「……どういう、状況?」

 宍戸の電話を受けてから猛ダッシュで家まで帰ってきた。
 宍戸が真雛の家、いや神奈川に自らやってくるなんて珍しい、というかこれは事件だ。
 宍戸の日常とは常にテニス中心に成り立っているものであり、活動範囲もそれに応じとことん狭い。基本的にその活動範囲から外に出ない宍戸が、真雛の家の近隣にある学校と練習試合があるわけでもなく、わざわざ真雛の家に来るなんて、事件以外の何物でもないのだ。
 何かきっと一大事が起きたんだ。
 そう判断して真雛は家に飛び帰り、階段を駆け上がり自室の扉を開いた。
 そして冒頭に戻る。
 の、だが、

「あ、ほら真雛が帰ってきたよしっしどー!おかえり真雛!」
「え、あ、ただいま…って、ちょ、ジローちゃん何してるの!」

 なぜか頭をぺったり床につけ土下座をしている宍戸の背中を、ベッドに座るジローが笑顔でゲシゲシ蹴っている。何だ、この光景は。
 慌てて止めたも、ジローはえ〜?なんて口を尖らせながら宍戸を蹴ることを止めない。宍戸も宍戸で抵抗するでもなく、悔しそうに頭を下げ続けている。
 もちろん完全に不機嫌全開モードに突入しているジローを止める術なんて真雛が持ち合わせているわけもなく、真雛は部屋の入り口でオロオロするしかできない。

「ちょ、え…あの、状況説明がほしいんだけど…」
「早く話せよ宍戸ぉー」

 ジローが宍戸の頭を掴み、

「ぐふっ!」
「りょ、亮ちゃん―――っ!?」

 その頭が、床にめり込んだ。

「りょりょりょ、亮ちゃん!?ていうかジローちゃん何してるの、亮ちゃんの頭、めりこんでるよ!」
「あ、真雛んちの床なのにごめん〜」
「違う違うそれじゃない!」
「真雛、この通りだ!!」

 一度頭を上げた宍戸が、今度は自主的に再び勢いよく頭を下げた。いや、頭を床に叩きつけた。
 ごつん、と床が大きく揺れる。痛そうだ。そしてそろそろ自室の床の心配も必要かもしれない。

「あの、ちょ、亮ちゃん?」

 いつまでも理由もわからず頭を下げられているのは流石に気分が悪い。
 なぜか気分を害しているらしいジローのフォローは後で入れるとして、ひとまず頭を上げた通常の状態で、落ち着いた状態で話が聞きたい。
 が、宍戸は額を床にこすりつけた姿勢のまま、絞り出すような声で、

「…諸事情ありきで、明日の放課後うちに来て、俺の彼女の振り…して、くんねえか?この通りだ!頼む!」

 と、唸り、また深々と頭を下げられた。
 沈黙。

「…………………」
「…………………」
「…………………」
「……………は?」

 今、宍戸は何と言ったんだ。
 宍戸の口からは飛び出しそうにもない言葉が、今聞こえた気がする。気のせいでも幻聴でもなさそうだ。
 諸事情?彼女?誰が、誰の?

「諸事情とかなーに適当にはぐらかしちゃってんの?ちゃんと自分のドジ談全部話せよ〜」
「と、とりあえず要点だけ先に伝えたんだよ!」
「なに宍戸、態度でかくね?」
「う……」
「それにさー」

 どす黒い空気をまとった笑顔のジローの手が再び宍戸の頭に伸ばされると、

「もっと頭さがんだろ」
「へぶぅっ!!!」
「ジローちゃんんんんんん!りょ、亮ちゃんの頭が床にめり込んでるよ!それ以上さがんないよ!」

 床から煙が出始めた。
 とりあえずジローをなだめ、宍戸がまともに話せるようにしばらくの間だけ黙っていてくれるよう頼んだ。
 少し、といわず、かなり不機嫌そうではあったが、ジローもそれを渋々了承し、宍戸の後ろから椅子にポジションを移した。そうしてようやくまともに会話のできる状態になると、宍戸は額に汗を浮かべたまま、実に情けなさそうな、加えて申し訳なさそうな表情で口を開いた。

「じ、実は今日、学校の奴に告られたんだけどよ…断ったんだけどちょっと相手がしつこくて…その…」

 宍戸はそのまま口をもごつかせていて、どうも待っていてもその先を言い出しそうにない。
 が、長いつきあいでお互いの性格を十分に把握しているせいだろうか。その表情と雰囲気だけで、なんとなく続きを悟ってしまった。

「……もしや、彼女いるって、その場しのぎの浅はかな嘘をついちゃったりなんか…してないよねぇ、亮ちゃん」
「うううううう…」
「ほんっとバカだよね〜宍戸!」
「うるせぇ!」

 宍戸には悪いが、今回に限ってはジローの言葉に頷かざるえない。
 どんなに相手がしつこくても、普段試合中に見せるような粘り強さを発揮すればいいのに。とは言っても、色恋沙汰にテニスのように対応しろと言っても宍戸にそれができないのもわかりきっているが。

