「よう頼!」
「あれ赤也、帰っちゃうの?」
頼が馴染みのストテニ場に着いた時、その場にいたのは海堂と杏と赤也と裕太の四人だった。だが赤也はちょうど自転車でこの場を去ろうとしているようだ。
この前のバレンタインのような特殊な日を除き、ここに大人数が集まることはめったにないのだ。
ここに集まるメンバーは現高校テニス界を担う逸材たちであり、学校の練習があれば当然ここには来ない。
練習がなくとも、気が乗らなければ来ない。ここはどこの学校からも特別近いわけでもないのだから。
でも、それでもそんな条件の中で、足を運べばいつも誰かがいるこの状況はすごいな、と頼は密かに思っている。
「マムシとも裕太とも試合したいんだけどよ、俺は今から眼科。この近くだからちょっと様子見に寄ろっかなーって思っただけ」
「あーそっか、今もまだ通ってるんだっけ。大変だね」
ほんと嫌になるぜ、と、赤也が肩を落としため息をついた。
実は、赤也は高校一年生になったばかりの頃、中学時代に赤目モードを乱用し過ぎたせいで網膜剥離になりかけたことがあった。それ以上目に負担をかけると失明しますよ、と、部活の先輩の親戚であるお医者さんのその時脅しがそれはもう素晴らしい脅し方で、赤也にはひどく効いたらしい。
それ以来赤也は自主的に赤目モードと悪魔モードは封印し、特訓に特訓を重ねて今のプレイスタイルに作り直したとか。そして頼の記憶が正しければ、赤也は今も眼科に月一のペースで通院しているはずだ。
「だーりーいー!つーか柳生先輩の叔父さんに会いたくねぇ…」
「柳生先輩ってどんな人だっけ?」
「七三の紳士」
「ああ、詐欺コンビの似非紳士の方か!」
自転車の持ち手の部分にだれる赤也も、頼の言いようにケタケタ笑い声をあげた。柳生に会ったこともない頼にそう吹き込んだのは彼なのだが。
他の三人も苦笑いを浮かべつつも決して否定はしない。あながち自分の思っている柳生像と、みんなの知っている柳生とはそこまてぶれていないんだろう、という妙な確信を得た。
「まあ頑張れ」
「あー怖ぇ…誰か代わってくれ」
「あんなプレイスタイルだったお前が悪いんだろうが」
「うるせぇマムシ!お前だって中二の全国決勝ん時悪魔化しかけてただろーがよ!」
「は、何の話だ」
「え、いや、だって、」
「しらねぇな」
「「「(うわあ、なかったことにしようとしてる…)」」」
海堂はそのまま腕を組んでツンッとそっぽを向いてしまう。こうして頑固モードになると、もう梃でも動かない。どんな理詰めをしても同じ言葉しか返してこなくなる。
が、ここでいじくり倒すと当分の間口をきいてくれないのが分かっていたので、追及はせず、頼達は敢えて話題を少し逸らす事にした。
「そういえば、海堂って意外に柳生先輩と仲良くなかったか?」
裕太がそう尋ねると、ようやく海堂の憮然とした表情が少し崩れた。関心はしっかり新しい話題の方に向いたようだ。
「別に仲がいい訳じゃねぇけど、立海の中なら一番話した事がある」
「でも学年は勿論ながら全然別の学校じゃん。どこで知り合ったの?」
「中二ん時のABCオープンの会場で一悶着あって、そん時にだ」
あの頃か、懐かしいなー!と笑顔を見せる裕太の横で、赤也は昔を思い出したのか、少し顔を歪め、
「ああ、幸村部長が復帰した頃か…そいや全国戦ではもうジャイロ使ってたもんな、お前」
と、腕を組みながら深々と頷き、そういった。
聞かずとも、赤也と海堂は中学二年生の時に全国決勝で因縁の戦いを繰り広げたと当時から散々聞かされていたので、おそらくそれに起因するだろうという事は、テニスに縁のない頼でもわかる。
が、しかし、ここに全国決勝に出場していない柳生の名前が絡んできたのは初めての事だ。
「ジャイロってジャイロレーザー?それ何かその柳生先輩と関係あるの?」
頼がそう尋ねると、杏もその話は知らなかったのか、うんうんと頼に同意するように頷いてくれた。
「というか、一悶着って?まさか柳生先輩と揉めたとか?」
「いや、そうじゃねぇけど…一悶着があったのは愛知の奴らとで、そいつらと俺と柳生先輩がダブルスで草試合する事になったんだ」
