「(………来てしまった)」
立海男子テニス部部室が見える位置までやってきて、真雛は思わず植え込み裏にしゃがみこみ隠れてしまった。
真雛何やってるのまったく、とか、また奇行を、とか周囲の草達が悪態をつくのを聞き流しながら、改めて以前初めてこの場所にやって来た時のことを思い返す。
立海男子テニス部部室。
目と鼻の先に見えるあの場所は、立海生ならいわずと知れたA級立ち入り禁止区域だ。
真雛は長らくその理由を魔王幸村による恐怖政治からくるものや、真田の見た目などからくるものと思っていたが、今思えばテニス部の事情、もとい過去テニス部が怖がられていた云々からもきていたのかもしれない。まあ、だからといって何というわけではないのだが。
そんな立入禁止区域に、だ。
有無をいわさぬといった空気を纏った幸村に連行され、あそこに足を踏み入れたのは、数週間前のこと。
卒業生の寄贈品らしいショーケースの中、胸を張り輝いていた王者立海の栄光の数々。
並ぶ古びたロッカー。
本棚に並ぶ過去数十年分の資料。
棚の中に並ぶ写真立てのその中にひとつ、見慣れた顔の並ぶそれ。
懺悔のような、幸村の涙。
「(…………………しまった)」
植え込みの陰に隠れたまま、思わずうなだれる。
今思い出すべきではなかった、確実に。今から会うだろう相手の泣き顔を思い出してどうする、ただでさえ微妙な間柄のせいで足が重いというのに、余計に足が重くなった。
そんな感じで真雛が自己嫌悪でうなだれたと同時に、タイミングよく部室の扉が開いた。
反射的に、さらに身を縮こまらせ隠れる。が、すぐに後悔した。
「(……さすがに今の自分、不審者すぎる…)」
茶封筒を胸にしっかと抱え込み、植え込みの陰に必死に身を隠している姿も、部室がない側から見ればただの不審者でしかない。今誰かこちら側の道を通れば、また成田が奇行にだなんだといわれるか、もしくは冷たい視線を向けられるか、何も見なかったふりをされるか。
が、いきなり立ち上がればそれもそれでテニス部員側からしたら不審な行動に見えるだろう。
とりあえず誰にも見られないことをひたすら願っている内に、植え込みの隙間から部員らしき男子がわらわらと外に出てくるのが見えた。
まさかもうみんな帰っちゃうところか、と危惧したが、部室から出てくる部員達の中に、あの濃いレギュラー陣の姿が見当たらない。六限終了のチャイムも鳴っていないし、毎年出し物に相当力を入れてくることで有名な男子テニス部が、学園祭にとあてられた時間をフルに使わないなんて、考えにくい。
ならば、
「(集まった意見を次の時間までにレギュラーでまとめるから、今日はひとまずレギュラー以外は解散、ってとこかなぁ)」
今日は本来活動がない日だし、きっとそんなところに違いない。
あの波が去ったら部室の扉を叩くか、と、諦めにも似た覚悟を決めていたその時、ふと、流れていく人の波に、わずか違和感を感じた。
歩いていくのは、当然男子ばかり。
同じ立海の制服とはいえ、色んな着こなし方をされている。真田がいるお陰か、目にあまるほどのだらしない着こなしはそう見られないが、この違和感は、何だろう。
「(…………んー…?)」
目をこらす。
と、次の瞬間、正門や自転車置場へ向かう人の流れから、するりとひとりの背中が抜け出した。周囲を歩く生徒たちが、そのひとりが人波から外れたことを気にかける様子はない。本当に自然に、抜けたのだ。
そのまま校舎の陰へと消えていく後ろ姿を見た時、その姿が知ったものと重なって見えた。
そこではじめて、違和感の正体がわかった。
あの体格は、あの姿勢は、カーディガンは、
