「亮ちゃん、こっちこっち!」
笑顔で手を振ってはいるものの、内心休日をこんなことに潰されるなんて、と、真雛の胸の中では恨みつらみの言葉が渦巻き続けている。
駅前の時計の下、人混みを掻き分け駆け寄ってきた幼馴染みの姿を遠くに確認してから、ちらり、と、背後を覗き見た。
藍色の髪を持つ眼鏡の彼。
帽子で隠しきれていない、あの眩しい赤色の髪の友人。
人混みから抜きん出て長身の、なぜかサングラスをかけた銀髪の後輩。
普段はかけている姿は見ないものの、眼鏡姿が様になっている茶髪の後輩。
十数メートル離れた場所にいるのは、確かに見覚えのある面々だ。
そして、彼らと一緒にいるスカート姿の人間は、おそらく今回の偽彼女騒動の発端となった彼女だろう。
「(デートしている姿も見たい、とはねぇ…)」
今真雛がここにいて、宍戸が走ってきている件に関しても彼女が関わっていたりする。
しばらく何のアクションも見せていなかった彼女は、先日宍戸と真雛が帰路についてから部室を尋ねてきたらしい。
正直、ますます彼女が何を考えているか、わからなくなってきた。
本当に真雛と宍戸が付き合っているのか判断したいならば、それこそ休日宍戸なり真雛なりの後をつければいいのだ。ひとりで。
忍足達に話した段階で、それが宍戸の耳に入る事ぐらい、彼女にも想像がつくはずだ。真雛が思うに、彼女はそこまで愚かではない。
ならば、何故。
この話を親友ふたりにした時の、ふたりの反応を思い返す。
真田は少しためらってから、俺に女心はわからん、と、呟いた。悪いが笑わずにはいられなかった。
柳生は、もしかしたら何か事態が前進するかもしれませんね、と、どこか楽しそうに微笑んでいた。
真雛も、同意見だ。
というよりも、ここでも何も前進がないならば、そろそろさすがにこちらから何かしらアクションを起こそうと思う。真雛の忍耐と、宍戸の財布が底をつく前に。
「悪ぃ、遅れた!」
「やーい甲斐性なしー」
「う…っ」
「ジャッキーの散歩に思ったより時間がかかった、に百円」
「…もう隠す気もしねぇよ」
「まあ、隠すような事でも仲でもないしねぇ」
「でも、用事がある日くらい散歩は他の人に頼めばいいのに」
「いや、それが…ほら」
「あ」
その瞬間、真雛と宍戸の脳裏にまったく同じ映像が浮かびあがった。
宍戸家の長男、快が、はしゃぎ走り回るジャッキーのリールを必死に掴み、振り回されながら涙目でいる、その姿が。
「「………」」
「ああー…そうだったね」
「お、おう…」
「ジャッキーは快兄がだいすきなだけなんだけどねぇ…だいすきすぎてはしゃいじゃうんだろうね、うん」
「ああ…まあ、そうなんだろな…」
「……よし、行こっか」
「そうだな、行くか」
気を取り直して、ふたり肩を並べて歩きだした。
彼女の振りなら手でも繋いだ方がいいんじゃないの?と、尋ねてみたが、んなこっぱずかしい事できっか!と、顔を真っ赤にした宍戸に即座に却下されてしまった。確かに、宍戸なら実際彼女ができたとしてもこういう反応をしそうだと思ったので、それ以上この件をごり押しするのはやめておいた。
日曜の人混みの中を、くだらない話に花を咲かせながらふたりで歩く。
いつもと変わらない、鞄がふたつ程度はさめそうなこの距離も、昔から慣れ親しんだもので心地好い。
が、今日は普段と違う事がふたつある。
ひとつは、今日この先の行動が全て前もって決まっている事だ。入る店から通る場所、おおまかな帰宅時間まで、全て後ろを歩くメンバーと打ち合わせ済みである。
もうひとつは、言わずもがな、自分達の少し後ろから、自分達をつけている集団がいる事だ。
