「ほら仁王君、仁王君の好きなノイハウスのチョコレートですよーおいしいよー」
「しね」

 それはまだ帰りのホームルームの時間帯のこと。本日の仁王の潜伏先は第二理科室だった。
 ここは彼にとってかなり隠蔽度の高い隠れ場だったらしく、そんなことお構いなしにいつものように現れた真雛に、仁王は普段以上の不機嫌の色を見せている。
 眉間いっぱいに皺を寄せ、机の上に上履きを履いたまま寝転がり真雛に背を向ける仁王を見下ろし、真雛はふう、と大げさにため息をついた。

「…食べ物で釣る作戦、失敗かぁ」
「……お前さん、いい加減俺につきまとうなちゅうとるじゃろ。もうお前さんの秘密暴こうともせんからさっさと消えんしゃい」
「先に私にちょっかい出して随分勝手だねぇ仁王君。それに仁王君が私に用がなくても、私に用があるんだから仕方ないじゃない」
「なんじゃ」

 体を反転させ、ぎろりとこちらを見上げ睨みつける仁王。
 そんな仁王に真雛は下手な愛想笑いと評判の笑顔で、親指をぐっと立て、胸を張り言った。

「仁王君とお友、」
「しね消えろ」

 片眉をつりあげた仁王は暴言を吐くと、もう真雛の存在は気にかけないといった様子で再びごろんと背中を向け、携帯をいじり始めた。
 相変わらず手ごわいな、と内心思った真雛は、そんな仁王に負けじと近くにあった大型三角定規の角で仁王の背中をつついてみる。
 つつく。
 無反応。
 つつく。
 無反応。
 つつく。

「…………絞め殺されたいんか」

 ようやく仁王が首だけだがぐるりとこちらを向いた。
 瞳孔が開いている。
 こころなしか机上に広がる銀髪もこちらを威嚇するかのように逆立っている気がした。

「あ、目つきがキレた時のやぎゅーそっくりだ」
「…………」
「仁王君に睨まれたって怖くないよ。私いつもあの真田とやぎゅーと一緒にいるんだから」
「…………」

 仁王はちっと舌打ちをすると、今度は体を起こしそっぽを向いてしまう。先ほどのように完全に背中を向けているわけではないが、話しかけるなオーラは今まで以上に凄まじい。

「におーうくーん」

 そんなオーラに負けず頑張ってみた。

「友達から親友に格上げ希望」
「友達にすらなった覚えがない」
「でも仁王君なんだかんだで優しいよね、いつも返事してくれるもん」
「…………」
「仁王君、雑談でも愚痴でも私はいつだって大歓迎だよーテニス部のみんなとの関係修復の相談だって、頼りになるかわかんないけど受けつけてるよー」
「おまえさんには関係ない」
「(あ、やっぱり返事した)私部外者じゃない認定まる君からもらったもん」
「よかったのう、ブンとも仲良くなれたんか。テニス部の男コンプの日も近いんじゃなか」
「え、仲良くはないけど」
「随分な男好きじゃな」
「都合悪くなるとまた話をそらす」
「おまえさんこそ」
「真田とやぎゅーは親友。桑原君は選択世界史が一緒だから顔見知り。赤也君はかわいい後輩。紅の豚はタチの悪い顔見知り。幸村君はなんか気まずい。これが全部です。話戻すよー」
「今いそがしい」
「関係あるなしだけど、まず私のせいって言ってきたの仁王君の方じゃん。ほら関係なくない」
「今いそがしい」
「…………」

 データフォルダいじりを始めた仁王の後ろ髪を思い切りひっぱってやろうかとも考えたが、まだ触ることが許されるまで親しくはなってないな、と思いなおし再び三角条規でつついてみることにした。
 だが、これでも前進したと思う。
 ここ数日、口先だけの適当な言葉を並べ、都合が悪くなると逃げ出す仁王を真雛は追いかけてきた。
 場の空気だけで日々生活している男だから、自分に都合が悪くなるとすぐに逃げる。そこを取っ捕まえると今度は逆ギレする。そう教えてくれたあの時の柳生の助言は実に的を射ているとしみじみ思う。
 そしてそれを参考に、真雛は仁王にまっすぐぶつかり続け、追及し、逃げられれば追いかける毎日を繰り返してみた。
 次第に苛ついてきた仁王の口からは消えろだの死ねだの悲しい言葉が増えてきたものの、これも本音だと思えば耐えられる。

