「仁王君」

 その声が聞こえた瞬間、またか、とうんざりした反面、懲りずに今日も来たのか、と、どこか感心した自分がいた。
 普段だったら、無視する。
 が、なんとなく気分でちらりと後ろを振り向いてみれば、案の定あいつは扉の辺りで、今日もけだるそうな表情でこっちに手を振っていた。
 最初の方はそんなにけだるいならくんな、と思っていたが、次第に、こいつにとってはその表情が標準装備なんだということがだんだん分かってきた。
 会話している内に、表情はちらちらと変わっていく。が、ひとり廊下を歩いている時や会話をしていない時は、いつも大体こんな表情をしているから。
 こいつが親友だと言う真田や柳生の前でも、結構こんな表情をしているから。

「今日もお弁当、ちゃんと豚肉入れてきたよー」
「牛肉じゃなきゃいらん」
「と、いうと思ってたから、じゃん!一段まるまるお肉弁当!」

 目の前に突き付けられた弁当箱の中には、左から順に鶏のから揚げ、豚肉の生姜焼き、牛のバラ肉を焼いたものが詰められている。
 普段は自分もそんなに気にかけやしないが、あまりにバランスが悪すぎないだろうか。
 ちなみに、今までこいつが持ってきた食い物を口にした事は一度もない。なのに毎日何かしら持ってくる。
 こいつは、馬鹿だ。
 恨んでると言った自分に親友になろうと持ち掛けてきた時にもそう思ったが、それ以来追いかけ回され不本意にも関わる機会が増えて尚更そう思う。
 俺が返事をしなくても、のんびりした口調でくだらない事を喋り続けるのも、うざったい。しかも全く脈絡のないことを何事もないように切り出してきたりもするから、更に腹が立つ。
 せめてそれが無理に明るく振る舞ったり必死な様子だったりすればざまあみろとでも思えるのに、どうも余裕ぶられているようでやっぱりうざったい。が、それはきっといつも俺が他人に思われてることだろうということもわかってるから、何ともいえない。
 結論として、こいつは受け付けない。
 なのに最近、前より部室でこいつの名前が出されることがほんの少しだが増えてきた。特に、赤也。
 どう懐柔されたのか知らないが、笑顔でこいつの話を真田や柳生、そしてブン太やジャッカルにしているのを見ると腹が立つ。
 あの時あの日のような、感情。
 高校に入ってしばらくした頃、いつも頑なに模範生を続けてきた柳生が、朝のHRに出ず屋上に駆けて来た、あいつの見たこともないような姿を見た時も。
 外周を抜け出した時、偶然通った図書室の窓から真田と柳生と真雛が三人顔を合わせているのを見てしまった時も。
 それからしばらくして、真田と柳生がはじめてクラスに友人が出来た、と、自分達に打ち明けてきた時にも覚えた、あの焦燥。
 取られる、と。
 今は、自分で線引きをしてるくせに。
 あいつらが俺の引いたその線をずっと気にしている事だって、気づいてるのに気づいていない振り。
 踏み込むな。だってあの時、お前らは俺を見捨てただろう?そんなくだらない無言の圧力を、あの時からずっとかけ続けてきて。
 馬鹿は誰だ。
 なあ、馬鹿なのは一体誰だ。

「におーくーん?」
「…………いらん」
「あれ、いつもなら即答か辛辣なコメントなのにな…もしかして体調悪いとか?」
「悪い悪い、だから教室帰れ」

 柳生と真田が待ってんじゃろ、とは、いわなかった。
 前にこいつは柳生と真田も俺を待っているといってた。でも、俺を待ってるわけじゃない。あいつらは、こいつを待ってる。そうだ、こいつを待ってる。俺は、いつでも枠の外。それでいい。俺なんかを待つ必要は、お前らにはないから。頼むから振り返らないで歩き出せ。立ち止まったままの俺を振り返るな。もう、進めないんだよ。
 あの時だって、幸村のいう事にひとりついていけなくて、取り残された。あの、屋上に。
 自分で何もいわなかったくせに、恨みつらみだけは重なっていく。
 なあ、何で俺を見捨てた。
 なあ、何で気づいてくれなかった。
 なあ、何で、なあ、どうして、

