「名字センパイ」
「切原君、久しぶり」
「じゃな」
「へ?」

 しばらく会わん内に縮んだかのう?なんていいながら頭をぽんぽん笑顔で叩いてくる赤也は、初めて会った時からメールでのやりとり時までの印象通りお茶目でフレンドリーだ。なんだか嬉しくなって、切原君も相変わらず元気そうだね、と、返せば、赤也はまた笑った。
 が、その赤也の後ろで、さっき食堂から見えた黒髪くせっ毛でツリ目の少年が、何故かぽかんと大きな口を開けてこっちを凝視している。どうかしたのだろうか。

「………は?切原君?」
「え?」
「え、ていうか、先輩ってことは、この人高等部の人っスか?」
「ていうか、は、いらんぜよ。おまえさん、期待通りに動きんしゃい」
「イデッ!」

 目の前で仁王と少年がよくわからない会話を繰り広げているのを、名前はただ首をかしげて眺めていることしかできない。
 ただ、ふたりの向こう側にいるレギュラー達が、何やら必死に笑いを堪えてるような素振りを見せていることも、気にかかったが。

「切原君、どうかした?」
「名字センパイ、ひとつだけ勘違いしてほしくないぜよ」
「え?」
「おまえさんと仲良くしてきたんは、おまえさんがほんに面白かったからじゃ。そこだけは勘違いしちゃやーナリ」
「切原君………?」

 ほらやっぱり!と、黒髪の少年は眉間いっぱい皺を寄せ、びしぃっ!と、効果音が聞こえそうなほど勢いよく自分と赤也を指差す。
 何か、自分は不適切な発言をしてしまっただろうか。
 そう不安が過ぎった、その時だ。



「名字!!!!」



 聞き慣れたその声に、下がりはじめていた頭が、はっと上を向いた。
 この声は、
 自分を呼ぶ、この声は、
 このタイミングで現れてくれる、この声の持ち主は、
 思い切り後ろを振り向けば、フェンスの向こう側の道から、見慣れた彼が、必死に走ってくる。一度も見たことのない、おそらく立海のものだろう茶色のブレザーを着て。
 その姿を見ただけで、さざ波たっていた心が、みるみる落ち着いていく。

「仁王、くん」

 物凄い早さで駆け寄ってきた仁王は、そのまま乱暴な手つきでフェンスの扉を開き、中へと入ってきた。
 いつも無造作ながら整えられた茶色の髪も、今はあちこちに跳びはねている。そのままずんずんと大股で名前と赤也のすぐ近くにまで来ると、少し切れた息を整えながら仁王は赤也をぎらりと睨みつけた。

「仁王君、もしかして遅刻しちゃったの?」
「い、や………テメェら…!」
「えー?だっておまえさんが悪いんじゃろう?なあ、『仁王』センパイ?」
「僕らを責めるのはお門違いにもほどがあると思うけどなぁ」

 見たことがないほど完全に頭に血が上っている仁王に対し、怒鳴られたはずの赤也や不二といえば涼しい顔のままだ。むしろ、楽しくて仕方ないのを堪えているかのように、口元がぷるぷると引き攣っている。
 そんなふたりに対し、仁王はふたりの言葉にぐっと言葉を詰まらせてしまった。
 仁王が何故ひとり遅れてやってきたのか、そして今何を怒っているのかは名前にはわからないが、ひとつだけ、これだけはわかる。
 今この剣呑な状況は、自分にも原因がありそうだと、それくらいは、わかる。

「(どうし、よう)」

 話の成り行きもさっぱりわからなければ、どう自分が関与してしまっているのかもさっぱりわからない。
 でも、突如乱入してきた仁王は変わらず大きく表情を歪めているし、声をかけることができない。
 どうしよう、どうしよう、と、気ばかりが焦り、どうすることもできていない。
 仁王は、今日まで困った時にはどんな時でもスマートに、かつさりげなくフォローを入れてくれたのに、自分は何もすることができない。しかもこの現状、知らず知らずの内に何か迷惑をかけていたのかもしれない。
 きつく拳を握りしめたせいか、爪が掌に刺さる。
 そんな痛みも全部まるごと引っくるめて、情けなさすぎて思わず涙が出そうになった、
 その時、

