「え、仁王のお姉さんが入院?」
そうだ、と頷く柳に、葵は目を丸めて口をパクパクさせることしかできなかった。
仁王の姉とは葵も何度か顔を合わせたことがある。
社会人である仁王の姉は、仁王によく似た系統の美人だ。
仁王とは姉弟仲がよく、部活の大会では仁王を応援しにやってくることも過去たびたびあった。
会場でも周囲の視線を釘づけにするほどの美人であり、パンツスーツ姿でハイヒールを鳴らしながら歩く姿は、何者も近づけさせない凛とした美しさに満ちていた。
その反面、彼女は応援席にいた葵に笑顔で話しかけてくるような気さくな一面も持っている。加えて優勝した時はレギュラー全員に焼き肉を奢ってしまう懐の大きさも、すべて葵には眩しかった。
本当に素敵な女性だ、と、密かに憧れていたりする葵にとって、彼女が入院したという突然の出来事は本当にショックが大きかった。
「な、なんで、どうして入院?どこか悪いところでもあるの?」
「俺も詳しくは知らない。仁王が昼に親からその旨のメールを受け取ったらしく、俺もつい先程聞いたばかりなんだ」
「そ、そっか…」
「悪い」
「ううん………そう、だよね、私こそごめん。頭、なんかいっぱいで回らなかった」
「それが普通だ。構わない」
柳のこういう優しさが女の子に受けるんだろうな、と葵は思う。
案の定、ついさっきまで沈みきっていた心は今の柳の気遣いでみるみる回復した。テニス部の面々はそれぞれ優しいが、その中でも柳の優しさは柔らかく暖かい。
「柳君、優しいね」
「そうか?」
「うん」
「では優しい柳君からもうひとつ別所に。仁王も今日は部活には顔を出さず直接病院に行くらしいぞ」
今ならまだ教室にいるだろうな、と、柳がつけたしたのと同時に、葵は回れ右をし走り出した。
柳君、ありがとう、と、そちらを振り向きもせずに礼をいえば、どういたしまして、と笑いを含んだ柳の声が後ろから聞こえた。
それとなく協力してやっているのだから、確かにそろそろうまくいけばいいのにな、と柳がつぶやいたのは、聞こえなかった。
□□□□
冬は陽が短い。
赤く染まり始めている廊下に人気はなく、そこを駆け抜ける葵の影だけが長く伸びてゆく。
夕方の校舎は、遠くから聞こえる吹奏楽のものであろう楽器の音色が冷たい空気とまじり、どこか哀愁めいた雰囲気を生み出していた。
冷たい空気を切り走っていた葵は、目的の教室のプレートが目に入りスピードをあげた。
前までたどり着けば、教室の扉は前後共に閉まっている。
閉まっていた扉を思い切り開けば、窓際の席にうつぶせに頭を伏せる銀色の頭が、そこにいた。
「仁王…?」
寝ているのだろうか、名前を呼んでも仁王はぴくりとも動かない。
精神的に疲れたのかな、と、思う。
突然姉が入院したなんて報告をされれば、やはり驚きも尋常のものではないだろう。ましてあんなにも仲が良い姉弟なのだから。
一応気を使い、そろりそろりと近寄り、仁王の眠る机の前の席に静かに椅子を引き座った。
頭を完全に伏せているせいで、この位置からも仁王の顔は伺えない。
それでも、このまま寝かしておくわけにもいかない。
今日仁王は部活には顔を出さず直接病院に行くらしいと、さっき柳はいっていた。病院の面会時間も考えれば、やはりこのまま仁王を放っておくわけにはいかない。
「仁王、起きて」
仕方なく、肩を緩くつかみ小さく揺らした。
ううん、と、仁王からうめき声が聞こえ、葵はもう一度起きて、と繰り返した。
仁王が、頭を上げる。
視線が、交じる。
色素の薄い瞳に、自分が写る。
次の瞬間。
葵を視界に捉えたまま、なぜか仁王の瞳がみるみる見開かれていく。
仁王?と、葵が首を傾げると、仁王はゆっくりと上半身を起こした。
「………葵?」
机に手をかけ、仁王が身を乗り出してきた。
何でいきなり名前?と首をかしげる葵をよそに、仁王の口元はみるみる綻んでいく。
どうして、仁王はこんなにも嬉しそうなんだろう。