「におーくーん、寂しいよー構ってー」
「柳生と真田んとこ帰れ」

 そしてこれはあくまで主観での印象だが、確かに仁王は根から嫌な奴ではないと思う。
 全て無視してしまえばこちらは何も打つ手がなくなってしまうのに、返事はしっかり返ってくる。
 今の言葉にしても、消えろ、ではなく、わざわざ真田と柳生の元に帰れと彼はいった。
 この数日の間だけでも、なんだかんだでテニス部の人達のことはすきなんだな、と思わせる発言はいくつもあった。
 ならなおさらどうにかしたい、と、やはり思う。
 それも、こうやって日々諦めず頑張れる原動力のひとつだ。

「におーくーん…」
「邪魔」
「仁王くーん、イケメンの仁王くーん、かぁーっこいーひゅうひゅう」
「うざい」
「におーくーん…」
「…………」

 突然仁王が携帯を閉じ、立ち上がった。
 もしやまたどこかに逃げる気か、と、真雛も慌てて立ち上がろうとした。
 だが、

「え?」

 灰色のカーディガンをまとった仁王の腕が、すぐ目の前まで伸びてきた。
 次の瞬間、





「痛っ……!」

 首に、強い圧力がかかる。
 固いてのひらが肩を押し、視界が回り、だん、と、背中と後頭部が机にたたきつけられた。
 冷えた机が背中に更にじんじんと痛みを与える。

「な、に…っ」
「男とこんな場所にふたりきりで、何もされんとタカくくってんのか」

 机に打ちつけられた背中の痛みに悶えている間に、いつのまにか仁王が自分の体の上に乗り上げていた。
 仁王の右腕は真雛の左肩を抑えつけ、左腕はネクタイの根本をつかみあげる。足には仁王の膝が乗り上げられていて、太ももにぎりぎりと痛みが走った。

「う……っ」

 でも何より、真上に締め上げられている首がとにかく息苦しい。
 覆い被さるようにしている仁王が更にネクタイを引き、ふたりの顔の距離は数センチともなくなった。
 前にと流れてきた仁王の後ろ髪が真雛の頬を擦る。

「そういう女が、一番胸くそ悪い」

 髪が影を作る仁王の憤怒の表情に、真雛は言葉を失う。
 こわい、と、
 今、この瞬間初めて、仁王雅治という男に恐怖を感じた。

「消えろ」

 吐き捨てるようにそう呟くと、仁王はようやく真雛のネクタイから手をはなし、真雛の上から降りた。
 動悸が止まらない。
 指先が冷たい。
 こわい。
 言葉を失う真雛を横目に、仁王は再び近くの机に腰かけると携帯をいじり始めた。
 そんなのこわくないよ、と。
 仁王君が本気でそんなことをしてくるわけがないって信じてる、と。
 いいたい言葉は湧き出るように出てくるのに、いわなくちゃと思うのに、口は開いてもくれない。
 でも
 怖かった。他に言いようがないほど、ただただ怖かった。
 そんな時、




『電話に出んかァァァァ!』




 ふたりの肩が跳ねた。
 教室内に一定期間のサイクルで真田の叫び声が流れ続ける。
 真雛の、電話着信音だ。
 以前面白半分で録音し、そのまま解除していなかったのだろう。それにしても驚いた。
 でも何でマナーモードが解除されているんだ、と思ったが、最近仁王に構いすぎてメールや電話に気づかない真雛への柳生の些細な悪戯だろうとすぐ確信した。
 真雛の携帯に触る機会がある人間なんて真田と柳生くらいしかいないし、真田が他人の携帯の着信音を変えるなんて高等技術をもっているとは思えない。
 その声の正体が真田本人でないとわかった仁王は、真雛をひと睨みすると再び携帯に視線を戻す。
 慌てて内ポケットに入れていた携帯を出し画面を見れば『宍戸亮』との表示が浮かんでいる。こんな時間に珍しい。
 ちらりと仁王に視線を戻すも、仁王はもう僅かもこちらを気にかけている様子はない。
 真田の怒声が鳴り響き続ける中、真雛はおそるおそる仁王に声をかけた。