「―――――潮時だろう」

 大きなため息をひとつ携え、手塚がこちらへと歩いてきた。

「手塚!!」
「この状況で、これ以上ごまかしがきくと思うのか」

 普段部活で部員に見せるような強い態度強い口調で、仁王を切り捨てる。
 生徒会の活動ではなかなかこんな様子を見せてきたことはなかったので、見慣れぬ手塚の姿に名前は少し驚き、同時にぱっとてのひらを開いた。涙も、どこかに飛んでいってしまったようだ。
 手塚はそんな名前をちらりと横目で見ると、仁王に向き合い、厳しい態度でこう続けた。

「元はといえば、お前の蒔いた種だろう。これ以上俺の友人を困惑させるな」

 それを聞き、仁王はハッとしたように険しい表情を崩すと、ようやく今日はじめて名前の方へと視線をよこした。
 ばちり、と、目が合うも、仁王はすぐ何か考え込むように眉根を寄せ、黙ってうつむいてしまった。
 仁王君、と、小さく名前を呼ぶも、彼が頭をあげてくれる様子はない。

「名字」

 手塚に呼ばれ、仁王から視線を外し彼を見た。
 手塚も仁王同様、腕を組みながら難しい表情を浮かべている。

「…手塚、君……私、さっきから何がなんだかさっぱり………あの、私、何かしちゃったかな…」
「お前は何もしていない。むしろ、こいつらがお前に謝るべきだ」

 こいつら、と、視線を向けられた赤也が、何の悪びれもなくすまんナリ、と、呟く。
 それを見てまたため息をついた手塚は、今度はうつむいたままの仁王を見て、いいな、跡部?と、何ともいえない表情で声をかけた。
 ―――いいな、跡部、と。
 思わぬ単語に固まりついた名前に、手塚は更に追撃のごとく爆弾を落とし続けた。

「お前が『仁王』だと思っているこいつは、氷帝学園の跡部だ」

 名前の知っている『仁王』を指差し、手塚はそういった。
 仁王が、跡部?
 氷帝学園の跡部、と、いう言葉に、前に不二に聞いた話が、脳内に瞬時にフラッシュバックする。
 あの、跡部財閥の、御曹司。
 呆然とする名前の少し先で、仁王が、いや、『跡部』が、唇を強く噛み締めた。

「本物の仁王は、お前が『切原赤也』だと思っていた、銀髪のそいつだ。本物の切原は、そこのくせのある黒髪の男だ」

 プリ、と、言葉を発した赤也、もとい『仁王』が、隣に立つ少年の髪をわしゃわしゃ掻き混ぜながら、こいつがほんまの赤也じゃ、と、笑う。
 頭が、ついていかない。
 仁王君が、跡部君。
 切原君が、本当の仁王君。
 本当の切原君というのは、癖のある黒髪の男の子の方。
 どういう、ことなんだろう。
 この一ヶ月、頻繁に連絡を取っては遊びに出かけていたのは、一緒にクラシックを聴きに行ったのは、テニスを教えてくれたのは、一緒に、紅茶を飲んだのは――――
 ぐるぐると疑問が渦巻く。
 何で、そんな、

「あとは跡部、お前が話すべきだろう」

 手塚が呼ぶ、跡部、とは、
 一瞬判断がつかなかったものの、それまでうつむいていた『仁王』、こと跡部が険しい表情のまま顔をあげたのを見て、その、表情を見て、

「(―――――ああ、)」

 力が、抜けるように、
 張り詰めた糸が、緩むように、
 彼がこの場所に飛び込んできてくれた時のように、急速に、荒立っていた心が落ち着いていく。
 今日まで名前を、偽られていたのかもしれない。知り合ってから、それなりに親しくしていたひと月が過ぎても、なお。
 でも、
 それでも、

「ちなみに、僕の『跡部』に対する印象も、全部彼女に話してあるから」

 体全体に強張りを感じる跡部に、不二が追い撃ちをかける。
 名前はそれを聞き、ああ、不二が以前あんな風に『跡部』という人間のことを悪口めいて話してきたのも、これが原因だったのかぁ、と、納得してしまった。手塚の発言からも、どうやら話がこじれたのは不二や仁王の介入というのも一因だったに違いない。
 そして、

「…名字」

 名前が、呼ばれた。
 このひと月ずっと、この声に名前を呼ばれる度、どれだけ嬉しく思っただろう。 まっすぐ、前を向く。
 正面に立つ彼が、跡部が、まず何よりといわんばかりに、頭を下げた。

