出会いは入学式、の後、1年B組の教室に入ったのが始まりだ。
 藁半紙に印刷されたクラス表を片手に教室の扉を引けば、騒がしかった室内が一瞬沈まりかえった。
 柳生の姿をみたとたん、生徒同士がきまずそうに顔を見合わせる。
 見なれた光景に、吐き気がした。
 着る服と校舎が変わった程度では何も変わらないか、と、何かを期待していた自分を柳生は内心嘲り笑った。
 教室をぐるりと見渡すと、体格のいいみなれた黒帽子をかぶった背中を前列にみつけた。
 ひとりでなくてよかった、と、その後ろ姿をみた時ひどく安心した。
 クラス単位でさまざまなことが行われる学校という組織だからこそ、クラス内にひとりでも味方がいる、というこの事実は柳生を安堵させた。
 さて、と柳生は眼鏡の位置をなおし、黒板を見た。
 黒板には新入生にむけた座席表が書かれている。
 教卓のところに右上がりな雑字で『オレ』と書かれているのが気にならないでもなかったが、自分の名前を素早く視界に捉え、窓からふたつ、前からよっつと自席を記憶し、席へと向かった。
 椅子をひいて腰かけてから、真田君はななめみっつ右前ですか、と真田の位置を確認した。教室内で関わることは数えるほどしかないだろうが、休み時間屋上に向かう時、それに部活の時は必然的に顔を合わせることになるのだから。
 他の生徒と目があうことを避け、机へと視線を落とせば机には桜のはなびらが一枚乗っていた。
 立海に入り四度目の春。
 去年のこの時期何をしていたか、と考えると、やはりテニスしかない。今と違うことがあるとすれば、あの時は幸村が入院していて今は赤也がいない。
 あと二回、このはなびらを見ればこんな生活も終わる。と、入学式を迎えた学生らしからぬことを考え、柳生はため息をついた。
 今のメンバーでテニスをやっていたい、と思うし、卒業したらやはり寂しいと思うだろう。中学で果たせなかった全国三連覇の夢も、消えてはいない。王座を取り戻したい。
 だが、この非難と中傷にまみれた日常の中にいることは、やはり辛いし苦しい。時折精神的にまいってしまいそうになる。
 目を伏せていた柳生が、ふと窓の外の桜を見上げようと左を向くと、




「あ、どうも」



 ひよこ饅頭をほおばる、女子がいた。

 数秒固まりついた後、誰だ、こいつ。と、まず思った。
 次に、なぜひよこ饅頭、とか、なぜ学校初日から指定外カーディガン、とか、とりあえず頭の中に次々とツッコミが湧いた。
 そんな柳生を気にするわけでもなく、隣席の女子はもぐもぐとひよこ饅頭をたいらげ続ける。
 そのままひよこ饅頭をくわえながら、瞼を伏せがちの瞳を泳がせ、女子は黒板を仰いだ。

「えー…と、やなぎせいくん?」

 誰がやなぎせいだ。
 どうやったら朝からの短期間でそんなに皺になるのか、といいたくなるような藁半紙をにらみつけながら、女子はやなぎせいひろしくんか、と、ひとり満足げにうんうん頷いていた。

「私、外部からなんだ。やなぎせいくんって内進でしょう?」
「…何で、私が内進だと?」
「テニスの鞄もってるから。入学式の日から部活の道具もってるなんて、内進の人しかありえないでしょ?」

 まず外進自体そんなにいないんだけどねー、と苦笑いを浮かべると、隣席の女子はウキウキとした表情を浮かべながら鞄の中から何やら取り出した。
 よく見れば、それは人形焼きだった。
 しかも、日本一有名な猫型ロボットのやつ、だ。
 その光景をみて、柳生の脳は瞬時に状況を判断した。
 外部ということは、ほどほどに頭はいいに違いない。
 でも、こいつは変だ。
 できる限り関わらない方がいい人間だ。
 そう思ったが、すぐに考えを改めた。
 まず、自分は友人の取捨選択ができるほどの立場でもない。
 それなのに、先ほどのおごりが過ぎた考えは何だというのだ。
 柳生がこの学校でまともに会話できるのは、教師とテニス部員しかいないのだから。