しかしテニス部諸君、君達は貴重な休日をこんなくだらない事に費やしていいのか。真雛は今すぐ振り返り、彼等にそう問いただしたかったが、喉の少し奥まで込み上げてきているその言葉をぐっと飲み込み、笑顔をつくった。さすがにデート中の設定である今、不機嫌そうな顔ばかりしているわけにはいかない。
そうしている内に、一番はじめの目的地に到着した。
の、だが、
「…これはまた、大学生ぐらいの素敵な清純派カップルが入りそうな、お洒落なお店だねぇ…亮ちゃんが選びそうにもない…っ」
「うるせぇ!お前その今にも爆笑寸前ですみたいな引き攣った顔、今すぐやめろ!」
「いや無理」
今自分達の前にそびえ立つのは、『ランチセット 2200円』と、高校生の自分達には少し、というか、かなりお高い価格がお洒落な縦看板にチョークで書かれた、小さなレストランである。
いや、氷帝生の基準ならばそう高くはないのかもしれない。しかし、庶民の感覚が幼い頃から染み付いている自分達にとっては、十分お高い値段に思えてしまう。
なので、今自分達はこうして店の前で固まりついているわけなのだが。
「…え、ここに決めたのは誰なわけ?」
「いや…部室で勝手にあいつらが盛り上がってただけだから、俺はさっぱり…」
「…まあ、忍足君とか向日君あたりだとは思うけど。あの野次馬D2ペア」
こんな事に付き合わせといてなんだけどよ、それ絶対他では言うなよ、と、宍戸が呟いた。おそらく氷帝テニス部の面子の為であろう。本人達は聞いたところで笑い流す事しかしないだろうから。
傍から見れば、若いカップルが奮発しようとメニューを覗き込んでいるように見えるらしく、周囲を通り過ぎる人達が自分達に向ける視線はどこか温かい。
「最近出費続きの亮ちゃんに、このお店はちょっとつらいんじゃない?私は一応大丈夫だけど、どうする?」
「う……わりい、いざとなりゃ来月返すから…頼む。ここで計画がずれると、後ろの奴らにまた借りができちまうしな」
「はいはい」
よし入るか、と、ため息混じりに扉に手をかけた宍戸の後ろで堪えきれなかった笑いをこぼしながら、真雛も足を踏み出した。
からんからん。ドアベルが鳴る。
いらっしゃいませ、と、入口近くのレジに立っていた学生アルバイトらしきお姉さんが笑顔で店内へと迎えてくれた。
だけど、
「………………あ…」
ある事に気づき、一瞬だけ。ほんの一瞬、足が止まってしまった。
それでも、慣れていたから。
そのまま何事もなかったかのように、笑顔で店内に誘導しようとしたその店員の後ろをついていこうとしたのだが、
「あ、すみません。やっぱりちょっと財布的にしんどそうなんで、また今度出直す事にします」
「え?」
「あ、はい、かしこまりました。またのご来店お待ちしておりますね」
小さく笑いながら頭を下げる店員さんに見送られ、足早に言葉をまくしたて、店を出ていってしまった宍戸の後を追い、からんからんとふたり分の音を鳴らす扉をくぐり抜けた。
扉を開けたすぐ先には宍戸が待ち構えるように立っていて、少しつんのめりそうになってしまった。
どうしたの亮ちゃん、と、真雛は尋ねようとしたが、それすら阻まれてしまった。
目の前に立っていた宍戸が、ぽかんと驚いている真雛の右腕を突然わし掴み、ぐんぐんと歩き出してしまったのだ。
手を繋いでるわけでこそないが、ついさっきまで手を繋ぐ繋がないの話で顔を真っ赤に染めていた男が今、仮にも女に分類される自分の腕をわしづかみ、人混みの中を歩いている。
少し先にいた忍足達が慌てて隠れる姿が見えたが、宍戸はそれすら気にかける様子を見せない。