「………悪かった。まさか立海の仁王に間違われる日が来ると思ってなかったから、ついつい悪ふざけしちまって、」

 知らない間に、仁王は切原なことになってやがるし、という跡部の呟きを耳に拾ったのか、跡部の向こうで仁王がピースサインを向けてきた。
 と、同時に、はじめてであった日を思い出す。
 生徒会室に入ってきた他校の制服を着た彼を、自分は仁王という名の人物だと思い込んだ。
 思えば、あの時一瞬見せた驚いた表情は、突然顔見知りでもある仁王と呼ばれたからだったのだろう。
 そして跡部は、地に視線を落としたまま、喉から声を振り絞るように、苦しそうな口調で、続ける。

「次に会った時には、次に会った時にはと、いつも思ってた。でも、騙してたと、そう嫌われるのが、怖かった」

 ひとつ、疑問が晴れた。
 一緒にいる時、時折見せた、深刻そうな赴きで何かいいよどむのは、そういうわけだったらしい。
 跡部君、と、口を開こうとしたら、

「心から詫びる。許してくれ」

 そう遮られ、手を取られた。
 その勢いに押され、名前も思わず開きかけていた口を閉じてしまった。
 距離が近づいたことで、うつむいたままの跡部の表情が、見える。

「ただ、これだけは断言する。俺は名前以外、何ひとつお前に嘘はついてない」

 強い眼差しが、射抜く。
 本当に強い眼差しなのに、綺麗な瞳なのに、その奥で不安げに揺れる何かを、見た。
 ――――――もしかして、
 今、名前の言葉を遮ったのも、
 見たことがないほど顔を歪めているのも、
 こんなに苦しそうに、必死に話すのも、
 彼は、跡部は、自分に嫌われると、本当にそう思ったのだろうか。
 もし、そうならば、
 本当にそうならば、

 ――――――――――心外だ。



「そんなつらそうな顔しなくても、大丈夫だよ。跡部君」

 自分の右手を取っていた跡部の両手を取り、真っ直ぐ、跡部を見つめる。
 そして、驚きの表情を見せる跡部をじっとり睨んでから、左手だけを放し、そのまま跡部の頭を、ぽかんと叩いてやった。

「名前はちょっとわからなかったけど、それ以外跡部君が嘘ついてないことぐらい、わかるよ。私達、そこまで関係は薄くないって思ってるんだけど、それは私の思い違いかな」

 そう尋ねれば、

「そんなことねぇ!!」

 怒鳴るようにそう答えた跡部に、なんだか笑いがこぼれてしまった。笑いながら、よかった、と、返せば、気恥ずかしそうにむすっとした表情を浮かべる。
 くすくす笑っていると、今度は跡部がぺしりと頭をはたいてきた。
 が、ずっと険しかったり驚き顔ばかり見せていた跡部も、ようやく表情が和らいだ。
 ああ、いつもの仁王、じゃなかった、跡部君だ、と、安心できていたら、

「関係が薄いなんて、微塵も思っちゃいねぇよ」

 柔らかい表情ながら、真剣に、跡部が口を開く。

「いつになっても本当のことをいいだせなかったのは、」

 肩に手が乗せられて、そして、距離が、狭まる。

「跡部君?」
「俺は、お前が、」






「はーい、そこまで」






 笑顔で名前と跡部の間に、ずい、と、割り込んできたのは、見知らぬ黄色いジャージに藍色の髪をした男子だった。
 あまりにも唐突だったので目をまんまるに丸めてびっくりするしかできない名前に対し、その男子越しに見える跡部の額には青筋が浮かんでいる。

「幸村、テメェ…!!!」
「俺達まだ合同練習の最中だからさ、そこで少女漫画されてると、いい方が悪くなるけど、ちょっと邪魔なんだよね」

 中性的で儚げな容姿とは裏腹に、綺麗な笑顔から出てきたのは辛辣なひと言。
 あ、前に赤也、もとい仁王がいっていた、不二によく似た立海の部長の幸村か、と、ひとり納得していると、幸村越しに見える跡部がげんなりとした様子で続ける。

「だからって、お前、」
「そもそも跡部の悪ふざけに、勝手にうちの仁王を巻き込んだんだろう?こじれたのは確かに仁王や不二のせいもあるかもしれないけど、だからといって今これ以上俺達が君達ののろけを見せ付けられて練習を中断させられる理由にはならないし、ね」
「…………チッ」