「………ごめん。電話、でるね」

 仁王からの返事は当然ない。
 いつもだったら寂しく感じるのに、今はどうしてもほっとしてしまう。そんな風に思ってしまうことも悲しかった。

「…はい、もしもし」
『……………よ、よお』
「…何死にかけのハムスターみたいな声だしてるの、亮ちゃん」
『死にかけのハムスター!?』
『うるせーよ亮、何叫んでんだ!』
『きっとあれやで岳人、例の峰不二子や!なあなあ、俺にも声聞かせ…』
『うるせーよ忍足、岳人』
『『すみません』』

 電話の向こうの騒ぎがジローのひと言でおさまった。思わず真雛の口元もひきつる。忍足と岳人という人物に面識こそないが、きっと受話器の向こうで顔を青くしているであろうふたりに心底憐れみの念を抱いた。

『で、お前特に今困ったりはしてないよな?大丈夫か?』
「連絡とるたんびにそれ聞くね亮ちゃん…別に何もないよ、大丈夫」

 さっきまで仁王に押し倒されていました。なんていえるわけがない。
 目を血走らせまた学校を抜け出し、自転車を爆走させ東京から神奈川にやってくる宍戸の姿は簡単に想像できる。
 それにいわなくとも、今こうやって宍戸の声を聞くだけで気持ちもだいぶ落ち着いてきた。宍戸パワーは偉大だ。

「私より亮ちゃん、何か用があってかけてきたんじゃないの?」
『あー…えっと…その件、なん、だけど…な』

 珍しく歯切れの悪い宍戸に首を傾ける。
 静かに宍戸が話し出すのを待っていたら、あーだのうーだの唸ったあとに、

『今後ろに野次馬いるから、今日お前んち行って話すわ』

 受話器の向こうで頭をがりがり掻きながら、宍戸がそういった。
 真雛は思わず口をぽかんと開いたまま、言葉を返せなくなった。
 が、すぐに携帯をきつく握りしめ、叫んだ。

「うちに来る!?亮ちゃんが!?え、まず今部活の時間じゃないの?大すきな部活の時間じゃないの!?」
『出てたんだけどよー…まあ、訳ありで強制欠席』
「強制欠席!?」

 チャイムが鳴るのと同時に隣の校舎が賑わいだした。どうやら立海も放課後の時間帯に突入したようだ。

『そっちも終わったみてーだな…って、そいえばおまえ何で今この電話出れてんだよ』
「え、あー…あははは!じゃあね亮ちゃん、家で待ってるから!」
『ちょ、待』

 最後まで聞かずに電源ボタンを押し、携帯を内ポケットにしまいなおした。
 宍戸が氷帝学園から真雛の家に来るまで約一時間と考え、真雛がここから家まで帰るには最低五十分は必要だ。急がなければ宍戸が来るまでに間に合わない。
 ちらりと教室の時計に目を向ける。
 そしてまだ携帯をいじっている仁王に視線を戻し、真雛はその横顔に再び声をかけた。
 
「仁王君」

 呼びかけても、その背中から返事は返ってこない。

「私はもう帰るけど、明日は奮発して牛肉の入ったお弁当もってくるよ。今日も部活頑張ってね」

 明日も返事を返してくれるかはわからない。
 それでも、
 あの突き放すような行為は、少しずつでも着実に近づいている証拠だと思うから。
 ここで引いちゃいけない。
 ここでは、引けない。
 だから、

「また明日ね」

 この言葉をまた仁王に送る。
 そして鞄と紙袋を抱え、仁王に背を向け教室の扉を開き冷えた空気の廊下に出た。
 授業が終わったとはいえ、やはりこちらの校舎はまだ人気がない。
 急がなきゃ、と走り出しすぐ近くにある角を曲がった瞬間、まるで人の気配がなかったはずの先に人影が飛び込んできた。

「わ!」

 慌てて立ち止ろうとしても急に止まれるはずもなく、角の先にいた人物の胸に思い切り体当たりするかたちになってしまった。
 その反動で鞄と紙袋を床に落とし、目の前の人物も手に持っていたらしいノートを落としてしまった。