「……今の、仁王君…?」
またカツラでもかぶっていたのか、黒髪で変哲のない髪型だったため、正直自信はない。
が、あのカーディガンの色に姿勢の悪さ、両手を少しのびたポケットに突っ込んで歩く後ろ姿は、やはり仁王そのものに思えるのだ。
そうすると、やはりレギュラーは部室に残ってはいないのだろうか。
いや、でもリョーマは事前に自分達がこの茶封筒を届けにいくことは連絡してあるといっていた。そういうからには、誰かしらは部室に残っているはずだ。
仁王のことはさておき、どれだけ理屈をこねようと今自分がすべきは、ただひとつ。
この茶封筒を届けに、あの扉を叩くことだけだ。
「(ない勇気を振り絞れ、そして真田かやぎゅーいてくれ…!)」
人気がなくなったところで、そう自分を鼓舞し、植え込みから立ち上がった。
そして、それでもどこか緩慢な動きで、部室前へと向かう。
が、
「(………なんだろう…この…なんというか…おどろおどろしいというか、重い…ち、近寄りがたい感じ…)」
いざ扉を目前にすると、ただ古いはずの部室がとてつもなく大きな、そして迫力あるものに感じられるのは、なぜだろう。
ただ建物の前に立っているだけなのに、感じる威圧感。男子テニス部と書かれた標札は、おそらく真田が筆で書いたのだろう。これもまた、この場の妙な迫力を生み出している原因のひとつだ。
なるほど。納得がいった。確かにここは立海のA級立ち入り禁止区域だ。
ここで扉を叩いて出てきたのが、真田だとする。きっと気の弱い女子なら逃げ出しかねないだろう。
そして酷い話ではあるが、女子に突然逃げられ呆然としている親友の姿を思い浮かべたら、何だか少し気が楽になった。
いざ、と、扉を叩いた。
中から僅かに漏れてた声も、その音に反応するように消え、静まり返る。
返事を、待つ。
複数人が在室しているのは、確かだ。
返事がこない。静寂。
この反応は、何だ。
「…………」
「…………」
沈黙が痛い。
冷や汗がだらだらと流れはじめた中、後悔にもならない後悔が頭の中を渦巻きはじめる。まだ後悔できるようなことすらした覚えはないのだが。自分はただ、ノックをしただけだ。
いっそこの封筒は扉の下の隙間からねじ込んで、そのまま逃げてしまおうかとさえ思い始めた時、ようやく扉の向こうから声が返ってきた。
「すみません、どなた様でしょうか?」
「あ、やぎゅー」
真雛さん?と、扉の向こうから柳生の驚く声と、ゲッという丸井の失礼きわまりない声が聞こえる。真雛先輩っスか!なんて声も遅れて聞こえてきたことや、それ以外の声が聞こえてこないところを踏まえて考えると、柳生と丸井と赤也の在室、真田の不在は確実のようだ。
今一番気になるのは幸村の存在なのだが、柳生と赤也が在室というだけでひとまず安心はできた。
と、次の瞬間、
「ぶっ…!」
「男子テニス部部室は、女子の入室固くお断りなんだよぃ。この運動音痴」
「丸井君!何をしているのですか君は!」
真雛が激突した、いや、させられた扉の隙間から顔を覗かせる丸井が、至極愉快そうな表情を浮かべ、べーっと舌を出してくる。
間違いなく、この男確信犯である。
強打した額にピキッと青筋が走るのが、自分でもわかった。
「こ、の、紅の豚が…っ!!」
「ハァ!?てめー今なんていいやがった!?このちんちくりん!」
「紅の豚、滅びよバルス!」
「ふざけんなそれは柳生だろうが!」
「―――丸井君、私が何か?」
清々しい、しかし確実に別の感情が織り混ざった笑みを浮かべ奥から顔を見せた柳生のそのなんともいえぬ迫力に、丸井のみならず真雛も言葉を失った。
