「あああ!あいつ気がつきゃまたいねえ!」
「にお先輩、また隙を見てとんずらっスか…なんか最近頻度高いっスね」
「まったく仁王君は…いつまでいましたかね」
「多分さっき部員が一斉に帰った時じゃねぇか?まだ校内にいりゃいいけど」
仁王がいないとやんややんや騒ぐ四人に、ついさっき自分が目撃したものを話すべきか、と、悩んでいたら、すっと、何事もなかったように幸村が真雛の座るベンチの正面のベンチに腰を下ろした。
話を振っておきながら仁王の所在についての四人の議論に参加する気はまったくないらしく、ゆったりとグラスの麦茶に口をつけているその幸村の様子から、じんわりと心に嫌な予感が滲み出てくる。
この状況は、あの時と似ている。
あの時は、室内に他に人はいなかった。が、幸村は今、四人に違う方向へ気が向く話題を振ったことで、あの時とよく似た空気を作り出した。
そう、あの時と、よく似ている。
氷帝の部室で、自分と会話をする場をそつなく作り出した、あの、忍足との状況に。
「…ゆ、幸村君は、仁、」
「―――――跡部か」
懐かしい名前を聞くような、往年の友人を回顧するような、優しい響きで紡がれた言葉が、やんわりと真雛の言葉を遮った。
少し遅れて、その紡がれた名前が指す人物の姿が、頭を過ぎる。
最初は雨の中で。次は部室で。それからはずっと部室の中から、マジックミラー越しに姿を見るくらいで、会話なんて殆どないに等しかった。
そして、記憶は、いつもあの夕方と夜の境目の中にあった偶然の再会にたどり着く。
愕然とした様子の彼が、自分の名前を呼ぶ。
動揺しながらも、通話中なら、外側のランプが点滅しているはずだ、と、困惑の色を隠せない、揺れる氷点下の海のような深い青色の瞳。
「…幸村君も、跡部君と友達なの?」
「友達というか、やっぱり言い表すならライバルかな。中学の頃からよく知ってるし、こちらもあちらも仮にも全国区の部長同士だから」
跡部のおかげで色々と面白い体験もできてきたからね、と、吹き出すように笑った幸村はひどく楽しそうで、きっとそれは前に真田と柳生から聞いた、跡部主催の大運動会だったり、イギリスでの世界ジュニア大会での古城の死闘だとか、それらのことを指しているのだろう。
「…そうだよね。うん、知り合いだよね、さっき話してた時もみんな知ってたみたいだし」
「跡部のこと、気になる?」
その言葉に、手の中の麦茶に落としていた視線を、上げた。
ついさっきまで同じくこちらなんて見ていなかったはずの幸村が、今は顎に手をつけながらきらきらと目を輝かせこちらを見つめている。
これは、つまり、
「……………幸村君…あのさ、」
幸村に、僅かながらの勇気を振り絞り、気にかかっていたことを聞いてみた。
「確信犯?」
「あははは」
無言の、いや、笑顔の肯定らしい。
おそらく、以前幸村の花壇で幸村と跡部、真田に遭遇した時、またはさっきの会話の中で何か感じ取るものがあったのだろう。幸村があの夜のことを、真雛の力のことを知るはずがないのだから。
落ち着いて、応対をすればいい。
名前を出された時に動揺してしまったのは、きっともう感づかれているから。
そう、あの夜のことや力についてさえボロを出さなければ、これはなんの変哲もない世間話だ。
「うん。なんというか、今まで会った人の中でも異色中の異色というか。そうだね、気になる人ではあるかも」
「そういえば成田さん、しばらく氷帝に足しげく通ってたらしいね。跡部とはそこで?」
「うん、まあ」
あながち、嘘ではない。
初めて会って言葉を交わした時には、名前なんて知らなかった。
「そっかぁ、跡部かぁ」
「いやでも、特に興味津々ってわけではないし。ほら跡部君って、」
「――――あれも大概、広い懐や見解、価値観を持っていながら、自分の感情と哲学を持て余してる男だから」
再び、言葉を遮ってきた、その言葉に。
次にと用意していた言葉が、喉につっかえ、そのまま霧散した。
今、きっと。
これはきっと、感覚でしかない。幸村の紡いだ言葉の何ひとつ、理解ができていない。でも、
きっと、この感覚は間違いではない。
今、きっと、自分はとても大切なことを聞いた。
「……どういう、意味?」
尋ねても、幸村は唇の両端を引いて微笑むだけで、答えてはくれない。
真雛は重ねて聞きたかった。だが、こちらを向いているその目がひどく優しいせいで、それ以上尋ねることができなかった。
今きっと、幸村は何か大切なことを、婉曲的に伝えてくれた。他には知られないよう、そっと。
例えるなら、空の色を映した小さな、でも底の深いプールに、いくつものビー玉を静かに放り入れたような。