「でね、私全然この学校のことわからないからさ」

 すっと差し出された手に、周囲が小さくどよめいた。
 あの子外部?
 外部だから知らないんだ。
 誰か教えてあげなよ。
 そんなひそひそ話が飛び交う中、真雛はそんなことまるで聞こえていないらしく笑顔で柳生の手をとった。

「これからよろしくね、やなぎせいくん」

 思わぬ展開に、柳生の首筋にはたらりと冷や汗が流れた。
 笑う真雛。
 凍りつく柳生。
 お近づきに、と渡された人形焼きを片手に、柳生は右手でこめかみを押さえた。
 さて、困った。
 ひさびさのせいか、人との接し方を忘れてしまった。




□□□□




「やぎゅーくん、おはよ」
「…おはようございます」

 牛乳プリンをもきゅもきゅ食べる隣人を見て、こいついつも何かしら食ってんな、とあきれた。
 が、当然紳士柳生はそんなこと口には出さない。顔にも出さない。当たり障りなく、
 あれから名前の訂正は、した。
 自分としては、できる限り距離をとるようにも努めている。
 が、真雛はそんな柳生の意向には気づいていないようで、毎日笑顔で柳生に接してくるのだ。

「今日は八つ橋もあるんだ」
「…京都でも行ったんですか」
「やだなぁ、東京駅行けばだいたい揃ってるって。そりゃもちろん味は現地に劣るけど」

 けろりとした表情で平然とそう言い放った真雛に、頭痛がしてきた。
 だいたい何で平日に東京駅に行く用があるんだろうか、と思ったが、柳生は口をつぐんだ。
 ここ数日で、真雛には放浪癖があることは理解した。
 彼女は興味があることならばどこにでも行く。時間もルールも気にかけない。
 休み時間に校内を探索し、探索し足りないと思ったならばチャイムが鳴っても教室に帰ってこない。
 ついこの前も、ペンギンが見たくなったからといい柳生にパンダのぬいぐるみをくれた。どうやら学校が終わった夕方から動物園に行ってきたらしい。
 ダブルスペアである仁王も、どちらかといえばそういう自由奔放な人間だ。自分はそういう人間に振り回されやすいのかもしれない、と思うと、なんだか腹が痛くなってきた。
 やぎゅー君、生の方の八つ橋平気だよね?と確認をとられたので、渋々柳生もうなずいた。そして柳生の右手に抹茶味の生八つ橋が乗せられる。

「……ありがとうございます」
「ううん、気にしないで。今日の三限の選択書道の時間に半紙を五枚貸してくれるだけでいいから」
「貴方はまた半紙を忘れたんですか!?あれ程前回私が次回は忘れないよう注意したというのに!」
「ご〜め〜ん〜な〜さ〜い〜」
「貴方は天性の馬鹿ですか。それとも天性の阿呆ですか」
「え、それ選ばなきゃいけないの」
「選べないなら私が選んでさしあげましょうか」
「や、やぎゅーくんの鬼畜眼鏡…!」
「だ、れ、が!鬼畜眼鏡ですか。………この鳥頭」
「ひぃぃぃいっ!」

 これも差し上げますやぎゅー様、と、真雛が食べかけの牛乳プリンを差し出してきたので、思わずべちんと頭をはたいた。
 やっぱり柳生君って…と、教室内で陰口が広まるが、真雛はこの下らないやり取りに、カーディガンで隠れた手を口にあてくすくす笑っている。
 お前な、と、内心思ったが、どうも普段のように陰口が心に突き刺さる感覚はなかった。
 そういえば最近、教室にいる時間があまり苦に感じない、と、ふと気がついた。
 感じない、とは少し違う。
 感じる暇がない、というのが正しいかもしれない。
 教室に入れば、いつも真雛が隣にいる。くだらない話に熱をあげ、周囲の中傷を真雛の笑い声がかき消す。
 真雛はいつも笑顔で柳生を迎え、他となんら変わりない一同級生として柳生を扱う。
 くだらない日常会話。
 授業についての相談。
 同級生の笑顔。
 全部全部、今まで自分がなくしてきたものばかりが、今自分のまわりに溢れかえっている。
 改めてそれを認識して、柳生は真雛の頭をはたいた姿勢のまま言葉を失った。
 それをすべて認識した途端、泣きたい衝動に駆られた。
 いつの間にか取り戻していた高校生としての日常が、今ここにあった。
 たったひとりだけだとしても、自分を怖がらない。
 敬遠しない。
 恐れない。
 中傷しない。