「で、その子とはどういう話になっちゃったの」
「………………明日、」
「明日!?」
「明日の放課後呼んでやるよって…言っちまった」
「………それは…」
「…………………」
「………やっぱり、馬鹿って言っていい?」
「…………」
「無言は肯定とみなすからね」

 先程までの心配の念が、みるみる呆れの念に塗り替えられていく。
 無言を肯定に見なすと言っても、何も言わずわなわな体をふるわせながらただ唇を噛んでいるところを見る限り、自分でも善策でなかった自覚は十分にあるのだろう。今日会ってからひたすら頭を下げ続けているのも、自責の念にかられているからに違いはない。彼は本当に自分に厳しい人間だから。

「…ようするに、亮ちゃんは私に明日亮ちゃんの彼女のフリをして学校にきてほしい、と頼みたいわけか」
「……………おう」
「……氷帝、ねえ…」

 中学三年生の時、学校説明会に足を運んだことが一度だけある。その頃にはもう神奈川県に引っ越すことが決まっていたので受験する気は元からなかったが、宍戸が通っているということで一度は見てみたかったのだ。
 が、やたら金のかかっていそうな施設を回る内に、酷く気疲れしてしまったあのだるさは今も記憶に新しい。
 結局それ以来誘われたことはあっても、行くと話に乗ったことは一度もなかった。
 正直宍戸の家に遊びに行く以外に東京まで足を運ぶのは面倒だったし、今もその思いは変わらない。
 ましてや、彼女の振りだなんて面倒すぎる。
 少なくとも宍戸を好いてるという女子に反感を買うのは間違いない。何も落ち度がないのに恨まれるだなんて気分も悪い。
 でも、

「(……………ジャージ)」

 ベッドの脚にたてかけてある紙袋に自然と目がいった。
 あの雨の日、少年Aこと跡部に借りたジャージがあの中には入っている。
 今このタイミングを逃したら、次にはいつ返すチャンスがくるというんだ。
 段々夕方の冷え込みも増してきた。
 彼は大層な金持ちだと聞くし、もしかしたらもう代わりのジャージを用意しているかもしれない。
 でも、人として。
 物を借りた恩に対し、親切にしてもらった恩に対し、いつまでも礼を先延ばしにするのは頂けない。
 何年か前のジャヴァネのカウンターの中で、陶子が笑う姿がふと頭に浮かぶ。
 真雛ちゃん、ありがとうは相手の目を見て伝えなきゃいけない言葉よ、と、諭すように、謡うように、陶子が自分に向け笑いかける。
 それに、普段あれやこれやと心配をかけてくれている宍戸が、いくら自分の落ち度とはいえこうやってトラブルに直面して自分を頼り頭を下げているのに、ここで突き放すのはあまりにも酷いのではないだろうか。

「この通りだ、頼む…っ!」
「…行ってあげてもいいよ」
「そうだよな、やっぱり無理に決まっ……はああぁぁあああ!?」

 床に手をついたまま宍戸が絶叫した。

「何その反応。亮ちゃん困ってたんじゃないの?」
「そ、そりゃ困ってたけどよ…駄目に決まってんだろうなーって…」
「その代わりにジャヴァネの稀少メニューのミルクレープと、マルグリットとー…あ、メルベイユも食べたいな。それにマスターの特製苺ジャム一瓶買ってね。あと亮ちゃんママの作る抹茶マカロンも久々に食べたいかも」
「えっ…………」
「あ、あと氷帝に行く電車賃も忘れないでね」
「…………!」
「あ、そうだ」

 背中を丸めてすごすごと財布を確認し始めた宍戸をよそに、真雛は制服の内ポケットから携帯を取り出した。
 あれだけ面倒な事を引き受けてあげたのだから、このぐらいのお仕置きは許されるだろう。

「誰に電話すんだ?」
「あ、やぎゅーだよ」

 ビシッと、音をたて宍戸が凍りつく。

「ななな、な、なんで今…」
「だってほら、放課後氷帝に行くならしばらくふたりと一緒に帰れないから。先に言っておかなきゃ」

 みるみる青ざめていく宍戸を無視し、着信履歴から柳生の名前を探しだし、通話ボタンを押す。
 あああああ!と悲鳴をあげる宍戸の頭をジローが再び押さえ込み、今度は床ではなくベッドにその頭が沈んだ。

『もしもし』
「あ、やぎゅー?部活中なのにごめんね」
『いえ、丁度休憩中だったので構いませんよ。真雛さんもそれが分かっていて掛けてきているんでしょう?』
「おー」

 柳生の声の向こうから、赤也やブン太の騒ぐ声が遠くに聞こえる。
 ふと、ついさっきまで一方的にだが一緒にいた仁王もその場にいるのか気になった。
 が、それを話し始めれば長話になってしまうのは目に見えていたし、その間ずっと宍戸を今の状態で待たせるのも酷い生殺しだ。仁王の件は一旦頭から排除し、改めて今回の用件を切り出した。

