「(スコーン、食べたかったなぁ…)」
とぼとぼと来た道を引き返さざるをえなくなった真雛は、ふと先ほどの宍戸との電話を思い返す。
最初は、すっかりジャヴァネ特製のスコーンを食べる気分だったのに、と、その残念さばかりが脳内を占めていたけれど。
薄暗くなってきた道で風に吹かれて歩いているうちに、少しずつ頭が冷めてきた。残念さの代わりににじみ出てきたのは、ぬぐいきれない違和感だ。
電話に出てすぐこそ訳のわからないことをいっていたが、本題に入ってからは口調がもごついていたわけでもない。あからさまに態度がおかしかったわけでもなかった。
じゃあ、今この違和感の正体は何なのか。歩きながら、それを考えた。
そもそも、ここまで引き返すなんて、過去そんなことがあっただろうか。
店の前まで行って休業していた、ということすら、かつて一度だってあっただろうか。
「(…そうだ。いつもだったら、前日までに亮ちゃんがマスターに行くって連絡入れてくれてたから、ここまで来ちゃうこと、なかったもんなぁ)」
前回ジャヴァネを訪れた時も、眠ってしまった真雛を荷台に乗せ宍戸家まで連れて行ってもらったが、まさにおんぶにだっことはこの事をいうかもしれない。さすがに少し反省するべきかも、と、今まで思いこそしたが実行されずじまいの何度目かの反省をした。
しかし、そこまで面倒見のいいあの幼馴染みがいながら、今回こういう事になったのは、つまり、だ。
本当にマスターが急用で、突如今日は店を閉じることにした。それから宍戸に連絡が入り、こちらにも連絡がきたのがついさっきだった。と、いうことなのだろう。
そう、これなら納得がいく。
けれど、
「(…うーん、やっぱり、なんだか引っかかるような…)」
歩きながら、考え続ける。
なぜ、引っかかるのか。何が、引っかかるのか。
そう人気のないせいか、考え事をしながらぼんやりと歩いていても、誰かにぶつかる気配はしなかった。枝にとまる雀や花壇の花の声は、いつもと変わらず耳に入ってはきたが。
と、そこで、足が止まった。
「(ああ、違和感、わかった)」
ぱちり、と、パズルにピースが埋まるように、思考が空いていたスペースに当てはまった。
「(普段あまりない事態のはずなのに、さっきの電話の亮ちゃんはやたら落ち着いてたんだ)」
ずっと引っかかっていた違和感は、これだ。
真雛が閉店中のジャヴァネに向かっている最中なのは、勿論わかっていたはずだ。それなのに電話をかけてきた宍戸は、慌てる素振りはおろか、なぜかいきなり天気の話なんてものをし始めた。
しかも、本題に入ってからも普段以上に落ち着き払っていて、話を急ぐ素振りはまったくといっていいほどになかった。
宍戸らしい、を、考える。
慌てて電話をかけてきて、ジャヴァネでのお茶の時間がになったなら仕方ない、と、何かしら代替案を提案してくる。そこまで考えて、はじめて納得がいった。
だが、ここでまた、行き詰まる。
「(………違和感はわかったわけだけど、じゃあ、と、言われると…うーん…)」
違和感の正体がわかっていたところで、じゃあ今何ができるのか。
宍戸がなぜ落ち着き払っていたのか、その理由に関してはさっぱりだ。
一度ポケットにしまっていた携帯電話を出し、開く。このまま履歴から宍戸に電話をかけ直すことは簡単だ。けれど、何をどうやって聞けばいいのだろう。もし、忙しかっただけだったなら?あまり触れられたくないことが原因だったら?