「あ、それって六里ヶ丘愛知か?偵察が有名な」
「そこだ。それで全国前に偵察される訳にはいかねぇって…その、」
それまで珍しく雄弁に語っていた海堂が、何故か突然言いづらそうに口をもごつかせた。
全員がきょとんと首を傾げる中、赤也だけが納得したように腕を組み深々と頷いた。
「………俺、その話は聞いてねぇんだけど……わかるぜ海堂。だって、柳生先輩だろ?」
「……………」
「え、どういう事なの?」
「柳生先輩ってさ、あの仁王先輩と長年ペアやってたせいか、色々感化されてんだよ」
仁王先輩、という単語が絡んできた事で、頼の頭に今回のキーワードが浮かび上がり、次々結び付いていく。
仁王先輩。詐欺師。有り得ない策の数々。柳生と仁王は中学からのダブルスペア。紳士であるはずの柳生もいるのに、呼称はなぜか『詐欺師ペア』。赤也のいう『似非紳士』の呼称。全国大会前。偵察されるわけにはいかない。でも試合はした。口ごもる海堂。点と点が糸で結ばれていく。
そして、気がついてしまった。
その瞬間、紳士だジェントルマンだと聞き続けていた柳生のイメージは、がらがらと音をたて崩れ去っていった。
「え、例の『入れ替わり』って有り得ない作戦、まさか柳生先輩とやってたの!?確かに詐欺師ペアって聞いてはいたけど…ていうか、え、海堂、まさか柳生先輩と入れ替わり戦法やったの!?」
「さっすがぁ!頼は相変わらず察しが早ぇよなー」
羞恥で耳まで真っ赤に染めそっぽを向く海堂の肩をばしばし叩きながら、理由こそ違うが同じく頬を赤く染めけたけたと赤也が笑う。同じ男テニでもジャイロレーザーが生まれた過程まで知らなかったらしい裕太は、そのふたりの横でぽかんと口を開いたまま唖然としている。
正直、信じがたいといえば信じがたい。
仁王先輩なる人物が、どれだけ奇天烈で、どれだけ厄介で、どれだけ有り得ないかは、裕太も随分前から赤也に繰り返し聞かされ続けてきた。
相反し、柳生の過剰なまでの紳士振りも、仁王ほどではないが赤也から聞かされてきたのだ。仁王の話がやたらと多いのは、赤也がそれだけ仁王にからかわれ続けているからだか。
それが、まさかの海堂との入れ替わり。
あの逆光眼鏡の奥の瞳は、仁王だけではなく海堂に化けても違和感がない程鋭かったのか。そして何より、フシューといったのか。あの紳士柳生が。
「え、でも、柳生先輩って結構髪茶色いよな。そんな急な状況でマムシと入れ替わりって、ちょっと無理ないか?」
裕太が不思議そうに首を捻りながら、そう尋ねる。
確かに、いくら普段柳生の目が半コーティング眼鏡で隠されているとはいえ、柳生と海堂の髪の色はだいぶ異なる。
例え柳生が入れ替わりのためにカツラを常備していたとしても、入れ替わりが仁王に強制されやっていた事ならば、持っているカツラは仁王に成り済ます銀髪のカツラだけのはずだ。
「いや、本人は不快だの不本意だのいってっけど、結構本人も楽しんでんだと思うぜ、俺」
「え?どういうことだ?」
「要するに、紳士だ紳士だ言ってても、ペテンには結構のりのりってこと?海堂が自分から入れ替わりしましょうってそんな話持ちかけるとは思えないし、それでいて仁王先輩用以外のカツラも持ち歩いてるわけだし」
頼のフォローにうんうんと相槌を打ちながら深々と赤也が頷いたが、杏と裕太は信じられないといったように目を皿にしたままだ。
だってあの柳生先輩が?と杏が尋ねると、いや、あの人のいう紳士ってそもそもちょっとズレてるから、と、赤也がばっさり切り捨てる。
そして、
「あ、ちなみに柳生先輩、趣味ポエム作ることだから」
このひと言で、頼と海堂までもが凍りついた。
「……………え?何?」
「だから、ポエム。趣味なんだとさ」
「………ぶ、文学的でいい趣味じゃねえか…なあ」
「お、おう」
「更にさ、前そのポエムを書き溜めた手帳の表紙、み、見たらよ…!こ、『心の紳士録』って」
「ちょ、もうやめてほんと!」
「ちなみにお小遣の使い道は募金だとか」
「いや、だから、ちょっ」
「さらにいえば柳生先輩、なぜか常に鞄に風呂敷携帯してんだよ」