「におーくーん…」

 第二理科室の長机の上にごろんと、再びあいつに背を向け寝転がった。返事もしない。
 今までの経験的に、これでもおそらくこいつは帰らない。
 案の定、後ろからは理科室独特の四角い木製の椅子を机の下から引きずり出す音。更に何かがさごそ聞こえるのは、おそらくまた何か食べ物を広げているのだろう。自分の分の弁当はいつも教室に置いてきているらしいから、また菓子に違いない。食べている量は丸井程ではないとは思うが、そのまま成人病にでもなってしまえ、と、内心毒づいた。

「ああ、体調じゃなくて今日はいつもに増してご機嫌斜めか」

 もぐもぐと何かを咀嚼する音と共に、このひと言。本当に人の神経を逆撫でするのが得意な奴だ。人の事を言えるような奴じゃないけれど。
 それでも無視を決め込んで、何も答えなかった。でも、次の言葉はわかりきってる。

「(無言は肯定と取るよ)」
「無言は肯定と取るよー」

 ほら言った。
 そしてすぐ、こいつの言動パターンを把握してきている自分に嫌気がさした。
 何だかんだ、欠片も望んじゃいないが、こいつと過ごす時間が増えてきているのも、また事実。
 どんな穴場に逃げようと、どんなに本気を出して逃げようと、こいつは必ずのらりくらりと目の前に現れる。いつも逃げきれない事にも苛立ちは積もり積もっていき、ストレスと姿を変える事もまた頻繁。
 鬱陶しい。苛立たしい。
 歯を噛み締める音も、苛立ちで荒くなりそうな息遣いも、何も聞かれたくなかったから唇を噛み締めた。
 口の中に血の味がしてきた時、後ろに立っていたあいつが再び口を開いた。

「仁王君、返事くれなくてもいいから、ちょっとだけ聞いててほしいことあるんだ」

 その声が、いつものへらへらと間の抜けた声ではなく、どこか神妙で、どこか真剣な口調だったから、少し気になってしまった。
 口をきくのはしゃくだったが、後ろを振り向きはせず、思った事をそのまま口にする。

「俺じゃなくてあいつらに話しゃええじゃろ」
「……言いづらくて」

 目を泳がせながら、きまりわるそうに肩を落とす様子を横目で見て、珍しい事もあるもんだ、と、内心密かに思った。
 食えない奴、という印象が強かったからか、こう弱いところの本音を見せてくる姿は意外としかいいようがない。
 それに、あれだけ親しい真田や柳生に言いづらくて、決して良好な関係とはいいがたい自分に言いやすい事とは、一体何だ。

「…はぁ?」
「真田でもやぎゅーでも、桑原君でもまる君でもなく、一番仁王君が聞きやすくて」
「聞くって、結局俺に回答求めるんか」
「気が向いたら欲しいな」

 何か相当な厭味をいってやりたかったのに、こんな時に限って言葉が浮かばない。結局自己中、としか、呟き罵る事しかできなかった。
 案の定、こんな幼稚な罵声をこいつが気にかけるわけもなく、声色を変えもせず成田は話し出した。

「中学の頃から高校の最初の頃まで校内でテニス部が怖がられてた時、私はいなかったり知らなかったりだったから、正直その時の事はよくわからないの。勿論、原因も」

 それくらいは把握している。
 こいつは外部生で、立海に入ったのは高等部から。俺達の噂が一番流れていた中三の夏頃から秋頃は、学校にいさえしなかった。
 それから先は、確か噂が囁かれ続けるというよりかは、ただ怖がられていただけだった。おそらく、俺達については口にする事すら憚られていたようだった気がする。
 高等部に入ってからは、入学式のその日から柳生とつるむようになっていた。
 それからふた月後程度で真田とも親しくなっていたし、夏が過ぎた頃にはテニス部の奴らは各々の努力で自分の居場所をつかみ取っていた。
 だから、こいつが事情や理由を知らない事だって、十分に有り得るとは最初から思っていた。
 そして、何も知らないだろうと思っていたからこそ、どこか腹の中に苛立ちを抱えていたのも、事実だ。
 背を向けたまま、話に耳を傾けていながら、今自分はどれだけ醜い表情をしているんだろうかと、ふと自分を嘲笑った。
 自分が浅ましいのも、情けないのも、もうずっと思い知ってきたくせに。