 跡部は笑顔でそういいきった幸村にくるりと背を向けると、幸村を迂回して名前の腕を掴んだ。
 そのままフェンスの入口に歩きだそうとする跡部に黙って手を引かれていると、

「名字!」
「何、手塚く…って、わ!」

 突然、手塚の手から放り投げられた銀色の何かを、掴まれていない方の手でキャッチする。
 何だろう、と、無事何かを掴んだその手を開くと、それは、

「これ、生徒会室の…」
「使え」

 生徒会室、と、タグのつけられたそれは、教員以外唯一鍵を携帯することを許されている生徒会長の、生徒会室の鍵だ。
 もう用はないといわんばかりに大きなため息をひとつ、そのまま背を向け仲間に整列をかけている。
 歩みを止めない跡部も、ちらりと名前の手の中のそれを見ると、ハッ!と、笑ってみせた。

「手塚、なかなか粋なことしてくれるじゃねぇか」

 それに関しては、確かに、と、いわざるをえない。
 生徒会室は、自分と跡部が出会った場所なのだから。

「今日誕生日を迎えた俺様の為に、持てる技術を全て駆使して最高の紅茶を淹れろ」
「え、誕生日なの?」
「………いえなかったんだよ」

 仁王なんて名乗っちまってたからな、と、気まずそうに付け加える跡部に、あー…と、しか返せなかった。
 名前は赤也、と、名乗っていた仁王とも親しくしていることを跡部にも伝えていたし、そこから本当の仁王と誕生日が違うという話になりかねないと読んだのだろう。
 しかし、まさか当日になって知ることができるとは。当然、プレゼントなんて用意もしているわけがない。

「跡部君大変だ、私今日あげられるもの、何も持ってないよ…!」
「馬鹿、だから紅茶を淹れろっていってんだろ。最高に美味しいのをな。散々レクチャーしたんだ、出来んだろ?」
「ま、まあ…た、たぶん、が、んばる」
「その紅茶を飲みながら、話してやる。俺様がどれだけお前に入れ込んでるかな」
「え、」

 頬を少し染めて、照れ隠しのようなしかめっつらをしている跡部に、名前まで顔が熱くなってきた。
 素直にすきっていっちまえよー!と、赤い髪の男子と菊丸が腹を抱えて笑っているのを、うっせぇ!と、ついに首まで真っ赤になった跡部ががなるも逆効果らしく、むしろ場は盛り上がってしまったように見えた。
 不二なんて、恋に溺れすぎるとああいう恥ずかしいことになりかねないんだよ、なんて、何の悪びれもなく笑顔で見学している後輩に指導していた。
 そんな跡部に腕を引かれながら、もし本当にそういってもらえるなら嬉しいなぁ、と、ふと、あることに気がついた。

「ね、」
「あーん?」

 コートがもう見えなくなり、昇高口に差し掛かり、名前は跡部の制服の裾を引き、足を止めさせた。
 器用に片手で来客用のスリッパにちょうど履き変えた跡部は、名前の腕を掴んだままこちらを振り返る。
 だけど、これだけは教えてほしい。

「名前、まだ本人の口から聞いてないなって思って」

 名前の言葉に、一瞬面食らったように跡部が目を丸めた。
 が、すぐに、不敵な笑みをたたえて、一度腕から手を放すと、真っ直ぐ、手を差し延べられた。

「跡部景吾だ」

 その跡部の手を、取った。
 『仁王君』が、出会った時からずっとすきだった。本当に、だいすきだった。
 でもきっと、『跡部君』もすぐに馴染み、一緒に過ごす内に過去の彼よりももっとずっとだいすきになるのだろうと、そんな確証があった。
 いつか、そんなこともあったとふたり並び、笑って人に話せるようになる。それこそ、若い内に馬鹿をやるのは青春の醍醐味じゃないか。

「ほら、行くぞ」

 跡部が手を引き、簀の子から廊下へと上がる。階段を上がって少し行けば、生徒会室はすぐそこだ。
 校内にはまだ人がまばらにいて、他校の制服のせいだけではなく色んな意味で非常に目立つ彼に手を引かれていることに、ほんの僅かながら、躊躇した。
 それでも、その手を強く握り返して、廊下を進んだ。
 生徒会室は、もうすぐそこだ。
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