過ごしやすい、というよりも、少し肌寒い、という言葉がしっくりきそうな夕暮れだと、柳は思う。
秋も、随分と深まってきた。
踏みしめる地面には、若さを表す緑から成熟した赤へ、そしてそれさえも遠ざかり色鮮やかさというものなくした葉の数々が、まるで絨毯のように敷き詰められている。
冷たい風が顔をひと吹きして、そろそろベストからセーターに切り替えるべきかもしれない、とも思う。健康管理はスポーツ選手としても、文化祭を控えた学生としても手を抜くことができない重要課題だ。
ふと、体調を崩した自分を想像してみれば、昔からの友人が腕を組み怒鳴りつけてきながらも心配の様子を隠せない、そんな光景が簡単に思い描けて、思わず小さく吹き出してしまった。
そして続けざまに、精市なら、赤也なら、柳生なら、と、順番に旧知の仲間達の反応を過去のデータと照らし合わせ想像する自分は、大概部活馬鹿、友人馬鹿と呼ばざるをえない。
思えば、随分と長い付き合いになってきたものだ。彼らと、そして高校に進学してもなお立ちふさがるライバル達とも。ラケットとボールと、そしてコートさえあれば、そこはもう自分達の世界になりうる。そんな青春を彼らと駆け抜けてきた。
かつては、その犠牲にしたつもりでいた一般学生としての学生生活は、今どういう因果か目の前に広く、そして果てしなく広がっている。それはまるで、ラケットを手にあのラインの内側に立った時のような高揚感と、道を勝利へと切り開く燃えるような意志、ネットの向こうにある永遠と酷似していた。知識で知る世界とはまた違った、自分を取り巻く限定された世界というものは、意志や行動でいくらでも形を変える。改めてそう思い知ったのは、意外にもそう遠くない過去のことだ。
ただ、当初は事態を好転させただけかと見えたその因果は、意図せずそれまであったものを歪みねじ曲げ、光と闇にも例えられるだろう表裏一体なものであった。そしてその歪みは、まるで小さな歯車のようで。その歯車が歪んだことにより、多くの不具合が生じている。
吉とも、凶とも。
「どういうつもりなんじゃ」
唐突にそう尋ねてきた仲間に、柳は訳がわからない、と、いった呈で首を傾げた。少し先の電柱の脇に立っていた仁王の、眉間の皺が深くなる。
そろそろ来るのでは、とは思っていたが、クラスの方の出し物の手伝いはそれなりに長引き帰りが遅れた今、このタイミングでここに現れるとは正直思っていなかった。相変わらず、この男は神出鬼没だ。
それなりに驚きはした。が、柳が驚いた様子を微塵にも表に見せなかったからなのか、近況の変化からなのか、仁王は以前は見せなかった不快感を全面に押し出して、舌打ちさえ打ってみせた。どうやら、そうとう余裕を失っているらしい。間違いなく、幸村をはじめとした、テニス部の急接近が原因であろう。
そんな仁王の様子を静観しながら、本当にこの短期間で変わったと、柳はそう思う。
近しくない人間には、そう大きな変化には感じられないかもしれない。
ただ、わかる。明らかに、前とは違う。仁王が強く強く引いていた境界線が、確かに揺らいできている。しっかと身を取り囲んでいたその糸に衝撃を与えたことで、糸が弛んだのか張り詰めたのかは、推し量り難いが。
だが、以前であれば、仲間にであってもここまで感情をあらわにはしてくれなかった。自分達も、踏み出せなかった。事情が事情だけに、という逃げ口上はいくらでも並べられる。でも、きっと先になすすべが見つからず途方に暮れてしまったのは自分達で、仁王もそんな自分達に倣ったのだろうと、そう思っている。
それでも今この瞬間、仁王も、自分達も、確かに変わってきている。
本来関わることもなかったかもしれない、あの友人を起爆剤として。確かに。
「いきなり何だ?こんな場所でわざわざ、待ち伏せて」
「白々しい。わかっとるくせに」
