「う〜…ん…」
朝五時、こんな早朝まだ寝てたいという頼の意に反して、小さい頃からこの時間に起きる事が頼にとって義務となっていた。義務、というより強制というのが正しいかもしれないが。
その原因は向かいの日吉道場にあった。日吉家の朝はこの時間から始まり、一家揃っての朝稽古の声が頼の部屋に綺麗に届いてくるのだ。道場である日吉家に朝稽古をやめてくれと言うわけにもいかず、自分以外の家族はいい目覚ましだとむしろプラスに評価している為文句の言い様がなかった。
そんなこんなで、今日も日吉家の練習に励む声によって目が覚めた。昨日の晩はそれなりに遅くまで赤也とメールしていた為、正直まだ寝足りない。枕に顔を伏せてみるものの、やはり朝稽古の声が耳に障り寝れやしなかった。
仕方なしに暖かい布団から渋々抜け出すと、一気に体が冬の冷気に包まれていく。頼は氷帝の制服を引っ掴みシャワーを浴びる為風呂場へ向かった。出てくる頃には、窓の外朝練へと向かう日吉の姿が見れるであろう。
こうやって頼の一日は始まる。
□□□□
「(あ、ミスった)」
電車を一本逃し、八時を過ぎるか過ぎないかの頃校門をくぐった。それと同時にキャー!という黄色い声が耳に突き刺さった。
どうやら普段の電車に乗り損なったお陰で、男子テニス部が部活を終え部室から出て来る時間帯に遭遇してしまったらしい。頼は確かに同学年でテニス部の知り合いは多いが、テニス部自体とはなんら関わりも持っていないし興味もない。むしろ同学年や後輩、または一つ上の世代を除いた先輩達が皆口を揃えて「化け物世代」と呼ぶ一つ上のテニス部部員に関わりたいなんて思いもしない。
それに、普段日吉や鳳から先輩の愚痴を聞かされている頼にとって、跡部達はアイドルどころか変人、もしくは疫病神くらいにしか思えないのである。鳳が崇めている宍戸だけは別として。
「(嫌な時間に来ちゃったなぁ)」
明日はもう早く出発しようと反省し、そそくさと人込みを抜けて校舎へと向かった。人込みの中、校舎へと消えていくその背中に気付いた日吉はその意が分かり思わず吹き出した。
それを目撃した向日が「日吉が笑った――っ!?」なんて絶叫した為、レギュラー陣が騒然となる。お前笑えたのか、とかもっかい笑って、とか言われる内に、日吉の機嫌はみるみる下降していき、最終的に日吉のブチ切れでこの騒動は幕を閉じる事となる。
「頼おはよー」
「おはよ!……あれ」
教室に入って挨拶をしてきた友達の肩の向こうに、何故か先程まで下にいた筈の鳳がいる。思わず入口で固まり付いた。何でこいつがいるんだ。
何事もなかったかのように友達と談笑している鳳は、確かにさっきまで下のテニス部集団の中にいたはずだ。いや、もう何も言うまい。きっと聞いたところで「何言ってるんだよ、普通に上がってきただけに決まってるじゃん」と笑ってはぐらかされるだけだ。
そんな時テニスバッグを担いで廊下を歩いていた日吉が、よう遅いな、なんて声をかけてきたが、こっちの教室内に鳳がいることに一瞬ギョッとした表情を見せた。が、すぐ溜め息と共に見なかったと言わんばかりに鳳から視線を逸らして隣りの教室に入っていってしまった。
一連の動作を見るだけでも心情が分かってしまうのは、幼馴染みの特権か、それまた対象が共通の友人だというせいか。諦めて席につくと、斜め前に座る鳳が笑顔で振り向いてきた。
「あ、頼おはよう。なんか今日遅かったね」
「おはよ。…私はちょたが今教室にいる早さの方が不思議だよ」
「何言ってるんだよ、普通に上がってきただけに決まってるじゃん」
…やっぱり言った。
それよりもさ、という口切りから今日のわんこならぬ[今日の宍戸さん]が始まる。どうやら今日の宍戸さんは若干風邪気味らしく調子がいまいちだったとか。(鳳の言う)変態眼鏡がそんな宍戸さんをからかって遊んでて殺意が沸いたとか、風邪には何が効くかな、とか、今日も見事に彼の脳内の七割は宍戸さんで埋め尽くされている。
よくそんなに毎日宍戸先輩の事だけ語れるな、と、内心ため息をつきつつ頼は丁寧に相槌を返す。ここ数年で話したことすらない宍戸先輩のプロフィールはそらで言えるようになってしまった。趣味も困った時の癖も、飼っている犬やら家族構成、プレイスタイル、えー…ああもういい、エトセトラ。
「でさ、宍戸さんって本当にかっこいいんだよ!だから俺と付き合ってみない?」
「宍戸先輩の話からどうやってそっちに繋がるかな」
「で、どうなんだよ」