奥にいるのだろう赤也が、ヒイッ!と、喉の引き攣った悲鳴をあげる。分かるよ分かる、君の気持ち。
そして柳生は真雛と丸井の口が閉じたのをちらりと横目で確認してから、こちらに歩いてきて首を傾げた。
「ところで真雛さん、どういった御用件でわざわざこちらまで?」
「あ、そうそう本題はこっち」
「それは、」
「青春学園中等部男子テニス部ってとこから、ここあてにお届け物」
手の中の学校名が刻印された茶封筒をひらっとかざすと、その横にいた丸井もが目を丸めた。
越前が持ってくるんじゃなかったのか?と、奥の赤也が漏らしたが、越前とはリョーマのことだろうか。それにしても珍しい苗字というか、時代劇かとツッコミを入れたくなるような苗字だ。それをいってしまうと、真田や幸村、仁王に関しても同じことがいえてしまうが。
「何でお前がそんな大事なもん持ってんだよ」
「さっきそこでリョーマ君って呼ばれてたツリ目の男の子と、長い三つ編みした女の子に届けてって頼まれた」
「ああ、青学のばーさんの孫の。でも何で越前と?」
「ったくにっぶいな赤也は!んなの決まってんだろ、できてんだよあいつら!」
「えええええええ!?畜生先越された、帰国子女だからって調子乗りやがってぇぇぇえ!!」
「え、でも私の印象的にはまだ付き合ってないっぽかったよ。いつか付き合いそうな雰囲気はかもしだしてたけど」
「真雛さん、憶測でそのような事を言うのはどうかと」
「ちくしょう羨ましいぃぃぃぃい!」
「おいおいお前ら、ちょっと落ち着けって!」
真雛の位置からは見えない部屋の奥から、ジャッカルが小走りでこちらに向かってきた。どうやら事態の収拾に努めてくれるつもりらしい。
が、それより先に、この場を静めるに相応しい最高位の魔法が発動された。
「成田さん」
その柔らかな物優しい声が登場しただけでぴたり、と、場が静まった。
会心の一撃。クリティカルヒット。効果は抜群だ。
奥から現れたその人の姿は、笑顔は、この場において絶大な力を持つ。それは勿論、この場にいるだけで部員ではない真雛にも影響を及ぼす。
「ゆ、きむら、君」
「部活の用なら、是非中に入って。ほら」
「え、」
えー!と、不満の声を洩らす丸井を余所に、幸村は笑顔で奥へと戻っていく。
渡す物さえ渡したら早々に立ち去る予定だった真雛だが、いうだけいって室内へと去る幸村のその背中は、どう考えても真雛のこの場からの離脱を許可していない。
言葉であれ表情であれ、とにかく全身から醸し出す空気。幸村のそれらは常に有無を言わさぬ迫力を備えている。
「(……幸村君のいっけん儚げな容姿、最近では詐欺にすら思えてきた)」
それもある意味、仁王の詐欺よりよっぽどたちが悪い。
真雛の気後れを汲み取ったのか、柳生がなんともいえない複雑な表情を浮かべながら、すっと部室内へと手を向けた。柳生をもってしても、この事態を回避すべく手段は持たないようだ。ここは諦める他あるまい。
仕方なく、お邪魔します、と、控えめに身を縮こませながら室内へと足を踏み入れた。
比較対象が間違ってはいるかもしれないが、ここは氷帝の部室より部室らしい空間だと、真雛は思う。
入って右手の壁際には、栄光を讃える盾やカップが並べられたショーケース。奥から左側へとずらりと並ぶのは、いかにも学校らしい使い込まれた灰色のスチール製ロッカー。隅には、ブラウン管のテレビとビデオプレーヤー。真雛のいる側の壁には、たくさんのファイルや雑誌が差された棚がある。