考え込んでいるうちに、手の中の画面は暗くなってしまった。周囲の暗さも相まって、随分と辛気くさい表情を浮かべた自分の顔が映り込む。
どうなのだろうか。
最近自分の周辺が、いい意味でも悪い意味でも賑やかになりすぎていたから。
もし、宍戸が何かに悩んでいるならば。もしかしたら、自分は気づけなかったのだろうか。気づける機会があったのに、気づけなかったのだろうか。
だとしたら、
「…………………」
宍戸のことは、兄弟同然に思っているし、あちらもそう思ってくれているという自負もある。
けれど、どうしてだろうか。
中学を卒業し神奈川県に引っ越してからも、週に一度は必ず会っているのに。この電話のボタンをいくつか押すだけで、話せるのに。
神奈川県と東京なんて、近いと思ってたいたのに。実際、近いのに。
近いのに、なぜ今こんなにも遠く感じるのだろう。
なぜ、こんなにも寂しさを覚えるのだろう。
「……もう、今日は……早く、帰ろう」
ぽつりと呟き、止めていた足をのろのろと、再び前へと進めはじめた。
今日はまだ火曜日だ。一週間は、始まったばかりなのだ。
明日も学校は当然あるし、海原祭の準備だって楽ではない。
そして金曜日には、またいつものように会うのだから。今この場所でひとり頭を悩ませるよりも、早く帰り金曜日宍戸にどう何を聞くかを考える方が、どう考えても有益だ。それにもしかしたら、宍戸に関することならば家族が何か知っているかもしれない。
そう自分にいい聞かせながら歩き出したものの、沈みきった気持ちは浮上する気配も見せず、いいようのない寂しさばかりが胸の内をぐるぐると渦巻いていた。
考え過ぎかもしれない。
金曜日に会えば、いつものように、
「ーーーー成田」
この閑静な住宅街でなくとも、きっと、よく通るだろうと思う、声だ。
この声を、知っている。
名前を呼ばれたのは、これが二度目。
焼き付いたら記憶と、今この現実が重なる。時と場を超えて、再現される。
目に映る現実への、既視感。
この光景を、知っている。
薄暗い住宅街の歩行者通路。電灯の明かり数個分先に立つ、顔見知り。まったく同じシチュエーション。これが、三度目だ。
一度目と違い、立っているのは目を見開いた柳生じゃない。二度目と今が、リンクする。
ただ、今の彼は驚愕の表情は浮かべていない。真雛は、動物とも植物とも喋ってはいない。それでも、この瞬間は確かにあの時そのものだった。
「………………え…」
何故、ここにいるのだろう。
街灯のぼんやりとした灯りが、コンクリートの一部を丸くくり抜いているかのような曖昧な輪郭の光の輪を作り出す。
その、向こう。
暖かな灯りの輪の、一寸先の暗闇に、立つ人影。
薄暗さの中でも際立つ、明るい茶髪。それも、人工的なものではまったくない、艶やかな。
真田よりも、柳生よりも、目線の高さは近い。それなのに、こちらへ向けられる真っ青な瞳に圧倒される。深海を思わせる、淡い海を思わせる、空を思わせる、真っ青な。
「跡部……君?」
制服姿に、テニスバックではない通常の鞄を肩にかけて。前に踏み出すでなく、後ろに引くでもなく、立ち尽くし途方に暮れているでもなく、跡部はただこちらを真っ直ぐ見つめてくる。
眉間に浅く皺を寄せ、口を一文字に結び、怒っているというよりは、どういう表情をすべきかわからず、そんな表情を浮かべている、といぅた様子に見えた。
偶然通りかかった、という雰囲気は、微塵もなかった。彼は真雛の進行方向で、意図的に自分を待ちかまえていた。
跡部は、喋らない。
真雛も、言葉が出てこない。
距離にして、約三メートル。
――――――逃げなきゃ。
この前と同じ警鐘が、頭の中に鳴り響く。
――――――ほら、この間みたいに、早く逃げなきゃ。
違う。逃げる必要なんて、ない。
宍戸が大丈夫と言っていたんだ。跡部なら、大丈夫だと。
でも、やっぱり、それでも、
いや、逃げたくない。今までたくさん逃げてきた。一度目、柳生の時も逃げた。二度目、今目の前の彼からも逃げた。今度こそ、
でも、
向き合いたいのに、逃げたくないと思っているのに、不安の色はじわじわと確実に侵食してくる。
もう逃げないよ、と、そういった友人が、頭をよぎる。まぶしいほど真っ直ぐで、少し腹の内が黒いところがありそうだが、強く優しい。そして、彼の仲間たちもまた。あの友人たちの姿に、思ったはずだ。一生かけても適わないだろうけれど、なれるものなら、あのような人間でありたいと。