ぎらり、と、仁王の目の色素の薄さは、元々の鋭さに研ぎを増す。完全に色味というものが抜けきった銀髪は、秋の暖かみに溢れたわずかな光を受け鈍く光る。それらが本人の醸しだす空気と相俟って、酷く近寄りがたいものとなっていた。
けれど、自分は知っているはずだ。
この男が本当に怒る時は、それはあの副部長とも温度差を競い合うほどに熱く、それを胸の中と喉元に抑えた姿は、隠しきれない憤怒の炎を瞳の中や拳の中にたぎらせると。
そうだ。ちゃんと、知っている。
一見わかりづらくとも、立海の中でも一、二を争う熱い男だということを、知っている。奇行が目立つも、決して度は超さないよう心掛けていることを、知っている。口達者に見えて、本心を語る言葉の数々をあまり持ち合わせていないことも、知っている。ストレートな賛辞に実は弱いことも、知っている。一度身内と認めた者を、どれだけ大切にしているかも、そうだ知っていた。
例え、気持ちの通わない一年半という時間があろうと。それまでの時間の積み重ねが、そして、気持ちが通いこそしなかったもののテニスというものを通して過ごしたら一年半から、わからないわけがなかった。見失うわけが、なかった。この男の本質を。どんな口八丁や見せかけの態度で隠そうとしていても、見失うわけがなかった。無意識の内に目を覆い隠していたのは、きっと自分達の方だった。
だからこそ、今はもう、
「お前の、」
「お前のその表情は、もう見慣れたさ。俺も、あいつらも」
以前より遠ざけられようとも、自分達が仁王を思うように、仁王も自分達を大切に思っていてくれたことを、知っている。根底にあるものは昔と何ひとつ変わらないのに、随分と遠回りをした。いや、遠回りをしている。そう、心の底から思う。
ただ、こじれた捻れはあまりに酷く、元の形に戻る術を失ったままでいる。
今柳の立つ落ち葉の絨毯が敷かれた歩道と、仁王の立つまで電柱下の、たった数歩の距離。この距離を埋める術は、きっと、
それは、きっと、
「………どういうつもりじゃ」
ぐるりと回って、会話はスタート地点に逆戻り。どうやら、話題をそらす試みは失敗に終わったようだ。それでも、収穫はあったが。
ふむ、と、顎に手を当て、一番ふさわしい返答を考える。
「来たるべき時を、待っている」
「また、それか」
吐き捨てるようにそう返され、あまりに想像通りの反応だったものだから、柳は吹き出してしまいそうになった。だが、そんなことをしてしまえば仁王はすぐさまこの場を立ち去ってしまうだろう。そっと心の中に留め置いた。
そもそも、だ。
自分達の間に引いた境界線を濃くするべくこの男がここにやってきている以上、柳は手の内を明かすつもりはさらさらないのだから。
だが、
「あいつを使って、お前さん何する気なんじゃ」
と、思ってもいなかった言葉が次いでかけられたので、一瞬面食らってしまった。
まさか、こんな事を口にするとは。
まさか、このこの短期間に。こんなにも、大きな変化を見せるとは。
「『あいつ』?」
それが指す意味をわかった上で、でもわからない風を装いそう問い返せば、わかっとるくせにしらばっくれんな、と、ぴしゃりと質問は叩ききられた。
だが、これは。まあ、なんと。
隠し切れなく鳴りそうだった笑いを喉の奥に押し込めて、より強い確信を得るべく、賭けに出た。
「以前よりも、随分と親しげだな」
「は?どこがじゃ、阿呆」
目に見てわかるほど、随分とかちんときたらしい仁王から、直接的な罵倒の言葉が飛び出てきた。
「阿呆とは酷いな。今まであまりかけられたことのない類の罵声だが、なかなか堪える」
「お前さんのあんまりにも見事な口八丁振りに、みんな口にできんだけかもしれんよ」