ちらり、と、左に目をやると、棚の端の方には、以前ここに足を踏み入れた時から変わらず、見慣れた顔の並ぶ写真が飾られていた。が、前に置かれたホワイトボードにほとんど隠されてしまっていた。そのホワイトボード自体も、裏返されているのか棚の方を向いているため、何が書いてあるのか真雛のいる位置からはほとんど読み取れない。
そして室内の中央には、これまた運動部の部室らしい色のはげたベンチが三つ、コの字に並べられている。
「ドアの対応、遅くなっちゃってごめんね。あのボウヤならノックなんてしないだろうし、したとしてもノックと同時に扉を開くぐらいしそうだったから、一体誰かと思って」
「ボウヤ?」
「青春学園中等部三年、越前リョーマ。彼が一年生の頃、スーパールーキー現るって随分中学テニス界も震撼したなぁ」
来年高等部に上がって来るのが楽しみ、と、笑いながら、ちょっと待っててという言葉を残し幸村は更に奥の一室へと姿を消した。水音が聞こえるから、おそらく給油室のようなものもここには設置されているのだろう。
幸村の姿が一旦消えたことに胸を撫で下ろしていたら、ベンチに腰掛けていた赤也とジャッカルがひらひらっと手を振ってきた。
「真雛先輩先週ぶりっスね!」
「よう成田、仕事押し付けられるなんて災難だったな」
「や、お邪魔しまーす」
「用が済んだらとっとと出てけよぃちんちくりん。こっちは今学祭に向けて極秘の会議中なんだよ」
「…人のクラスに堂々とスパイしにきた人が、よくいう…」
「あん?」
「あーん?」
「いや跡部かよ!」
ジャッカルの鋭いツッコミに、赤也や丸井はけたけたと笑い声をあげる。
が、しかし、
「え、なんでここで跡部君?」
「あ、悪ぃわかんねーよな、ていうか成田跡部自体は知ってんのか?」
確かに、と、いわんばかりに赤也も首を傾げた。
そういえば、このふたりに宍戸と幼馴染みである話をしたことはなかったかもしれない。ちなみに丸井はというと、この前ジローとの校門前での一件があったせいか、興味なさげにガムを膨らましている。
赤也とジャッカルにとって跡部と真雛とは、他県のテニス部の部長と自校の帰宅部の女子。真雛の友人である真田と柳生も特別跡部と親しいわけではないようだし、確かに接点は見いだせないだろう。
「(……話しても、なんら問題はない、けど)」
何てことはない、宍戸と幼馴染みであることさえ話せば片付く話だ。
が、今跡部といわれると、やはり一瞬言葉に詰まってしまった。
真雛が逃げ出した時に僅かに見えた、戸惑いに満ちたアイスブルーの瞳が、脳裏に蘇る。
その時、
「真雛さんは高校入学時に神奈川に越して来るまで、ずっと氷帝の宍戸君のお隣りの家に住まわれてまして。要するに、幼馴染みなんですよ」
「へぇ!世間って狭いんだなー」
さらりと間に柳生が入ってくれたおかげで、話が綺麗に纏まった。
ちらり、と、横目で柳生を見るも、柳生はこちらには向いていない。何事もなかったかのようにジャッカルや赤也の方に微笑んでいる。
後でちゃんとお礼をいおう、と、心の中に感謝の言葉を留め、真雛もそのまま会話に参加した。
「うん、確かに世間は狭いね」
ジャッカルの『世間は狭い』という言葉に関しては、真雛も心底同意する。
柳生と真田と知り合った頃から、というよりも遥か昔宍戸がテニスに熱中し始めた頃からも、自分は中学テニス界どころかテニス自体にまったく興味がなかった。
昔はずっと一緒に遊んでいた宍戸がテニス馬鹿になってからも、筋トレに付き合ったり近所のストテニでの特訓についていったりはしたものの、自分がテニスをしたり、わざわざ公式戦を観戦に出向いたりといったことはほぼした覚えがない。
が、入学してできた友達一号は宍戸とも面識のあった立海テニス部レギュラーの柳生で、その後親しくなった真田も高校テニス界でも指折りの実力者ときたものだ。