「ね、じゃあ八つ橋に加えてお昼に学食でアイス奢ろうか?」
「…あ、いえ結構です。昼は先約がありますので」
「そっか…」

 しょぼん、と頭を垂らす真雛の姿に若干の罪悪感はあったが、これだけは譲れない。屋上に仲間達が待っているのだ。
 そして、思い返す。
 自分が真雛の側にいる限り、真雛はクラスで他に友人を作ることができないのだ、と。
 そして何より、真雛が柳生に対し何も恐れないのは、真雛が噂を知らないだけだ、と。
 噂を耳にし、周囲の自分たちに対しての対応を知れば、真雛も当然自分から離れていくのだ、と。
 そう考えた途端、真雛の顔を真っ直ぐ正面から見れなくなってしまった。
 半紙は貸しますよ、とだけ真雛の目を見ず伝え、柳生は足早に教室を飛び出し屋上を目指した。
 逃げたんだ、と自分でもわかったが、戻る気にはなれなかった。
 いつか嫌われると思った瞬間、一緒にいるのが怖くなった。
 最悪だ、と内心舌打ちする。
 この閉鎖的な学校という場所で、期待を持ってはいけないということくらい、ずっとわかっていたはずなのに。
 期待、してしまった。
 教室で、誰にも恐れられることなく、楽しげに笑う自分を、想像してしまった。
 こんな変な期待を抱いてしまうくらいならば、関わらなければよかった、そう思った。
 こんな変化は、いらなかった。
 手の中の八つ橋は、固く握りしめたせいでぐちゃぐちゃに潰れていた。




□□□□




 放課後、昇降口の掃除を終え、部活はないが部員とストリートテニスに行くため持ってきたテニスバッグを取りに教室へ向かうと、教室の中から人の気配がしたので柳生は立ち止まった。
 耳をすませば、それは教室掃除を担当している女子たちの一部だとわかった。
 その中に真雛もいたことに、嫌な予感がした。
 ぞくりと背筋に冷や汗が流れる。

「じゃあ私帰るね」
「あ、あの、成田さん…」
「ん?なあに?」

 ほら言いなよ、と真雛に声をかけた女子が近くにいる女子に次の発言を促した。
 その気まずそうな雰囲気に、柳生はわかってしまった。
 今朝、自分が恐れていた瞬間が今目の前に迫っていることに。

「ごめんね、私ちょっと約束があって急いでるんだ。話あるなら、短くでいい?」

 柳生の位置からは教室の中の様子は見えないが、真雛はどうやら本当に急いでいるらしい。
 確かにいつも週末は小走りに下校してたな、と、柳生はここ二週間の真雛の様子を思い出した。
 そして、柳生がすぐ近くで話を聞いているとは知らず、女子たちは言葉を紡ぎはじめた。

「…あ、あのさ!成田さん、よく柳生君と一緒にいるじゃない…」
「うん、それが何?」
「……えっと、その…怖い目にあったりとか、してない…の?」
「私達ね!あんまり柳生君とは一緒にいない方がいいと思うの!」

 思い切ったように少し大きめな声でそう言った女子に続き、側にいた女子も、私達成田さんのこと心配してるんだよ!と続けた。
 終わった、と、悟った。
 唇を噛み締め、真雛の言葉を聞いてしまう前にこの場所から去ろう、と、身を翻した次の瞬間、




「怖い目って…別に何もないけど?やぎゅーくん面白いし、むしろ面倒見よくて私なんかすっごく助かってるし」




 足が、止まった。
 まず怖い目にあうって、やぎゅーくん不良でもなければただの同級生じゃん、と、真雛が笑うのを、柳生は廊下で呆然と聞いていた。
 教室にいる女子は、でも…とは言っているが、後に続く言葉が見つからないらしくモゴモゴと、ねぇ?だの、やっぱり…だのと呟いている。