「あ、ごめんなさい!」

 真雛の手からこぼれ落ちた紙袋からジャージが半分のぞく。
 汚れちゃう、と、慌てて手を伸ばしたが、真雛の手より先にすらりと長い指がジャージに触れた。

「汚れてはいないようだが、すまなかったな」

 ぶつかった男子生徒が、ジャージを丁寧に紙袋にしまい、自分のノートと真雛の鞄を拾い上げ真雛の前へとゆっくりそれを差し出した。
 ありがとう、と、頭をさげて真雛も紙袋を受け取った。
 頭をあげれば、そこにはこの学年の中でもかなり知名度の高い同級生が立っていた。

「私も前みてなかったから気にしないで。むしろ柳君、怪我ない?」
「ほう、俺を知ってるのか」
「生徒会メンバーで、しかも学年主席の柳君を知らない人なんて、この学年にはいないよ」

 光栄だな、と、満足げに頷く柳の姿に真雛も自然に笑顔になった。
 私はA組の成田です、と頭をさげ、じゃあ用があるから、と真雛は柳に手を振りその場を後にした。
 足音が遠ざかっていくその方向を見つめていた柳は、俺の方こそ知っている、と、喉を鳴らして笑った。

「柳」

 教室内から名前を呼ばれ、柳は静かに振り向く。
 中途半端に開いた扉の向こうには部活仲間の姿。
 柳は、机の上に片膝をたてギラギラ目を光らせこちらを睨む男に笑いかけた。

「随分と気が立っているようだな、お前らしくも無い」
「覗き見なんて趣味が悪いのう」
「はて、何を指しているのやら」
「今来たようなふりして、あいつがここに来た時からずっと教室の外にいたじゃろ、お前」
「さあ、どうだろう」

 暖簾に腕押しとはまさにこのことだ、と、仁王は内心舌打ちをした。
 のらりくらりと仁王の攻撃をかわす柳は、真雛よりよっぽど厄介な相手じゃな、と内心舌打ちした。
 そんな仁王を満足げに眺めた柳は、ふむ、と頷いた。

「あれが成田真雛。氷帝学園宍戸亮の幼馴染み、弦一郎と柳生の友人、赤也がなついた女子生徒」

 詩を朗読するかのように、柳はさらさらと言葉を並べていく。
 そんな柳に仁王はほんの一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに元の険しい表情に戻りじっと柳を見つめた。
 そして眉をひそめ、

「…あいつのデータ、それしかないんか」

 と、尋ねた。

「少なくとも、お前が知りたがっているような秘密や弱点などに関しては、持ち合わせていない」
「参謀にしては手ぬるいのう」
「興味はある。だが弦一郎や柳生に嫌われたくはないからな」

 嫌な沈黙が流れる。
 柳がすました顔をしているのを見れば、この状況を嫌なものに感じているのは仁王だけかもしれないが、とにかく仁王にとってはこの沈黙が苦痛だった。沈黙でなくとも柳とふたりきりというこの状況自体が苦痛だが。
 案の定、柳が再び口を開いた時仁王の予感は的中した。

「随分と彼女に懐かれているようだな…いや、違うな」

 懐いてもらえたんだな、と、柳はまた笑う。
 その発言、その姿はまた仁王の勘に触るものでしかなかったが、唇を噛み締めぐっと堪えた。

「ああやって直球で投げかけてくることなど、もう長らくなかっただろう。違うか?」
「…おまえさんこそ、そう直球で向かってくるなんて久しいのう」
「そうか?俺はいつでも直球だ」
「……おまえさん、は」

 何がしたいんじゃ、と、仁王の押し殺した声だけが教室内に響く。
 そんな仁王の問いかけに、柳は何てことない、といわんばかりの余裕たっぷりな口調で、

「丸井風に言うならば、来たるべき時を待っている」

 と、いった。
 俺はその時に備えているだけだ、と柳は再びほほえむと、踵を返しテンポの良い足音を残しその場を立ち去った。
 あの日あの時、屋上で止まってしまっていたはずの時間がめまぐるしい程に動き出した。
 こんな変化は、いらない。
 こんな変化は、億劫でしかない。
 だが、そのきっかけを作ってしまったのが真雛に話しかけた自分だということも十分わかっている仁王は、再び舌打ちすると木製の古びた椅子を蹴りとばした。

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