そうだ。自分だって、逃げても何も解決しないことは、痛いほどよくわかっているのに。
でも、幸村君、
もし、病院へ行け、とでもいわれたら。もし、ちゃんとしたところで調べてもらえ、とでもいわれたら。もし、黙っているかわりにと何か脅されたら。もし、お前なんかもう宍戸に関わるなといわれたら。
もし、気持ちが悪いと、いわれたら、
じり、と、足を後ろに下がった。
無意識だった。
けれどその瞬間、ひどく自分に幻滅した。その時、
「話しが!」
後ろに下がった真雛を呼び止めるように、跡部が弾かれたように口を開いた。
少し張った声に、肩が揺れる。体がこわばる。そんな真雛の様子を見てなのか、少しトーンを下げて、
「話しが、したい」
そう、真っ直ぐとこちらを見据えてゆっくりとした口調で話しかけてくる跡部に、真雛は言葉が返せない。何かいいたいと思うのに、何も返事が浮かばない。口を開けては閉め、その繰り返ししかできなかった。
でも、だって、けど、
何か口にしようとすると、必ず出だしがそこから始まってしまいそうで、やはり何も声にならなかった。
跡部の強い視線から目線をそらし、自身の視線は下方を泳ぎ始める。
「おい、こっちちゃんと見ろ」
怒る、咎める、というよりも、呆れたといった言葉が相応しい、少し軽い口調でそう促された。
おそるおそる、ではあるものの、再び顔をあげ少し先に立つ跡部の顔をみれば、それは複雑そうな、なんともいいがたい表情を浮かべていた。
今の、跡部は。
すぐにでも逃げ出したい衝動がおさまってきたからなのか、改めて落ち着いて顔を見たからなのか、ようやく。ようやく、今目の前に立つこの知人のことを、考えることができた。
今、ここにいる人は。
雨の日にはじめてストリートテニスで会った、名乗りたがらなかった気さくな彼なのか。
それとも、部室で会って以来、かたくなに真雛のいる方を向かず、口をきかず、関わりを持とうとしなかった、彼なのか。
どちらなのだろう、と、ぼんやりと考えたけれど、不思議とどちらでもない気がした。そして、どちらでもあるのかもしれない。
「………………………跡部君…あの、」
ようやく言葉がでてきたのに、そこから先が続かなかった。
しかし、会話が途切れそうになってしまうのをフォローするかのように、まごつく真雛の言葉の続きを待たず、腕を組み真剣な面向きで跡部が再び口を開いた。
「……怯えてくれるな、と、この言葉も信頼できるものとして、捉えられないかもしれない。だが、」
ひと息、置いて、続く。
「お前が信頼を置いている宍戸の、所属する部活動のトップとして、約束する。うちの部員が家族同然に大切にしている奴を貶めるような真似は、決してしない。ましてや、傷つけることもしない。少なくとも、そうある努力をする」
この言葉の、重みは。
どうしてここまで、的確に人の心を落ち着ける言葉を選べるのかと思うほど、跡部のその言葉はしっかりと、説得力という重みを持って、真雛の荒だっていた心を宥めさせた。
真雛が宍戸をどれだけ大切に思っているかを、知っている。真雛も、跡部達氷帝学園テニス部の部員達が、その名にどれだけ誇りを持っているかを知っている。
きっと、表情に出たのだろう。
先程より少し自信をもった様子で、跡部は更に続ける。
「お前を今日この場に寄越したのは、他でもねぇ宍戸だろう?」
「…………………あ…」
「俺を信じなくても構わない。この場を用意した宍戸を信じろ」
そう言うと、だ。
跡部は突然くるりと身を翻し、真雛のいる方向とは別の方向へと、歩き始めてしまった。
「え?あ、あと……」
どこに、と、真雛が聞くよりも先に、跡部は大股ですぐ脇の公園の入り口を抜け、公園内へとすたすた歩いていってしまう。
これは、ついて来い、と、いうことなのだろうか。
真雛もそろりそろりと公園に入ると、跡部は奥の方ではなく、さっき自分達が立っていた道路寄りの植え込みの前に設置されたベンチの片側に腰掛けていた。肩に掛けられていた鞄は、その横の地面に置かれたらしく、真雛の位置からは端しか見えない。
少し悩んでから、何もいわず、綺麗に空けられた片側のスペースに腰をおろした。ふたりがそれぞれ座った間の場所は、それなりに広さが余っていた。