「それに、一緒にいない方がいいなんて私、思ったこともないし。まず、それは自分で判断するから、大丈夫だよ」

 でも、よくわかんないけど心配してくれたならありがとうね〜と、へらりと笑う真雛に、これ以上何も言えないと思ったらしい女子ふたりは、そっか…じゃあ私達、帰るね、とそそくさと教室を出てきた。
 柳生は慌てて隣の無人の教室の中に身を潜める。
 ぱたぱたと小走りぎみの足音が遠くなるのを確認してから、柳生は廊下へと出た。
 無意識の内に息を止めていたのか、少し頭がくらりとする。
 僅かに開いた扉の隙間から真雛を見れば、急いでいたはずの彼女は、なぜか教室をでるでもなくこちらに背を向け机に腰かけ俯いていた。
 やはり先ほどのは建て前か、と柳生が再び唇を噛み締めると、

「…これが、漫画とかでよく見る、イケメンの側にいるから嫉妬を買って、忠告という名の呼び出しをされるっていう状況か…」

 なぜそうなる。
 やっぱり天性の馬鹿だったか、と柳生が真剣に悩みはじめている間、教室の真雛はひとり次の呼び出しをされたらどうしようかとあくせくしている。
 そんな真雛のいる教室内に、柳生は踏みこんだ。

「あ、やぎゅーくん。もしかし、」
「あの方たちの」

 真雛の言葉を遮り、柳生は口を開いた。
 柳生の纏う張りつめた空気を感じ取ったのか、真雛も口を閉じ柳生を見つめかえす。
 これを言えばもう最後になる、と、頭をよぎった。
 胸が締めつけられるように痛んだが、柳生はひと呼吸を置き、

「あの方たちの、おっしゃる通りです」

 と、いった。
 真雛は何をいっているんだとばかりに眉根を寄せる。
 あまり見ない真雛の怪訝な表情に、やはり小さく胸が痛んだ。
 でも、言わなければ。
 真雛は自分といる限り、友人を作ることができない。
 いつか見放されるのが嫌だ。
 なら、見放される前に離れればばいい。
 彼女のためだ。
 自分のためだ。
 寂しいなんて、思ってはいけない。

「もう私には関わらない方が貴方の為です。私に関わっていると、貴方がご友人を作れませんよ」

 それでは失礼、と柳生は真雛に背をむけた。
 え…?と、声をもらす真雛が困惑しているのは背中越しでもわかった。
 それを敢えて無視して柳生は立ち止まらず歩き続ける。
 やぎゅーくん、と名を呼ばれても振り向かない。明日からはもう話すこともないだろう。
 教室を出ようと柳生が扉に手をかけた、その時、




「友人が作れないって…やぎゅーくんって、私の友達でしょう?」




 耳に届いてしまった真雛の不思議そうな言葉に、足を止めそうになった。
 だが柳生は教室の扉を開き、できる限りの速さでテニス部の仲間たちが待つ屋上に向かい歩いた。
 早足で廊下を抜けていく間、ただテニスバッグのショルダー部分をきりきりと握りしめる。爪がくいこむほどに。
 足元がおぼつかない。
 視界が歪み、揺れる。
 唇も噛みしめすぎたのか、顎にたらりと血が伝ってきた。
 どう表現したらいいかわからない感情の数々が頭を渦巻いて、気分も悪くなってきた。
 壁を叩きたくなるような、
 叫びたくなるような、
 走り出したくなるような、
 足元が崩れ、逃げ出したくなるような、この感情はなんなんだ。柳生には、わからない。
 でも、これだけはわかる。
 あれは、真雛にとっては、何気ないひと言だったんだろう。
 だからこそ、だ。
 だからこそ、

 あのたったひと言に泣きそうになった自分がいるなんて、認めない。




□□□□




「比呂士、最近なーんか調子悪いよな」

 曇天の空の下、いつものように屋上に集った仲間のひとりにそう言われ、柳生はどきん、と心臓が跳ねた。
 声をかけた丸井はというと、仁王のシャボン玉セットを首からさげ、お世辞にも綺麗とは言い難い空に向かいシャボン玉を吹いている。
 柳生はいつものように笑顔で、

「そんなことありませんよ」

 と、答えたが、その答えに不服そうな丸井と柳生の間にもうひとり人間が割り込んできた。

「いーやブンちゃんの言うとおりじゃ。感情の揺れがプレイに全部出てるナリ」

 なんかあったんか?と、心配そうに仁王が柳生の顔を覗きこんでくる。
 真剣な金色の瞳に一瞬言葉を迷ったが、柳生はもう一度そんなことありませんよ、とほほえんだ。
 が、それを見た仁王の表情はさらに険しくなる。
 嘘はいかんな、と、仁王の目がじとりと座った。