そして、幸村はゆっくりと続ける。
「最近、あの紙袋も持ち歩いてないね。家に置いてるのかな?なら、きっと君もあいつも大丈夫だよ」
「…何、で、」
「前に花壇で会った時、ちらりと中身が見えただけ。それ以上のことは何も知らないし、あの時一緒にいた跡部にも聞いてない」
そんなことまで、見逃さなかったのか。そしてそこから今までのこの短い間で、真雛が跡部に関し思うところがあることまで、見抜いたというのか。
前に、真田がいっていた。
幸村は人の思いを、気持ちの向く方向を、その機微を悟ることに長けた人間だと、そう真田は彼を称していた。
今なら、よくわかる。
幸村は真田や跡部とはまた全く違った種類の、上に立つ素質を持つ人間だ。
真雛が言葉をなくしているのを、今幸村はじっと見つめてきている。髪の色にもよく似た深い深い紺色の瞳は、暖かく、そして優しい。
いつも、こう人を見ているのだろう。そして、人の優しいところ、柔らかいところを掬いあげる。その上で厳しさも持ち合わせている、そのしたたかさが何の言葉にもいい表せない。きっと、それは幸村という人の奥深さだ。
改めて、彼を見る。
真田と柳生が、様々な事柄に関して頭が下がると、そう称した人。
ずっと遠くに見えるのに、ずっと遠くに感じるのに、すぐ近くで微笑む人。誰より優しく、そして厳しい人。
彼の瞳に映る世界は、どんな色をしているのだろうか。
なんだか真っ正面に向かい合って座っていることに少し気恥ずかしさを覚え、少し位置をずらした。
幸村はそんな真雛の様子を見ながらくすくすと口に手をあてて小さく笑い、それから、と、話を続けた。
「それから、これだけは忘れちゃいけない。跡部はね、かっこいいんだよ。あの誰にも真似できないかっこよさが、やっぱり跡部だと俺は思う」
次の言葉は、もっとよくわからなかった。
跡部は、かっこいい。
部室の窓から、コートに、そして人の前に立つ姿を、見てきた。
きっと跡部と対峙した時にその人が感じるのは、畏怖。自分の世界にそれまで、確実に存在しえなかった人種。そこにいるだけで、なぜだかこちらが緊張してしまう、孤高の者の威圧感。
跡部の造形が抜群に優れていることは、おそらく何度か顔を合わせた真雛でなくとも、彼をひと目見た人間ならば誰だって悟る。
絵画か彫刻のように整った顔に映える、空というよりも、海というよりも、氷という言葉が相応しい、アイスブルーの瞳。
跡部は、かっこいい。
「…跡部君はかっこいいよ?」
「跡部のかっこよさ、本当にちゃんと成田さんは知ってる?」
「え?」
「例えば、仁王の案外年相応なところとか。あれと、俺のいったそれとは、ひとところに変わらない。たぶん、君なら」
真雛が掬い上げられるよう、それでも手を差し延べすぎることはなく。
幸村のその一手は、真雛によく作用する。
きっと自分は今、幸村の伝えようとしたそのすべての、ほんの僅かしか理解できていない。
でも、わかる。
おそらく、何を促しているのかは。
「でも、俺がわざわざこんな事をいわなくったって、成田さんはきっと大丈夫だ。これは俺のお節介」
「………よくわからないけど、幸村君、買い被り過ぎだよ。多分、色々」
「俺は人を見る目が全くないとは思ってないし、真田や柳生なら尚更。あいつらの人を見る目は、確かだ」
そういわれてしまうと、もう何も返せない。
真田と柳生は、人を見る目がある。それは間違いないと思ってる。が、そこに自分が含まれるとなると、やはり何ともいえない。複雑だ。
ちらり、と、視線をそらすと、少し向こうではまだ四人がやんややんやと騒いでいる。
やっぱ電話出ねぇ、とか、帰ってはいないはず、とか、話し込んでいるようだが、仁王を連れ戻す話の目処は立っていないようだ。
と、ふと、空気が変わった。
視線を、ゆっくりと戻す。
正面に座る、幸村。
交わった視線の先の目が、違った。
「それで、ここからは俺の話」
見守る目ではない。暖かく包容力を思わせる口調ではない。
きっと、これは。
例えるなら、
「―――――逃げないよ」
コートで、ネット越しに彼と対峙した選手の感覚、だ。
もしくは、彼の下にいる人間の、感動。
言葉を通して、目を通して、彼のすべてから、全力を尽くす覚悟が伝わってくる。
体が、動かない。目が、離せない。
「真っ直ぐ正面に立って挑む事は、まだ出来そうにないけど。でも、逃げない」
何に対し、なんて、愚問だ。
これは、あの時の、あの日の続きだ。真雛と幸村が初めて言葉を交わしたあの日の、続きだ。