「だめ、も、苦し…っ!」
腹がよじれるとはまさにこういう事を言うのだろう、笑い過ぎて腹筋が悲鳴をあげる。真っ青になっている海堂以外のメンバーはみんな背を丸めお腹を抱えながらむせ返っている。
「もう紳士とか関係ないじゃん…立海相変わらず濃いわ…変人ばっかり」
「濃さで言ったらどこも濃いだろっつーか、あの跡部さんがいる氷帝生のお前には言われたかねーし!」
「規格外におかしいのはあの人だけで、あとは程々まともだもん!宍戸先輩とか!…………宍戸先輩とか宍戸先輩とか!」
「宍戸さんだけじゃねーか!」
「でも立海よりかは濃くないもん、たぶん!ね、裕太!」
「お前ここで俺に振るのか…!」
不動峰である杏と、立海や氷帝に比べればまだ比較的マシだろう青学と聖ルドルフの生徒である海堂と裕太からすれば、確かに赤也や頼のこの論争に巻き込まれるのは心外だろう。
「まったく…何で私達のひとつ上って、そんなに変な人ばっかり集まったんだろうねぇ…しかも揃いも揃ってテニス部にさ」
「…確かに…よせ集めれば漫画描けそうだよな…」
「…そんなことになったら、立海の幸村さんかアニキがタダじゃおかないと思うけどな」
「「「「…………」」」」
確かに、と口にすることさえ恐ろしい。
嫌な沈黙が充満したその時、場を明るくしようと杏がパン!と手を叩き、笑顔で口を開いた。
「そういえばね、私この前また美味しいお菓子見つけたの!」
嬉嬉とした杏のその発言に、この場にいる全員が凍りついた。
お菓子、というその言葉に、杏の口から食べ物の話題が発せられたことに、全員の足が杏から一歩引かれる。
が、周囲のそんな様子に気づく事もなく、杏は意気揚々と不動峰の指定鞄の中から何かおぞましい色合いをした袋を取り出す。
「みんなもよかったら、どう?」
『激珍味!貴方の胃袋を刺殺!』の文字が踊るパッケージ。そして謎のキャラクターが文字の下で可愛い顔で謎のポーズを決めているも、その右手には何故か凶器のようなものが握られていて、シュールさを倍増させている。
一瞬にして、思いがシンクロする。
これを一口でも口にすれば、無事には済まないだろう、と。
「悪い、俺もう行かなきゃいけねーからさ!んじゃ!」
「待て切原!ふざけんなひとりだけ逃げてんじゃねぇ!!」
「わ、私今ちょっとダイエット中で…」
「おおおお俺も、甘党だから…」
「あ、心配いらないよ不二君!これ途中から中の甘味が滲み出てくるらしいから」
「げ…っ!!」
みるみる首から上が青く染まっていく裕太の前に、箱を差し出し聖母のような微笑みをたたえる杏が迫っていく。
「よ、よかったじゃねえか裕太」
「そだよ裕太!甘いんだって、やったね!」
「ほ、ホントだぜ!さてと、じゃあ俺はこの辺で…」
「おまえら、ふざけんな…!」
隙を見せた方が悪いと言わんばかりに、頼達は全員で裕太にこの場を押し付けた。
そして杏の注目が裕太に向けられたのを確認してから、素早くこの場から一刻も早く逃走すべく、浪速のスピードスターも驚く速さで身支度を整える。
「頼、お前の自転車はマムシに任せて早く後ろ乗れ!お前のスピードじゃ逃げきれねぇ!」
「う、うん!」
海堂もその言葉を受け、顔を青く染め口を一文字に結んだまま頼の手から自転車を慌ててひったくった。
頼も、小声で早く早くと急かす赤也の後ろに飛び乗り、赤也と海堂は有無を言わずペダルを踏み込んだ。
その直後、ぎゃあああああ!という断末魔の悲鳴の後、何かが地面に倒れる音がした。何が倒れたかは見ずともわかる。だからこそ、恐ろし過ぎて振り返れない。
「裕太、お前の死は忘れねぇ…っ!」
景色と共にみるみるふたりが遠くなっていく。
過剰な芝居がかった口調で嘆く赤也の背にしがみつきながら、頼も片手で十字を切った。あとはもう後遺症がないことを祈るしかない。過去一週間知覚舌が使いものにならなかった経験を踏まえると、こう思うことすら大袈裟ではないだろう。
そして赤也はこの後、柳生総合医院で裕太の断末魔と大差ない悲鳴をあげる事となるのだが、どちらがマシだったのかは今となってはもう分からない。