世間は狭い、と、あの頃誰よりも強く感じていたのは間違いなく真雛だと自負している。
跡部の時も、しかり。
「(そして偶然会った女の子と男の子はテニス関係者で、なぜか今テニス部部室にお邪魔することになってるし、うん、やっぱり世間って狭い)」
「宍戸さんと幼馴染みって…え…真雛先輩、ま、まさか…」
「ん?」
「中学、あの氷帝だったんスか!?」
愕然とした様子でそう尋ねてきた赤也の姿が、先日ジローと真雛が一緒にいた時の丸井と重なって見えた。
よく似た先輩後輩だが、要するに『真雛が氷帝出身だなんて有り得ない』と思っていることを微塵も隠していないわけだ。確かに真雛自身自分が氷帝に馴染まないとわかってはいるものの、しかし揃いも揃って失礼な連中である。
「真雛先輩、まさかの実はむっちゃ金持ちフラグとか…!いや確かに氷帝の宍戸さんとか庶民っぽいけど、でも…」
「ないない、遠足でラスベガス行くような学校だよあそこ」
「ラスベガス!?」
「さ、さすがだな……」
「ぶっは!マジでかよ!?」
顎が外れてしまいそうなほどぽかんと大口を開ける赤也やげんなりとしたジャッカルの様子に反し、腹の上にポテチの袋を抱えたまま大爆笑する丸井。三者それぞれ反応が異なるのがまた面白い。
真雛のラスベガス発言はそれなりに話に花を咲かせたようで、未成年でラスベガスどうやって楽しむんだよ、とか、マジ有り得ねぇ学校、だとか盛り上がる様を見ると、やっぱり仲がいいんだな、と、思う。
「(中学生の頃からずっと、一緒の部活なんだもんなぁ)」
わいわい盛り上がる三人を見ながら、そう考えた。一緒にいる時間が長ければ長いほど、親密さは増すだろう。
でもきっと、それだけではない。
全国区の実力を維持、向上させるためのたゆまぬ努力。勝敗が全てなシビアなスポーツの世界。
そして聞いた話でしかないが、全国三連覇を前に、部長であった幸村が倒れたことにより強固になった、常勝の掟。
横でちらり、と、柳生を盗み見た。
会話にこそ参加していないものの、その輪を見守るその目は穏やかで、真雛と真田とクラスでいる時とはまた別の、顔。でも、とてもいい顔をしていると、真雛は思う。
その時、
「(………あ、)」
ついさっき見た、校舎の陰へと消えていく後ろ姿が、フラッシュのように脳裏を過ぎる。
サイズの大きな白いカーディガンに、姿勢の悪い背中。両手を少しのびたポケットに突っ込み校舎の陰へと消えていく後ろ姿。
仁王、は。
そう広さがない部室内を見渡すまでもない。
仁王は、いない。
やはりあれは仁王だったのだろうか。
同じクラスである幸村がここにいること、それに仁王が委員会に所属していないことを考えれば、本来この場に仁王がいないわけがない。
もう一度、三人を見遣る。
先程までとは違い、その輪に僅かながらの物足りなさを感じるのは、きっと真雛の意識の問題でしかない。
ただ、
「(…………もし、今もあの写真の頃のようだったなら、)」
考えずには、いられなかった。
もしも、仁王が今もあの棚の写真のように、何の気兼ねもなくこの場にいたならば。
「(………どんな顔をして、笑うんだろう)」
鼻で笑いつつも、時折表情を和らげたり。もしかしたら、腹を抱えて笑うようなことも、あったのだろうか。
わからない。
そもそも、仁王の笑った顔を真雛は見たことがない。柳生の格好をしている時の柳生の笑い方によく似せたあれではなく、仁王の笑顔を、だ。
それに、もしも、なんて実のない例え話を、少しばかり事情を知るだけの真雛がしてしまうぐらいなのだから。