「でも、何でそんな事になったのか、たぶんこうだって教えてくれた人がいたんだ」

 続けられた言葉を聞き、まあそうだろうな、と、思った。
 そして、それはきっと柳生でも真田でもない。あのふたりはこいつに対し異様なまでに過保護で、尚且つ仲間内の事を外部の人間に進んで話す事をしない頑固さを持ち合わせているから。
 なら、こいつにテニス部の事を話したのは誰なのか、気にかけた事はなかったが、話の先は気になった。
 何であんな事になったか、なんて、原因までこいつに話したのは誰なのか。
 何より、こいつにそれを話した奴が、あの事の原因なんてものを、どういう風に捉えて、どういう風に説明したのか。

「きっと他の何者も寄せつけない程テニスが強かったり、老け顔だったり綺麗な顔だったり群を抜いて頭がよかったりで目立ってたからだって。でも、たぶん一番の原因は――――」

 そこではじめて言葉が切れた。
 そのまま、続きが聞こえてこない。
 思わせぶりやがって何なんだ、と苛立って、思わず続きを促すような発言をした。

「…何なんじゃ、おまえさん」
「いや…ちょっと、いざいおうと思ったら怖じけづいたというか…」
「ざけんなくたばれ」
「そういう言葉を何気なくさらりと使うとこ、さすがやぎゅーのペアだねぇ…」
「………」

 一瞬、こいつが普段柳生からどんな扱いを受けているのか気になった。
 が、こいつに自分から話を振ったら負けだと、こいつに付き纏われ始めた時から思っているから口をつぐんだ。
 そして、今はとにかく話の続きを促す事が先決だ。
 視線の先に偶然、置き忘れられたらしい消しゴムが目に入ったので、それをそのまま背後に放り投げる。後ろなんて見なくても、立海テニス部レギュラーとして、それぐらいのコントロール力はあるつもりだ。
 そして、俺の放り投げた消しゴムは勢いを失わないまま見事背後の成田に命中した。
 あだっ!なんて間の抜けた悲鳴が聞こえ、それから少し渋々、引け腰で、といった様子で聞こえてきたその言葉に、俺は耳を疑う事となる。

「―――――自分が試合の対戦相手にわざとボールをぶつけたり、そういう傷害紛いのことをしてたからだって、その人はいってた」

 対戦相手に、ボール。
 傷害紛い。
 言葉が、ぐさりぐさりと音をたて突き刺さる。
 芥子色のジャージの、あの、くせ毛の後ろ姿が、残像のように脳裏に浮かび上がる。
 あいつが。あいつが?
 馬鹿みたいにへらっと笑う笑顔が過ぎる。
 ネット越しにぎらぎら輝く目が胸を射抜く。
 あいつが。あいつが?
 机に横たえていた体を起こして腰をねじれば、成田と視線が絡む。

「…仁王君も、そう思ってる?」

 何を思っているかわからない目で、そう尋ねられた。
 ただ、こうやって聞いてくるという事は、成田自体はあいつの話に納得できていないという事なんだろう。
 いつもならば、こいつの話なんて適当にあしらってそれで終いだ。
 でも、この件だけは。
 この件だけは、そんな事できるわけがない。

「……あいつの」

 例え距離をとったとしても、あいつらが大切な仲間である事には、なんら変わりないのだから。

「あいつのせいだなんて思っとる奴、俺らん中にはひとりもおらんよ」

 そして、少し距離をとってしまった今でも、これだけは自信を持って言える。
 俺達が怖がられたのは、恐れられたのがあいつのせいだなんて、思っている奴は絶対にいない。それだけは。

「…例え、あのある事ない事いわれた噂の発生の原因が、あいつの起こした傷害であっても、俺達は勝つためならそれをよしとして何も言わんかった。それどころか、煽った」

 勝つためならば何だってする。学校の名を、常勝を背負い、三連覇を成し遂げる。それが全てだった。いつか後悔する事になる事すら厭わなかった、勝利に向けて盲進していたあの頃。
 その為に踏み付けてきた物の大切さに気づいたのは、全てが終わってからだった。気づいた時には、もうどうすればいいのか全く推し量る事のできないところまできていた。
 勝ち負けだけの世界で、あのコートとそのごく僅かな周辺だけの世界で構築されてきた秤では、いつの間にかその場所以外の場所に適応できなくなっていた。
 そして、あの屋上という殻に、仲間という殻に閉じこもってしまった。