「店、変えよう」
「え、で、でも亮ちゃん、忍足君達とここに入るって決めてるんじゃ…」
「構わねぇ」
困惑する真雛をすっぱりそう切り捨て、宍戸はずんずん進んでいく。
代わりにどっか適当に昼食べに入るぞ、と、あたりを物色している、その服の裾を引き、真雛はもう一度、亮ちゃん、と、宍戸を呼んだ。
すると、ようやく宍戸が立ち止まり、振り向いてくれた。
なんともいえない表情を浮かべている宍戸に、つられて真雛の表情まで一応デートという設定の最中である事を忘れ、険しいものになってしまった。
「どうしたの、亮ちゃん」
「お前、それを聞くか?」
はぁ、と、ひとつ大きくため息をついた宍戸に、真雛の眉根も自然と寄る。
が、次の言葉ひとつで、真雛の表情は大きく変わる事になった。
「あの店、花たくさん飾ってたろ。あれに囲まれて食事すんの、お前苦手だろ?」
何を当然の事を聞いているんだ、と、いわんばかりに顰めっ面の宍戸に、完全に面食らってしまった。
「…そ、それを…あのお店に入ってすぐ、気がついたの…?」
「いや、正直、お前といるから切り花は駄目だとか意識してたわけじゃねぇよ」
「え、じゃなんであんなにすぐ、」
「ただ、お前あの店入ってすぐ、ちょっと躊躇しただろ?何でもないようにすぐに取り繕ってたみてぇだけど、こんだけ付き合い長い俺にそれが通じるとでも思ってたのか、お前」
小学生ん時、花を摘むなって泣きわめいてたのはどこのどいつだよ
確かに、昔はそうだった。
でも、最近は隠せるようになっていた。少なくとも、自分は比較的隠せていると思っていた。
根を断たれた草花の悲痛な叫び声にも、耳を塞ぐ事ができるようになっていたつもりだった。時々どうしても耐え難い時もあったけれど、さっきの店はそうではなかった。耐えられる、範疇だった。
きっと、信じがたい、そんな表情を自分はしていたのであろう。
眉間の皺、と、威力の弱いデコピンが飛んできて我に帰ると、目の前に立つ幼馴染みは一瞬笑って、そしてすぐ、あのテニスの話をしている時のような真剣な眼差しで、こういった。
「俺、ずっと前にお前に約束したよな。お前のその能力の理解者になってみせるって。その上で、できる限りの配慮をするって」
昔の、声変わりもまだしていない幼い宍戸の叫び声が、この力に関して一番最初にした約束が、耳元で反復する。
約束してやる。
絶対にだ。
お前が言う事、俺は何でも全部信じてやる。
疑ったりしねぇ、全部信じた上で、お前と一緒に悩む。
だから、なぁ、
頼むから、
「そもそも、お前が切り花が嫌なのなんて、俺はずっと前から知ってんだよ。お前のその力を知ってる相手にまで、嫌だって口にする事を躊躇すんな」
強い眼差しも、そう断言してくれる思いも、目の前の幼馴染みは昔から何も変わらない。
どちらかといえば友人というよりも家族の枠組みに属する彼は、いつも自分にとっては兄のようだった。
昔も今も、ずっと、自分は彼に加護され続けている。
「…………ありがとう、亮ちゃん」
礼いわれるような事じゃねぇよ、と、宍戸がまた笑う。
涙が出そうになった。不覚にも。
それすらすぐに悟ったのか、笑いながら頭を撫でられた。どこか悔しくてたまらないのに、やはり安心してしまう自分がいて、やっぱり悔しいのだ。
何か悪態をついてやりたいのに、いつもは簡単に思い浮かぶ言葉は何ひとつ頭に出てこない。
宍戸が笑う。悔しい、涙が出そうだ。
ああ、やっぱり彼には敵わない。
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