「みんな、とは誰を指す?あまりにも漠然とした指示代名詞に罵られようが、僅かにも響かないな。それに、そういった指示代名詞を尤もテニス部内で嫌悪していたのは、お前だと思っていたが?」
違ったか?と、問えば、苦々しく顔を歪められた。仁王の言葉のストレートさに誠実に応えるつもりで、こちらもストレートに返しというのに、随分である。まあ、予想の範疇の反応ではあったが。
そして、好き勝手言っとれ、と、くるりと背を向け、仁王は場を後にしてしまった。また明日な、と、その背中に声をかけるも、返答はなかった。
だが、きっと朝練に遅れてきたりはしないだろう。
仁王は、半ばサボることがあったとしても、集合時間や待ち合わせ時間といったものに遅れてきた試しは、過去ほとんどといっていいほどにないのだから。存外真面目で誠実な男だと言って、信じてくれる人間が果たしてどれほどいるものだか。
そんな仲間を、友人を、柳はとても大切に思っている。胸を張って、声を大きく、そう言える。
「俺はな、仁王」
既にこの場を去った友人に、今は伝えられない言葉を紡ぐ。
そう、今は。それでも、いつかは。
「この、一年半。目的は何ひとつ、変わってはいないさ」
幸村達や、真雛の目指すものとはまた別の、目的。別の、手管。
きたるべき時を、待っている。その時がやってくるよう、そしてその時がきた時に最善が尽くせるよう。ただ、それだけを。
機を見誤らないよう。望む結果に至れるよう。誰も傷つけぬよう。いや、正確には、傷つくことがあっても乗り越えられるよう。
何も出来なかった、過去の自分への憤りを。あの時のすべてに、贖罪を。これから綿々とした先への道のりが、光あるものであるために、最善を。
だから、仁王。と、心の中で呼びかける。
どんな暴言を吐かれようが、構わないんだ。今はどれだけ嫌われようが、構わないんだ。最も、嫌いになどなってはくれないだろうという、自負はあるが。
それでも、今は。
今は。今のうちは。
□□□□
「(……………あまりに、酷い…)」
どんなに素敵な空間が演出されていようと、その空間に存在する人間によって場の印象というのは一変してしまうものなのだと、真田はつくづく思わざるをえなかった。
ジャヴァネは以前訪れた時同様、こじんまりとはしているも洒落た、という言葉抜きには語ることはできない、素敵な個人カフェだ。額に入れられた多数の写真や、ロンドン市街の地図、古い映画のポスターや観葉植物などで彩られた壁は色味こそ少ないもののシックな仕上がりとなっていて、アンティーク調のもので統一された店内のテーブルセットによく馴染んでいる。
とはいえ、テーブル席はななつしかない。カウンター席も、四人が限界だ。このコンパクトさとマスターの人徳、そして何より紅茶と菓子の味が、コアなリピーターを集める理由なのかもしれない。
が、そんな素敵な空間の中でも、だ。
カウンターでうなだれる宍戸は、その青い帽子からキノコでも生やしかねないじめっとした湿度を纏い、唸るばかりで顔をあげやしない。跡部との一件があった先日の真雛とよく似た雰囲気を感じるあたり、家族同然に育った幼馴染みだということを実感する。
対してジローはソファチェアの上に体育座りをし、紅茶の中にどぼどぼ砂糖を入れていて、柳生は紅茶とケーキのセットを静かに楽しんでいるようだ。
きっとこの場に最も外見的にそぐわないのは自分だろうということだけは、痛いほどにわかっている。
だが、店内の空気を著しく重苦しいものへと変えてしまっている宍戸や、この状態の宍戸の扱い方をとっくの昔に放棄したジローと柳生のふたりに比べれば、幾分か自分の方が常識人なのではないか、とも思えてしまうのは、仕方がないことではないだろうか。
「……それで、お前は何故そこまで沈んでいるというんだ」
そう声をかけると、カウンターにうなだれたまま顔を上げることもなく、宍戸が低く唸った。頼むから人間の言葉を使って会話を成立させてほしい。