「…………………」
「…………………」
会話は、ない。ただ並んで座っている。妙な沈黙が続き、気まずさが広がっている。
時間がそれなりなせいか、公園内に人影は見られなかった。思えば、以前宍戸やジャヴァネでのバイト帰りの陶子とここに立ち寄ったことがあったが、遊具も少ないせいか、いつも人が大勢いる、といったことはなかったように思える。
そんな人気のない公園でも、奥の方ではなく、道路側で出口に近いところだということに、若干救われているところがある。それも、真雛の座っている側が出口側だ。
彼ならばおそらく、そこまで考えて奥の方に座ってくれたのかもしれない。
「………………跡部君」
ちらり、と、正面を向いていた跡部が、首だけこちらへと向く。
思えば、先程から喋ってくれていたのは跡部ばかりで、自分はまだまともに言葉を発してすらいなかった。
「…ごめん」
「何故謝る」
すぱん、と、竹を割るかの勢いで、自身の謝罪は一刀両断された。
「待ち伏せをするような真似をしたのは、俺様だぜ?」
くい、と、上を向き、そう言ってシニカルな笑いを浮かべた跡部に、沈みきっていた気持ちが少しだけ軽くなる。
苦笑いを返し、跡部によってだいぶ落ち着くことのできた胸をなで下ろし、ゆっくりだが言葉を選ぶ。
「……跡部君に、そんな真似をさせたのは……元々は私のせいでしょう?亮ちゃんに、頼まれて来たんでしょう…?」
自分がここにいる理由が宍戸にあると跡部が知っていたからこそ、今日頭を悩ませていたことについての合点がいった。
宍戸は今日、元から真雛と跡部を引き合わせるためだけにジャヴァネへ行くという約束をしたのだろう。
だから、きっとジャヴァネは閉店していないし、もし真雛の諦めが悪く店まで確認後に行きでもしたら、宍戸の嘘は簡単に露見することになったに違いない。
だが、自分と跡部を引き合わせるのに、その場にいないというのはどうも宍戸らしからぬ行動にも思えた。もしかしたら、宍戸以外にも今回の件に関わっている人間がいるのかもしれない。
「構わねぇよ」
「え?」
「宍戸に頼まれたことだとしても、そうすると判断し、決めたのは俺だ。お前と会って話をするべきだと、そう決めたのは」
これはまあ、なんと。
思わず、隣の跡部をぎょっと凝視してしまった。
氷帝でフェンスをぐるりと囲んでいたファンクラブの子達が聞けば、卒倒しかねない殺し文句だ。
跡部はね、かっこいいんだよ。
幸村のあの言葉が、脳内で再生される。きっとあの言葉が含む意味はこれだけではなく、まだまだ奥がありそうだが、しかし、なるほど。
と、こんな事を考える余裕ができたのは、ひとえに跡部のおかげだ。
本当に凄いなぁ、と、改めて感心していたら、ばちりと目があった。そこでふっと、伏せられた跡部の長い睫毛が、街灯の灯りに照らされて影を作る。
「…実際にさっきお前の様子を見て、あいつが何故あんなに必死に今回の件を頼み込んできたのか、よくわかった」
ついさっきまでの自分の狼狽加減について言われているとわかって、どう返せばいいかわからず、小さくすみませんでした、とだけ、呟くように答えた。
だから何で謝んだよ、と、今度は思わず吹き出すような笑顔に、また少し心が軽くなった。
「…………どこから何を話し、何を聞けばいいのか、正直わからねぇが…」
少しだけ、ほんの少しだけ、考え込む素振りを見せた跡部の次の言葉を、静かに待った。
本題は、わかっている。
もう逃げようとは思わなかった。怖くはあったけれど、話をしたいと、そういった跡部の言葉を、そしてここにいない宍戸を信じようと、そう決めた。
「…………成田、俺は、」
その時、だった。
時間にして、一体それはどれほどだっただろうか。
公演の逆サイドの入り口から、突如黒いパーカーを着た男が駆け込んできたと思ったら、次の瞬間。
地面に置かれていた跡部の鞄をしっかと掴むと、あっという間に元入ってきた入り口から、走り去っていったのだ。
とっさのことに、目の前で目を大きく見開いたまま呆然としている跡部のその顔に気を取られて、走り去る盗っ人に遅れをとってしまった。
遠ざかっていく駆け足の大きな音。取り残されたこの場の沈黙。
とりあえず、だ。
今日はとんでもないことが次々と起こる厄日であることに、違いはあるまい。