「だから、俺らはただの自業自得。でも、あいつは違う」

 レギュラーの中、ただひとり学年の違うあいつに。こうあるべきと教えたのは、俺達だ。

「あいつに謝るべきは俺らの方じゃ」

 まだあいつがそんな事を気にしている事にすら、気づかなかった。
 向き合ってこなかったからだ。
 他の奴はどうなんだろうか。
 気になった。
 それでも、線の中から出るつもりも、立ち上がるつもりすらないけれど。
 成田は口を閉ざした俺をじっと見つめていたが、少ししてから、静かに口を開いた。

「仁王君は、テニス部のみんなの事だいすきなんだね」

 それまでどこか強張っていた表情が、へらりと崩れた。
 いつもの、こいつだ。

「いきなり、テニス部のみんなの元に戻ろうとか、思ってること全部話してとか、言わないよ。私はテニス部に何があったかは聞いたけど、テニス部の人達と仁王君の間に何があったかは何も聞いてないから」

 本人がいいたくない事に無理矢理立ち入るの、あんまりすきじゃないし、と、どこかぎこちない笑顔でそうつけ加えた成田に、俺は何の言葉も返せない。

「でも、これだけは絶対忘れないで。仁王君がテニス部をだいすきなのと同じように、あの人達も仁王君がだいすきだよ。ずっとずっと、大切に思ってるよ」

 そんなの、



□□□□




 室内が静まる。
 成田は、二度目のチャイムの音と共に去っていった。きっとまた、本鈴までに教室に戻らなかった事をあのふたりに叱られる事になるだろう。
 室内には、自分以外誰も存在しない。
 慣れていたはずだ。
 中等部の頃から入り浸り慣れたこの教室の広さも、静けさも、全部。

「なぁ仁王、話してくれ」 
「お前、何があったんだ?」
 


「…おまえさんに、何が分かる」

 被害者ぶるつもりはない。
 加害者ぶるつもりもない。
 ただ、自分の事に精一杯で何も気づけなかった自分はどこまでも愚かで、幼稚で、惨めで、加えてまさか同じタイミングで解散をいい渡される事になるなんて思ってもいなくて、世界の全てから見捨てられたような気に勝手になった。
 今も自分の引いた線の中にい続ける事が、愚かだなんて、自分が一番分かってる。
 それでも、もう立ち上がらないと決めた。立ち上がれないから、そう決めた事にした。
 線の内側に膝を抱えて座り続けて、もう決して戻らない過去を回想し続けて、後悔し続けて、それでいい。
 復讐を終えるまで、それでいい。
 その先にある物なんて、今は考える必要もない。
 そして、成田。
 あいつが何か人に言えない秘密を持っているのは、間違いない。
 必ず当たる天気予報。そして必ず自分の行き先や潜伏先を知ることができる、そんな秘密が。
 そして真田と柳生のふたりは、それを必死に周囲に隠そうとしている。恐らく、本人も。
 だから、それを探している。
 それさえ分かれば、それを脅しの材料として使える。公言しない代わりにもう自分に関わるなと切り離すことができる。真田と柳生以外、必要以上にテニス部の奴らと関わるな、とだって言える。
 でも、そんな事をいう権利はないから、俺だけ切り離す。
 赤也じゃなくとも、ジャッカルだって丸井だって満更でもないようだったから。それを俺が切り離す権利なんてないから。
 こうやって、取り残されていけばいい。
 手を伸ばさないでくれ。
 もう、あの中には入れないから。
 あいつらが楽しく過ごせていて、それを少し離れたところから眺めていられれば、それでいい。
 机の上で、膝を抱える。
 こぽこぽ、沈めたはずの記憶が深海から息吹く。


まー 
ねえ、まー 
それで、いいの? 



「……いいんじゃ」

 何も間違ってない。
 自分は何も間違ってない。
 ただひとつ間違っていたのは、あの頃、何も自分が気づけなかったことだけだから。

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