「前は必ず教室移動のない休み時間ごとに屋上にきとったんに、最近はたまにこんし…朝のHRは絶対サボらんかったおまえさんが、今日に限ってすごい形相してきたじゃろ」

 さっきだっておまえさん、酷い顔しとったよ、という仁王の言葉に他の部員も一同に頷いた。
 真田だけは何か思い当たるものがあったのか、普段以上に眉間に皺を寄せ、うなずくでもなく黙りこんでいた。
 フェンスに上半身を預け、気持ちよさそうに風を感じていた幸村だけがそんな真田の様子に気づいたらしく、横に立つ真田を黙って見上げている。
 少し気分が優れなかっただけですので、気になさらないでください、と柳生が少し強い口調でいえば、部員たちも納得はいっていないが渋々、といった様子でそれ以上は追及してこなかった。
 じゃあコートに行こうか、と幸村が切り出し、皆それぞれテニスバッグを肩にかけ、先陣をとった幸村に続く。
 もう生徒がほとんど残っていない静かな校舎の中を、テニス部員たちは雑談を繰り広げながら列をなして歩いていく。
 そんな列の最後尾を歩く柳生は、階段を降りる際まだ明かりのついた自分の教室をちらりと見た。
 彼女は、まだいるのだろうか。
 傷ついたかもしれない。
 彼女だったら、噂を聞いたところで鵜呑みにせず、友人でいてくれたかもしれない。
 それでも万が一、このまま自分といることで真雛まであらぬことを言われるかもしれないと考えただけで、耐えられなかった。
 変な奴だと呆れてばかりいたけれど、柳生はこの数週間自分は本当に楽しかったのだと思った。
 真雛のおかげでこの数週間、どこにでもいる高校生のように過ごすことができた。
 まだ明るい教室に向けて、小さく、ありがとうと謝罪を呟き、柳生は赤也と丸井が話している雑談に入りこんだ。
 その横で柳生の小さな呟きを聞き逃さなかった仁王が、複雑そうな表情を浮かべていたのには、気づかなかった。




□□□□




 借りていたコートを後にし、部員たちと別れて柳生が帰路についたのは、もうそれなりに遅い時刻だった。
 辺りは暗い。
 ジジジジと不気味な音を鳴らす街灯から街灯へ、曲がり角から曲がり角へ、柳生は歩く。
 単調に足を動かし続ける柳生の頭の中は、数時間前に別離を告げた彼女のことばかりだった。
 明日からはもう手に入らない、平凡だけれども色のついた日々が次々脳裏に浮かび、消えていく。
 遅刻しそうな真雛を叱った。
 毎日菓子をもらった。
 テニスをするという幼馴染みの話を聞き、テニスについて語った。
 教科書を一緒に見た。
 教室移動は、隣並んで移動した。
 クラシックを語った。
 小説を勧めた。
 流行りのバラエティ番組にコメントし合った。
 体育の授業が嫌だとだれる真雛を一喝した。
 数Bの教師のどもる数を数えて笑った。
 勉強を教え合った。
 駅前のケーキ屋の特売日を教えてもらった。
 忘れよう、考えるな、と、眉間いっぱいに皺を寄せ、切れ長の目を吊り上げても、柳生の頭からそれらは離れてくれない。
 テニスさえあれば、よかったのに。
 テニスと、あの場所にいる仲間たちと、それさえあればよかったのに、今の自分は何だ。

「(……何時の間に、こんなに浸食されていたんだろう)」

 考えこんでいる内に、気がつけば街頭の下で足が止まっていた。
 眼鏡を直そうと顔に手を伸ばせば、眉間に深く皺が寄っていた。真田君じゃないか、と自分に突っ込みをいれてすぐ、何故だか泣きたくなった。
 何でこんなに、悲しいんだろう。
 大多数の人間に中傷されても平気だった。
 どんなに避けられようと大丈夫だった。
 たとえ辛くとも、涙が流れそうになるこんな衝動を、知らない。
 元に戻るだけなのに。
 たかがひとりの女子に、こんなにも振り回される自分が、わからない。
 壁を叩きたくなる。
 叫びたくなる。
 走り出したくなる。
 足元が崩れるように覚束ず、逃げ出したくなる。
 どうして、こんなにも泣き出したくなる。

