 男の細長く白い指が、とんとんとん、と、一定のリズムを刻む。
 箱の中身がからんからん、と揺れる。
 
「…………早く、返してもらわんと」

 血が足りないナリ、と男は呟くと立ち上がった。
 今まで少しずつ拝借させてもらっていた相手にはもう手を出せそうにないから。男は新たな獲物を探しに部屋を出た。

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