「あのさ、後で真田にも伝えておいて欲しいんだけどさ」
『はい、何でしょう?』
「明日からちょっとしばらく一緒に帰れないんだ。ごめんね」

 そう口にした途端、受話器の辺りから冷気が漂い出した。さらに遠くの方て赤也と丸井のヒッ!と、喉を引き攣らせるような声が聞こえた気もする。
 それと同時に、目の前に立つ宍戸の表情は、この世の終わりのような、強いて例を挙げるならばムンクの叫びのような悲壮なものとなった。

『…どうしてですか』
「明日からちょっとの間亮ちゃんの偽彼女やることになってね、」
『は?』
「だから、偽彼女」
『真雛さん』
「なーに?」
『宍戸君に代わってください。そこにいらっしゃいますよね?』
「え、何でわかっ…」
『いいから代わってください』
「亮ちゃーん、覚悟決まったー?」
「………………か、代わるわ」

 うなだれながらも携帯を受け取ると、宍戸はすごすごと廊下に出ていった。
 その後ろ姿をふたりで手を振りながら見送り、扉を閉めて室内に戻ると、入口近くにいたジローが口元に手を当てにやにやとこっちを見ながら笑っている。

「真雛ってば確信犯〜」
「だって明日学校で言ったとするじゃない?今なら電話で済むけど、事後報告だったら真田とやぎゅーが氷帝に乗り込んじゃうし」
「確かにそれはめんどいねー」

 一通りけたけた笑い終わると、よっこらしょ、と、ジローがベッドに座る真雛の横に腰かけた。
 ふたり肩を並べて座っていると、ジローが静かにゆっくりと口を開いた。

「真雛、変わったね」
「そうかな」
「前だったら何があっても絶対こんな面倒なこと引き受けなかったよ」

 で、こいつらは今そういう面倒事を抱えてるんだなって認識して、しばらく音信不通になる。と、ジローが頬を膨らませながらいった。
 思い当たることがいくつかあるので真雛も苦笑いを浮かべるしかできない。

「変わったかな」
「うん」
「いい方に?」
「いい方にだよ」

 きっと、それは立海テニス部の眩しいほど真っ直ぐな人達の、そしていつも支えてくれる親友ふたりのおかげだ。
 それに、

「もし変わったとジローちゃんが思うなら、それは亮ちゃんやジローちゃんがいるって、そういう安心があるからこそなんだよ」

 いざという時に泣きつける先があるという安心と、背を押してくれる存在、引き止めてくれる存在、その全てがあったから踏み出すことができた。
 だから、

「本当にありがとう」
「うん」
「これからもよろしくね」
「トーゼン!」

 にかっと笑いピースマークを向けてきたジローの姿に、真雛も思わず口元が緩む。

「でも学校終わったら氷帝かぁ…氷帝じゃなくてもだけどさ、違う学校の中に入るってなんか緊張するね」
「そー?」
「ああ、ジローちゃんはそういうの気にしなさそうだよね、うん…」
「長太郎とかはそういうの気にしそーだけど、うちのテニス部はたぶん全員気にしねーな」
「そういえば氷帝のテニス部って、亮ちゃんやジローちゃんからよく話聞くけと実際に会うのは初めてかも」
「マジで?忍足とかがっくんとかとも会ったことなかったっけ?」
「うん。その人達とか、日吉君とか樺地君とか…あ、跡部君にはこの前会ったけどね」

 何気なく出した跡部の名前に、ジローの雰囲気と表情が少し変わった。
 急に部屋が静まり返ったおかげて、廊下で話す宍戸の声がわずかに聞こえる。

「……………」
「ジローちゃん?」
「俺、跡部だいすきなんだ」
「うん、知ってる」

 かしこまっと何を言うかと思えば、そんなこととうの昔から知っている。
 跡部ってマジつえーの!しかも超いい奴で、かっこよくてー何でも努力でこなしてーやっぱかっけーんだ!と、日頃ジローが跡部を語る時の勢いと、瞳の輝き具合は凄まじい。
 宍戸も悪態をつきつつも跡部を認めているし、ふたりの話を聞く限り部員や生徒、教師にも人望のあるすごい人物だということは、跡部景吾という人物をよく知らない真雛にだってわかる。
 その話に聞いている跡部景吾の人間像と、自分の知る少年Aとが若干ブレることだけ気にかかってはいるが。

「でさ、真雛がこの前ストテニで会った跡部もさ、明日会うだろう跡部も、跡部なんだよ」
「う、ん…?」

 当たり前のことだ。
 ジローは何でわざわざそんなことを言うんだろう、そう首をひねった時、






「だからさ…、何があっても、嫌いにならないであげてね」






「………え?」

 じゃあ俺は今から部活いくかぁ!なんて叫んで、ジローちゃんはお邪魔しましたー!と部屋を飛び出していってしまった。
 ついさっきまで騒がしかった部屋が静まりかえる。廊下から宍戸のひたすら謝る声が少しだけ聞こえて少し悪い気がしたが、厄介事を持ってきたんだからこのくらい構わないか、と割り切ることにした。
 そしてじっと考えた後、小さな声でもう一度、ジローがいった言葉を復唱してみた。

「………どういう意味?」

 首をひねってもわからない。
 全ては明日、氷帝学園から始まる。

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