今頃、宍戸に突如謎のドタキャンをくらってこの店に来ることができなくなってしまった真雛も、この重苦しく澱んだ空気に満ちた店内の惨状を見たら、きっとドタキャンされた怒りも萎み言葉をなくすのではないか。そうとすら、思わざるをえない。
ため息を喉の奥でぐっとこらえ、そのまま紅茶で胸の内へと押し流した。
「…………無理に、返事はいらんが…」
「……………………」
自分にできる、最大限の譲歩の言葉のつもりだったのだが。
『こうかは いまひとつの ようだ』
頭をよぎったゲーム画面と戦闘BGMをかき消すように、首を振る。今はそれどころではないのだ。
しかし、沈黙がここまで辛いと感じたのも、久し振りである。
「……………………」
「……………………ムゥ…」
「 ………………………………やっぱり」
「!」
「………………俺は、別に居合わせてもよかったんじゃねぇのか…?」
真田の胸の内の切なる願いが届いたのか、ようやく宍戸は口を開いてくれたものの、相も変わらずカウンターに伏せったままで、加えて酷く不機嫌な様子が手にとってわかった。
が、そんな宍戸の言葉も、少し離れたソファチェアから、ジローが容赦なく叩き斬る。
「真雛だけじゃなくて、跡部のことも考えてあげろって話、前にもしたはずだCー。宍戸のばーか」
「うるせえ」
より一層カウンターにめり込む勢いで意気消沈する宍戸に、真田はもはやかけるべき言葉を失った。宍戸とジローの会話の意味は残念ながら十分には理解できていないが、漠然とは、宍戸の葛藤は感じ取ることができたからだ。
今回の件に関してのみいえば、どちらかといえば真雛寄りの立場にいる真田としては、友人と幼馴染みとの間ばさみになってしまった宍戸の苦悩にどうにも口を挟みにくい。
ただ、今回の跡部と真雛の話し合いの場に宍戸が居合わすべきだったのか、そうでない方がよいのか。そればかりは、自分の立ち位置を抜きにしても、どちらが最善かなんて判別はつかなかった。
「(………………もしも、)」
もしも、と、何の結果も生まないたとえ話。
もし、今回真雛の能力が知れてしまった相手が、跡部ではなく幸村であったら。最悪のケースとしては、仁王であったとしたら。
きっと、どれだけ悩んだとしても、どちらから一方につくことは、できなかっただろう。情けなく頭を垂れながら、どちらもの意見と感情に折り合いがつけられるよう、善処することしかできなかっただろう。折り合いがつかなかった先は、もう考えたくもない。
宍戸は今、その板挟みの中にいる。どちらも大切だからこそ、どうすることもできない。ただ、折り合いがつくよう全力を尽くすしか。
真田の見解としては、宍戸は自身が可能な範囲で、それはもうよく努力したと思っている。
逃げ出した真雛をフォローしに走った。跡部に荒唐無稽とも捉えられかねない浮き世離れしたわけ『事情』を説明し、どうか口外しないでくれと頭を地面にこすりつけた。らしい。真田が頼まれたのは不安に苛まれる真雛のフォローだけであり、跡部に対しての一切を担っていたのは宍戸なので、詳しい事情は知らないが。
そこからどういう話になったのかは、勿論のこと真田は知らない。
ただ、今日真雛と跡部をふたりきりで話させるから来てくれないかと、そう聞かされ、ここに来たのだ。
「(どういう経緯で、今日跡部と真雛をふたりきりで会わせる、という話になったのかを聞きに来た…の、だがな)」
だからこそ、今現在の状況自体をあまり把握できていない真田は、結果的に今唸ることしかできなかったのだが。
仕方がないので、若干冷め始めてきた紅茶に口をつけてみるも為せる事が見つからず、途方に暮れている。
本当のことを言えば、早いところ経緯を説明してほしいのだが。今現在も、状況は進行しているのだろうから。だが、この状況の宍戸に、あまり多くを要望することはできないだろう。