先程までとはまったく違う、凛々しい、という言葉が最も相応しいのではないか、と、思わせる笑みに、胸の奥が、熱くなる。
逃げない、だなんて。
幸村はずっと、逃げてなんていなかった。ずっと、自分にも、仁王にも、仲間にも、真摯に向き合っていた。だからこそ、あんなにいっぱいいっぱいになってしまっていた。
幸村が逃げたことなんて、きっと一度だってありやしない。
彼はいつであっても幸村精市自身であり、彼らの仲間で、そして、部長なのだから。
「女の子の君が頑張っているのに、男の俺が、部長の俺が頑張らないわけにはいかないだろう?」
きりりと引き締まっていた表情が、柔らかく崩れ、笑う。
あれだけ個性的な立海テニス部の面々が、揃って幸村をつき慕う理由が、今ようやく心の底から理解できた気がする。
この人には、敵わない。
きっと、自分の一生を懸けたって、敵わない。
「……幸村君、」
「うん?」
言葉を、探す。
今のこの感情を伝えるのに、一番相応しい言葉を。
それでも、やっぱりこの言葉しか出てこなかった。
「前にも言ったけど、幸村君はすごくかっこいいよ」
自分の語彙の少なさが悲しかったが、でもやはりこの言葉が最適に思えた。
幸村は、かっこいい。
遠くから見ただけでは、話を聞いただけではわからない、正面に向かい合って話さなければわからない、かっこよさ。
幸村が先程、跡部のかっこよさを本当に知っているか、と、問うた、その意図も、先程よりもう少しだけわかった。
そう真雛が納得している正面で、かっこいい、と、いわれた幸村は一瞬ぽかん、と、呆気にとられた、年相応の表情を見せた。
が、次の瞬間、
「どうしよう、俺成田さんに告白されちゃった」
「「「「は?」」」」
爆弾が、投下された。
仁王連れ戻しの談議に熱中していた四人も、ぽかんと大口を開けてこちらを見た姿勢のまま固まりついている。
えへっ、と、はにかみながら笑う幸村。に、反し、みるみる自分の血の気が引くのがわかった。
脳内で、反芻する。
どうしよう、俺成田さんに告白されちゃった。
「え、何、お前幸村君狙いだったの?すげぇ無謀だなー」
「真雛先輩、ま、マジっスか…!?」
「いやいやいやいや!告白なんかしてないから!幸村君狙いでもないから!」
「成田さんったら照れ屋だな〜さっきは正面から真剣に俺のことかっこいいって言ってくれたのに」
「あの、ちょ、幸村君…!?」
遊んでいる。そしてこの状況を確実に楽しんでいる。
けたけた笑い転げる丸井に、顔を真っ青にして諦めた方がいいと説いてくる赤也。ため息をつく柳生に、苦笑いを浮かべるジャッカル。楽しくて仕方がなさそうな幸村。
ぐわん、と、目眩がした。
「…幸村君って、ああいう性格なの?」
「…お前、知らなかったのか?」
「いや、話には聞いてたけど…目の当たりにするのは初めてで…」
「あー…」
何かを悟ったかのような表情を浮かべるジャッカルは、それ以上何も言葉にださず、ただ肩にぽんとその大きな手を乗せてきた。
なるほど。日頃の真田の気苦労やジャッカルの苦労の片鱗を垣間見た気がする。正直、真雛もすでにどっと疲れた。
話もあらかたしたことだし、封筒も無事渡したし、そろそろおいとましようと腰を上げかけた、その時、
「成田さん」
騒がしくなった場の中央で、今だ笑いが堪えきれない、といった様子の幸村に呼びとめられた。
「ここまで書類を持って来てもらったばかりなのに、もうひとつ頼み事をしても構わないかな?」
「頼み事?」
「仁王、探してきて欲しいんだ」
え、と、思わず口から声がこぼれ落ちた。
奥で柳生の表情が僅かに強張ったのが見えた。が、うまい具合に覆いかぶさるように幸村が真雛の正面に立ったせいで、その姿も見えなくなってしまう。
「連れて来るのは難しいと思うけど、俺が文化祭の件で呼んでるって伝えてくれれば流石に自分から来ると思うから。仁王を見つけて、そう伝えてくれない?あいつ、携帯の電源落としちゃってるみたいでさ」
「なになに幸村君、そいつに頼むわけ?大丈夫なのかよ、んなちんちくりんに」
「仁王を見つける事に関しては、成田さんがプロだし」
よかったら引き受けてくれないかな、成田さん?と、幸村が、微笑む。はかなげで、優しげで、気を抜くと顔が赤くなってしまうような、そんな笑顔。
が、その腕の中には、いつの間にかしっかと抱えられた真雛の鞄。
おかしい。確実にこの図はおかしい。
再び、ジャッカルの手がぽん、と、柔らかく肩を叩いた。
拒否権なんてものは、当然存在しないらしい。
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