「ようやく会えた」
目を見開いた仁王が、両手を葵にと伸ばしてくる。
どうしたの、という言葉が口の中で消えてしまった。
仁王の纏う雰囲気が、表情が、葵から言葉を奪う。
どこか泣きそうで、必死で、でもしあわせそうで、今にも壊れてしまいそうな、こんな仁王を、今まで葵はみたことがない。
「かえろ、葵」
やさしく背に腕が回され、葵はぎゅうと抱きしめられた。
その手つきはまるで壊れものに触れるようにやさしくて、
この状況は、なんなんだ、と葵はぽかんと開いた口がふさがらなかった。
仁王が、自分を抱きしめてる。
普段のように冗談めいた触れ方では、ない。
「か、帰るって…仁王、お姉さんの病院、寄っていくんでしょ?」
「………びょーいん?」
首に頬をすり寄せてくる仁王の髪がくすぐったい。
同時に、身を寄せてくる仁王に自分の今の心音が聞こえてしまわないか心配になった。
たとえ気を許した友人であっても、仁王は誰もが認めるだろう美貌の持ち主だ。テレビで騒がれている俳優よりよっぽど、毎朝顔を合わせている仁王の方が綺麗な顔をしている、という自信が葵にはある。
なのにこんなに近づかれ、色気を振りまかれ、正直気が気じゃない。これに心臓が爆発しそうにならない女子は女じゃない。
「に、仁王……っ?」
「これ、返してもらわんとのう…もう用済みじゃ」
自らのてのひらを見つめ、謎の発言を続ける仁王に葵の頭は完全に正常に回らなくなっていた。
「葵」
「な、なに…」
肩に乗せていた顎をあげ、鼻と鼻が、唇と唇が触れてしまいそうなほど至近距離に、仁王の顔がやってきた。
ささやくように名前を呼ぶ仁王に、顔がどんどん熱くなっていく。
葵、と仁王はもう一度名前を呼ぶと、すっと耳元に口を近づけてきた。
「血、ちょうだい」
思考が、停止、する。
それでも、仁王、なに、いってるの?と、葵の必死に出した震える声を無視し、仁王は唇を葵の首筋に押し当ててくる。ついには歯までたてて。
その硬い感触が皮膚に押し当てられ、いっきに血の気がひいていく。
何が起きているんだ。
仁王は、何をしている。
血、ちょうだい?
誰が、誰の?
歯が、皮膚にくいこみ始めたその時、葵はようやく我にかえれた。
「ふ…っふざけるなーーっ!」
すぱぁぁぁん!とキレのよい音が教室に響き渡った。
その瞬間。
仁王の纏っていた雰囲気ががらりと変わった。そして、叩かれた頭をおさえながら、恨みがましい目でこちらを睨みつけるいつも通りの仁王が、そこにいた。
「いっとぉ……ちょ、いきなり何するんじゃ別所!」
即座に葵の肩を押さえていた腕を離した仁王は、目をまんまるに丸めて自分の頭をなで続ける。
雰囲気が、いつもに戻った。
だが、だからといって葵の怒りがおさまるわけもなく、葵は鞄を胸の前に抱えると、すぐさま仁王と距離を取った。
「なななな、何するんだはこっちの台詞だよ!エロ詐欺師!変態っ!」
「は!?変態!?」
「い、いいい今の!今のが変態じゃなかったら何なの、最低、ばか、変態!」
お、おい別所!?と珍しく焦りの色を全面に見せる仁王の様子を見ても、酷いことをいってしまったという罪悪感は生まれない。
自分は少なからず、あの仁王の行為にドキドキさせられたのだ。
なのに、からかうでもなく、まるでなかったこととして振る舞う仁王に腹の虫がおさまらない。せめて、からかってちゃかしてほしかった。そうすればこっちも笑って許せたのに。
「とぼけないでよ、ばか!私が焦るの楽しんでたんでしょ、女の子の敵!歩く18禁め!」
「あ、歩く18禁!?」
「心配して損した!ばか!」
この数分で何度ばかと言ったかわからないが、最後にもう一度ばか!と叫び、葵は教室を飛び出した。
さっぱり状況が掴めずひとり教室に取り残された仁王は、歩く18禁ちゅうんは、意識されて喜ぶべきなんか、悲しむべきなんか…なんて真剣に悩みはじめた。悩んだところで答えは出ないだろうが。