さて、どうすればいいだろうか。
そんな時、
「おやおや」
店内の様子を見かねてなのだろうか、奥の方から店主が出てきた。
真雛と宍戸が慕う暖かい人物としか、真田はこの老人を認識できていない。個人的印象としては、白髪白髭にふくよかな体型が、世界で最も有名な老人サンタクロースを想像させるとも密かに思っている。
「これは、また。店内が雨模様ですねぇ。皆さん、気分転換にコーヒーはいかがですか?」
そういって目線の高さに掲げられた木製アンティークのトレイの、その上に載った四つのカップが、四本の湯気の柱を漂わせている。
店内にバラけていたひとりひとりのもとに、店主がカップを置いていく。店内のソファチェアに腰かけるジローのもとに。ふたり席の片側の椅子に姿勢よく腰掛けていた柳生のもとに。
その際何か軽く声をかけ、どうやら軽く会話をしているようだったが、いくら店内のそう広さがそうなく聞き耳をたてられる距離だったとしても、それをする気にはならなかった。こればかりは自分の性分だ。
相変わらず数席挟んだ向こう側でカウンターに突っ伏している宍戸をどうしたものかと考えているうちに、店主がこちらの方へと戻ってきた。
トレイの上には、ふたつのカップが乗っている。
「お気遣いを、有り難うございます」
「君が真田君ですね。真雛ちゃんからお話、よくお聞きしますよ。本日は二度目のご来店、本当にありがとうございます」
真っ白なひげで覆われた口元が、緩やかな曲線を描き、暖かみ溢れる笑顔を成す。目元が細められ、皺が寄る。
その笑顔を見上げてふと、笑い皺の多い人だと、真田はそう思った。
人柄が顔に出る、とはよくできた言葉で、実に的を射ている。きっとこの人はこの歳になるまで本当にたくさん笑えてきたのだろう。
「いえ、こちらこそ…前回も今回も、こちらの都合で店を貸切にしてしまい、申し訳ありません。感謝しております」
「いいえ。それに、長くお付き合いのある亮君、真雛ちゃんの力になりたいという、僕の都合でもありますから」
ふふふ、と、小さく店主が笑う。
その少しお茶目な一面が、また素敵なんだと、真雛が言っていたのを思い出した。今なら、その言葉の意味がよくわかる。
「はい、亮君」
トレイの上にひとつ、最後に残ったコーヒーが、カウンターに突っ伏す宍戸のすぐ横へと置かれる。
宍戸は、頭を上げない。
「亮君もよおく、わかっているんですよね。ただ気持ちが先にきて、納得ができないだけで。もっともっと出来ることがしたい、ふたりのために何でもいい、何かしたいって。その思いが息苦しいから、唸ってるんですよね」
ゆっくりと、柔らかい声色で。
「ただ、それではあまりにお友達が可哀想ですよ、亮君」
咎めるような口調では、微塵もなかった。真田は、目が離せない。
「子細もわからず、それでも真雛ちゃんのためならと飛んできてくれたお友達に、ちゃんと説明はしなければ。亮君、僕は昔から君を知っていますが、君は誠意ある青年だと、僕はそう思っています」
でしょう?と、柔らかく笑う店主には、そのまま空のトレイを片手に真田の方を振り向いた。ばちりと視線が合い一瞬驚いてしまったが、彼は一度にこりと微笑むと、再びカウンターの中へと入っていってしまった。
宍戸は未だカウンターに顔を伏せている。微動だにしない。
宍戸とこの店主が、どのぐらいの付き合いがあるの真田は知らない。
ただ、彼の笑顔や言葉を信じる価値は十二分にあると、自分の勘は言うのだ。
「………宍戸」
思えば、今日ここに来てから話しかけはしても、名前を呼んだのははじめてだったような気がする。
言葉を選ぶ、ことはしなかった。
正直な言葉を望むなら、誠意を望むなら、こちらも同等のもので応えなければ。