きっと、ここにいる全員。ここにいない真田や柳も、幾度となく思ったはずだ。仁王がいたら、と。
勝手にそんなことを考え、勝手にしんみりしていたら、場から若干離脱しそうになっていた真雛を気遣ってくれたのだろう、ジャッカルが話をこちらに振ってくれた。
「そうだ。氷帝といえば、初めて見た時は成田もあれ、強烈だったろ?」
「あれ?」
「氷帝コールだよ氷帝コール」
氷帝コール?と、おうむ返しに尋ねると、三人が三人共目を皿にした。
「え、知らないんスか?」
「何それ…あ、なんだか聞き覚えはある響きだけど。なんか亮ちゃんが昔いってたような…いってなかったような」
「知らねーのかお前!?宍戸と幼馴染みで跡部とも面識あるくせに!」
「だからテニスの試合なんてほとんど見ないんだよ、公式戦なんて片手で数えるぐらいしか行ったことなかったし」
「ああ、確かに成田は真田の試合も柳生の試合も、観に来てるとこ見たことねぇな」
「だって観に行ったこと、ほとんどないもん」
「お前、跡部の氷帝コールは一見の価値ありだぜぃ?腹筋崩壊するから機会あったら観てみろよ」
うん、と、適当に返事をしながらも、内心話題がまた跡部に戻ってしまったことに
そういえば、と、柳生が違う話題を振ってくれようとしたのだろう、その時、
「盛り上がってるようだね、跡部の話かい?」
奥から幸村がお盆を手に戻ってきた。
その盆の上には、なみなみと麦茶が注がれたななつのグラスが乗っていた。
「成田さん、はい」
「そんな、幸村君、わざわざ…」
はい、と、差し出されたグラスを掌で制したが、幸村は変わらず笑みを浮かべたまま一度お盆にグラスを戻し、そして首を横に振った。
「遠慮なんてすることはないよ、お客さんなんだし。それに、うちの部員の分も入れてきたから。ほら、赤也」
「あ、幸村部長ありがとーございますー!」
赤也が笑顔でグラスを受け取ったのを皮切りに、他の部員達も幸村からグラスを受け取ろうと、一旦腰を上げた。
「はい、ブン太」
「幸村君、サンキュ!」
「ジャッカルも」
「ありがとな」
「はい、柳生」
「ありがとうございます。ほら、真雛さんも折角の幸村君のご厚意ですから」
「う…そうだね。うん」
「じゃあ、はい成田さん」
幸村が、再び変わらぬ笑顔でグラスを差し出してくれた。
距離は、ほぼ幸村の片腕分。
思えば、ここまで幸村の近くにいるのは、はじめて会話をした廊下で以来かもしれない。
会話だってあの日から、というよりも、あの日であっても、幸村と真雛はまともな会話という会話は、したことがない。
そのせいなのだろうか。幸村といわれると、真っ先に脳裏に焼き付いたあの涙を流す姿を思い浮かべてしまうのは。
でも、今目の前に立つ幸村からは、あの時感じた不安定さは微塵も感じない。
柔らかいながらも、強くしたたかな芯を思わせる、そんな笑みをたたえる幸村は、以前とはまた違った意味で眩しい。
そして、はじめて幸村と話をした時と、まったく同じ、あの言葉が相応しい。
幸村は、かっこいい。
「幸村君、ありがとう」
「どういたしまして。あとは…って、そういえば皆、仁王は?確か、さっきまでいたと思ってたんだけど」
その場にいた部員ひとりひとりにグラスを渡していた幸村が、そう首をひねった。
お盆の上にはふたつ、グラスが残されている。
ひとつは幸村のもの。ひとつは真雛にと用意されたもの。もうひとつは、おそらく仁王にと用意されたものだ。
一瞬、場が静まり返った。
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