にっこり笑うこの笑顔に全国の女の子は騙されるのだろう。だが奴の本性を知る顔馴染みビジョンを通して見れば、鳳のこの笑顔は明らかに計算されたものだ。ちょっと頼りなさげに眉を下げ目を伏せてつつも上目遣い、どこまでも女の子受けがいいよういいようにと造られた笑顔…騙されないぞ。その背後に渦巻く黒オーラに私が気づかないとでも思ったか。
「毎日毎日…よく飽きないねぇその冗談。何が楽しい?」
「だって毎日言ってれば俺も本気になるかもしれないしー?他にもまあ色々楽しみがあるんだよ」
「本気じゃないのに毎日言っちゃうその神経がすご「何か俺に文句あるの?」………いいえ」
じゃ、俺今日日吉んち泊まるからー日吉と裕太に連絡しといてね。んじゃ!と、自分の言いたいことだけ並べて鳳はさっさと前を向いてしまった。…何故裕太に連絡が必要かは、みなまで言わず。この先輩の前でだけ出来杉君の皮を被るジャイアンをどうにかできる二年生なんていやしない。
頼もまた、素直に言うこと聞かないとうるさいしなと仕方なく携帯を開いた。日吉に鳳の案件についてのメールを送れば、意外にマメな幼馴染みからの返信はすぐにきた。変換ミスを見つけたが、指摘すると拗ねるだろうと思ったのでやめておいた。
日吉は一度拗ねると、酷い時なら一日中口をきいてくれなくなる。比例して機嫌も悪くなるので、最終的には日吉のクラスメートか日吉ママに「どうにかしてくれ」と頼み込まれる事になるのは目に見えている。日吉の機嫌を直すのはとてつもなく厄介で面倒なので、こういう時は黙って見ない振りが一番なのだ。
「ちょたー、日吉んち今日赤也泊まりにくるって。それでもよければ泊まりいいよだって」
「え〜…ま、いいや。切原いたらいたでそれも楽しいだろうし。俺と裕太も泊まるって日吉に言っといて」
「ていうかさ、それ朝練で言えばよかったんじゃな「なーに?」……ナンデモアリマセン」
裕太、ご愁傷様。きっと彼は自分にはなかなか順番が回されない格ゲーを(強制的に)鑑賞する事で今夜は一睡も出来ないに違いない。
携帯を開き、今度は裕太に『魔王より命令』というタイトルでメールを送れば、ただ一文『…………orz』と返ってきた。救われない。
「……でもさ、なんでちょたってそんな黒いわけ。先輩達の前ではすごいいい子してるのに」
頼の言葉に鳳はきょとんと目を丸めた。だがすぐに何を言ってるんだお前はと言わんばかりの蔑んだ目に切り替わる。こういう時の鳳は、頼のイメージの中の立海魔王部長によく酷似していると思う。
「俺の本性なんて、もうとっくの昔に先輩達には知られてるよ」
「え?」
「テニスは性格が出るからね。あの跡部部長や忍足さんが気づかないわけがない。敢えて指摘されてないだけだよ。長年ペア組んでる宍戸さんだって同じ」
鳳は椅子ごと頼の方に体を向けると、頼の席に身を乗り出し、目を細めながらどこか楽しげに頼の髪をくるくる指先に巻きつけ遊んでいる。
クラスで鳳が好きだと豪語してる女子からの視線が、痛い。しかもこの男、それがわかっててこれをやっているんだからやっぱり質が悪い。
「わざわざ指摘する必要もないから先輩も指摘しないし、俺も猫被ってる方が付き合いやすいから猫被ってるだけだよ」
「…めんどくないの?それ」
「別に?こうやってちゃんと本性知ってくれてる少数の友達がいれば疲れないし。むしろ楽しいよ」
「ちょたが友達っていう言葉使うとなんでこんな胡散臭いんだろう…」
「ははは、惚れた?」
「アホか」
全員席に着け、と担任榊太郎(46)が教室に入ってきたのを切り口に、生徒達は慌てて自席に向かう。鳳も(頼からすれば)うざったいウインクと頼の頬に軽いキスを残して椅子を元に戻した。
ふと背中に悪寒が走り、先ほどからこっちを見ていた女子をちらりと覗き見してみる。思った通りの鬼の形相が自分に向けられていて本気で泣きたくなった。
…あいつ全然本気じゃないんだよ?むしろこうやって私が他の女子の嫉妬に怯えてるのを見て楽しんでるドSなんだよ?あの本性を嫌というほど知ってしまえば百年の恋も冷めるだろうに!そう叫んでやりたかったが、鳳が笑顔で振り向いてきたので…みなまで言わず。
「谷崎、後で第二音楽室までくるように」
「…何ででしょうか、榊先生」
「谷崎が淹れる紅茶が一番旨いからに決まってるだろう。一限の体育は出なくても構わない、私から体育教師に言っておこう」
「…………」
先ほどの女子の視線が嫉妬から同情にすり替わったのがわかった。何でこうテニス部関連者は変人ばかりなのだろうか。