「事情を詳細に話せとは言わん。だが、この沈黙は正直やりきれん。思っていることでも何でもいいから、とりあえず何かを喋ってくれ」
それだけが今この時この場においての、率直な願いだった。
すると、だ。
それまでカウンターにうつ伏せた姿勢のまま微動だにしなかった宍戸が、ゆっくりと、緩慢に、起きあがったのだ。
驚く真田に反し、向こうにすわる柳生とジローは、ちらりと一度だけ一瞥を向けると、再び何事もなかったようにコーヒーに口をつけ始めた。
しかし、店内はそう広くない。
これから宍戸が話すことは、この店内にいる誰もの耳に届くだろう。
「………………………跡部、は、」
ゆっくりと、そう切り出された。
久し振りに声を作った喉から出たその言葉は、掠れながらも、しっかりとした音を成していた。
「跡部に真雛の力についての話を始めて切り出した時、は…バラす気はねぇと、そう言ってた。んなことに興味はねぇって」
部活関係の書類から目も上げずに、と、付け足されたその言葉で、その状況を容易に想像することができた。
拳をかたく握りしめ、眉を寄せ、じっと跡部を見詰める宍戸。きっと、今している表情とよく似た、強張った表情で。
「それでも真雛が気にするから、本人にそう言ってやってくれと、俺が跡部にそう頼み込んで、今日こういうことになった。跡部自身は、そう乗り気じゃなかったように…見えた。俺には、跡部の本心自体は、正直わかんねぇけど、」
真田がいったように、思っていることを喋ってくれているのだろう。話は纏まってはいなかったが、宍戸の思いは、痛いほど伝わってきた。
跡部が能力を使う真雛と遭遇してから、そう長くは経っていない。
けれど、この短期間で、どれだけ宍戸は悩んだのだろうか。あの日、真雛が目撃された相手が跡部だとわかった時の、顔面蒼白となった宍戸の姿を、真田は今も覚えている。
「真雛の力に感づいて、どう感じたのかとか。何でこんな不可思議なことを追及するでもなく、すぐに口外しねぇと約束してくれたのかも。跡部が何をどう思って、今日の件を承諾してくれたのかも、わからねえ」
人の心なんて、そう簡単に推し量れるものではないだろう。
それがどんなに信頼を置く相手であれ、長年の付き合いである相手であれ。
言葉にしなくても、しても、思いが伝わる時と伝わらない時があるように。
宍戸の握り締めた拳が、音をたてる。
「……跡部だけじゃ、ねえ」
その先に続くだろう言葉は、真田にもわかった。
「真雛が何で跡部のジャージを後生大事に持ち歩いてたのかすら、俺は知らねぇ。あいつは、大切なことは、なかなか話しちゃくれねぇから。俺が気づいて問いただして、ずっとそうだったのに」
真雛が持ち歩いていた紙袋の中身が跡部のジャージと知った時の、宍戸の驚く様を、思い出す。
真田と柳生は勿論ながら、ジローも、そして宍戸も、本当に驚いた。
真雛が氷帝に足を運ぶようになるより前から持っていた紙袋の中身が、跡部のジャージだったことが意味することを、今も真田は知らない。本人が話したくなった時に聞けばいい、と思っていたし、宍戸もきっとそうだったのだろう。ジャージは紙袋の中に戻し、何も聞かなかったらしい。
けれど、きっとその事が、
余計に悩ませることになったのだろう。この、生真面目な男を。
「家が、隣だった頃ならって」
声が、より掠れる。
「…………神奈川と東京は、思ってたより、ずっと遠い」
絞り出すように、吐き出すように、呟かれたその言葉に、かけるべき言葉が見つからない。
神奈川と、東京。
ずっと、隣同士の家に住み、そして大きな秘密を持った妹分を、大切に守ってきたのだろう。
本当ならば、そう距離は遠くない。それでも、確実に以前とは違うのだ。少しずつ、少しずつ。
そんな男に、何が言えるだろう。
宍戸の表情は、見えない。カウンターの前を向いたまましゃべり続けている。脇に置かれたコーヒーが、まだ湯気をあげている。
何の声もかけられず、コーヒーメーカーとアナログ時計の小さな音だけが、店内に響き渡る。
誰も、何も、声をかけられない。かけない。
「……………ただ」
ぽつり、と、宍戸が言葉を続けたのは、どれだけたった時の事だろうか。
カウンターに視線を落としていた真田も、顔を上げた。宍戸は変わらず正面を向いているが、両腕を組み、強い眼差しで正面を見ている横顔を、見ることができた。
「あいつだから。跡部だから。口外しねぇと、そう言ったその言葉を信じたいと、そう思った。あいつの言うことだから、間違いはねぇと、そう信じたかった。だから、そうだ、これは俺にとっては賭けなんだ」
宍戸が、こちらを向いた。椅子を回し、数席離れた席に座る真田に向き合う。
ついさっきまで、伏せていた男はもうここにはいなかった。
強い眼差しが、真田を射抜く。
「テニスに関することなら、全幅の信頼を置いてる。他の、いくつものことにだって。…だから、きっと今回だって、どんなことにも信頼が置ける奴だと俺に確信させてくれると、そう、信じたい。信じると決めたから、真雛とふたりで会わせることに、したんだ」
だから、と、ひと息おいて、
「俺たちの跡部なら…大丈夫だ。きっと、大丈夫なんだ」
この思いを、知っている。
ふと、記憶が甦る。
中学の、突如訪れたい明日のこない冬の日。春の暖かさの中の、ひとつの空席が埋まらない凍り付くような日溜まり。
あいつなら、大丈夫と。
祈るようなその思いを、知っている。
幸村、お前なら、
どれだけ願っただろう。何度俯いただろう。それでも、祈ることをやめられなかった。やめなかった。
「俺も」
今までひと言も発することのなかったジローが、突然口を開いた。宍戸も真田も、つられてそちらを見る。
テーブルの上に角砂糖を積み上げ、ソファチェアの上に体育座りしていたジローは、真田と宍戸のいるこちらの方を見て、にっと歯を出して笑ってみせた。
「今頃きっと、跡部なら大丈夫だと思うんだよなー」
だから、跡部はかっこいいんだCーと、満面の笑みを見せるジローを見て、正しい日本語で訳が分かるように話せと、喉の奥まで出かかっていた言葉を飲みこむ。
お前訳わかんねえよ、と、厳しい表情がようやく少し崩れた宍戸が、真田よりも先にそういったからだ。
そして、ようやく自分の中での折り合いがついたのだろうか。落ち着いた様子で、
「…………真田、柳生」
そう名前を呼び、コーヒーを片手に話に耳を傾けていた柳生も、こちらを向いた。
「……今日のことだが、本人から言葉を貰わなかったら、きっとあいつはこの先ずっと不安に思うから。だから跡部に、口外しないと約束してくれるなら、大丈夫だと真雛本人にも言ってやってくれと、俺はそう頼んだ」
今日跡部と真雛をふたりきりで会わせることにした経緯を、話すつもりになったらしい。
宍戸のその言葉を聞き、なるほど、と、納得もいった。
確かに、宍戸や自分達がいくら大丈夫と言おうと、真雛は自分のよく知らない相手が秘密を知っているというだけで、不安に思い続けるだろう。跡部のジャージの件もあるが、真田らにまで跡部について尋ねてきた真雛の様子を思うに、自分達の知らない場所で実はとても親しい、ということもないだろう。
「出来ればその場に俺も居合わせたかったんだけどな、後ろで俺が睨みをきかしてちゃ、悪くもない跡部が悪いみたいになるだろって、ジローが」
「事実だCー」
ぷい、と、そっぽを向き、まだ湯気をあげるコーヒーを片手に、ジローは積み重ねていた角砂糖をぽんぽんカップの中へと放り込んでいく。
ジローのスタンスは、一貫している。
どちらかに偏ることなく、公平に。どちらも大切だから、とのことらしい。
でも、確かに宍戸をはじめとし、自分も柳生も真雛に偏っている節があるから。ジローがこのメンバーにいてくれるお陰で、バランスが取れているのがしれない。
「それから、ふたりきりになる状況を仕組んだ。跡部に、真雛と話すのは、ここからすぐ近くの公園でと、頼んだんだ」
「公園?」
「ああ、来る時に通りましたね。住宅街の中の、遊具もそうない本当に小さな公園でしたが」
「それだ」
真田はすぐにその公園を思い出すことができなかったが、一緒にここまで来た柳生が言うならば、きっと間違いはないだろう。
駅からこのジャヴァネは、とても距離があるというわけではない。実際に真田と柳生は駅からここまでやってくるのに、十五分も歩いていない。つまり、その公園もここからそう遠くない、目と鼻の先の距離のところにあるのだろう。
「話がこじれてうまくいかなかったりした時、すぐにフォローに入れるように。だから、お前たちも呼ばせてもらった」
「サポート要員として呼ばれたのだろう、ということぐらいまでなら察してはいましたがね」
「話が終わったら、連絡するよう跡部には言ってある。無事に話が終われば、多分ふたり揃ってもしくは真雛がこっちに来るはずだ」
「成る程。よく分かりました」
やれやれ、といった様子で肩を竦める柳生は、既に話は片が付いたと判断したのか、鞄から本を取り出すと悠々とそれを広げ、読書タイムに突入したようだ。事情が大体把握できたところで、残りの待ち時間は自分なりに過ごす事に決めたらしい。
随分と時間はかかったが、事情はあらかた聞く事ができたし、宍戸もだいぶ落ち着いたように見える。
ちらり、と、ジローの方にも視線をやると、既にいびきをたてて眠りの世界に突入していた。
「なあ、宍戸」
「悪かったな、話しするだけだってのに、散々待たせちまって」
「構わん。…逆の立場だったら、きっと俺も相当に頭を悩ませた筈だ」
「………そうか」
跡部ではなく、幸村だったら。
幸村がどんな反応を見せるかは、想像がつかない。案外いけしゃあしゃあと、じゃあ俺の育ててる花の通訳やってよ、なんて、言い出しそうな気もするし、真剣に悩みそうな気もする。
ここで、店の奥からカウンター内に店主が戻ってきた。
話を聞いていたのかはわからないが、ぐるりと店内を見回し、にっこりと笑ってみせた彼に、真田はどう返せばいいかわからず、とりあえず会釈を返した。
「(……………さて、)」
壁にかけられた時計を見る。
宍戸が真雛に電話をかけてから、もう三十分近い時間が経過している。真雛と跡部は無事会えただろうか。何か問題は、起きていないだろうか。
「…あの二人は、どの程度でこちらに来るだろうな」
「わかんねぇよ。話が簡潔に済めばそろそろ来るかもしれねぇし、長引けばどのぐらいかかるか…ここで心配してても、出来る事はなんもねぇけどよ」
「ム……」
宍戸の言うことも、最もだ。
そこで、考えた。
自分だけ時間を潰すなら、予習なり復習なり、やれる事は山のようにある。だが今日は自分だけではなく、宍戸も余計な心配に捕らわれずにこの待ち時間を過ごすには、何がいいかを。
そして、結論として、
「朗報を期待して、俺達は…ポケモン、でもして待たんか?」
「お前、またそれかよ」
ぶはっ、と、声を出して吹き出した宍戸を見て、ようやく真田も肩の力を抜く事ができた。鞄の中からDSを出せば、更に吹き出された。風紀委員がDS持ってていいのかよ!と、爆笑する宍戸の言葉が一瞬ぐさりと胸に刺さるも、今日だけは例外だ。
そして、真田を散々笑いながらも、宍戸の足元に置かれたテニスバッグの外ポケットにDSが挿してあるのを、真田は知っている。
今は待つことしかできない。
真雛と、そして跡部のふたりの話し合いが、無事に終わるまで。
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