「――で…――……から…」

 ふと人声が聞こえ、柳生はハッと顔を上げた。
 耳を澄ませば、若い女の声。
 こんな時間に、しかもこんな路地裏で、と柳生は再び眉間に皺を寄せる。
 声の持ち主が自分の進行方向へ向かっているのか、それともこちらへ向かっているのかわからないが、声は柳生の進行方向から聞こえるので、気は進まないがそちらへと足を進めた。
 電灯から電灯まで、道は暗い。
 こつこつと柳生のローファーがコンクリを擦る音と、見えない行き先から聞こえる女性の声だけが辺りに響く。
 柳生が足を進めるにつれ、だんだんと声が近くなる。
 だが、声が近づくにつれ柳生の頭にはいくつか疑問がうまれた。
 声に、どこか聞き覚えがある。
 そして、その声は誰かと会話しているのに、その相手の声は聞こえないのだ。
 その代わりに聞こえるのは、明らかに人外な[鳴き声]ばかり。

「――…だから、私……で…」

 その人物が誰か認識できた時点で、柳生は足を止めた。
 柳生の立つ電灯からみっつ先の電灯の下に、その人物はいた。
 目を見開く柳生の視線の先には、スポットライトにあてられたかのような真雛の姿があった。
 その腕の中には、一匹の鳩。
 その足元には、数匹の猫と、一匹の犬、それに肩には一匹の蝶がとまっている。
 今現在まで頭を悩ませていた真雛が突如視界に現れたことと、その真雛が何故か動物に囲まれた奇妙な状況にいることが、柳生の思考を停止させる。
 そんな柳生に気づくことなく、真雛はあたふたと自分の周囲に向かってしゃべり続ける。

「飛んでる時に電柱にぶつかって怪我したって…どんな勢いでぶつかったらこんな怪我しちゃうの?あ、君見てたの?へえ……うん…うん……じゃあ地面に落ちた時のが怪我の原因かな…え?痛い?どうしよ、こんな時間じゃ病院開いてないよね…あ、どこか今の時間でも開いてる動物病院しってる子いない?」

 端から見れば、動物に話しかける電波な女子高生だ。
 だが、電波では片づけられない状況が柳生の目前では繰り広げられていた。
 話しかける真雛に呼応するかのように、動物たちは鳴き声をあげ身振り手振りをするのだ。
 何なんだ、と、柳生は言葉をのみこむ。
 普通では考えられない状況が、常識では信じられないことが、目の前で起きている。
 ちょっとだけ探してきてくれる?と申し訳なさそうに首をすくめた真雛の肩から蝶が飛び立つ。犬が走り出す。
 怪我をしているらしい鳩をそっと地面におろし、真雛は携帯をとりだし電話をかけ始めた。
 柳生はただ呆然と立ちつくす。

「あ、亮ちゃん?今パソコン開けないかな、ちょっと調べてほしいことがあるんだけど…うん、あのね、今の時間も観てもらえる動物病院ってないかな?」

 痛い?と真雛が鳩に向かい尋ねると、鳩は力なさげにひと鳴きすると右翼を少し羽ばたかせる。
 会話をしている、と、思った。
 自分の考えがどれだけばかげているか、わかってはいる。
 でも、会話しているのだ。
 犬も猫も蝶も鳩も、何てこともないように真雛の言葉に応じて鳴く。動く。
 人間が動物と会話できないという常識を、目の前で破り捨てられているのだ。
 そんな時、猫がひと鳴きした。
 それを聞いた真雛はバッと顔をあげ、こちらを向いた。
 視線が、交差する。

「………や、ぎゅう、くん」

 真雛の顔色が、みるみる青く染まっていく。
 柳生が学校で決して見たことのない、真雛の真剣な表情。
 明かりみっつ向こう分にいる真雛と、酷く遠い距離を感じる。

「…………見た、の?」

 返事に困っていると、真雛はくるりと柳生に背を向け走り出した。
 あ、と柳生が声をかけようとした時には、真雛の姿は電灯の下から暗い曲がり角の先へと消えていってしまった。
 柳生の足ならば、追いかければ追いつくことはわかりきっていた。
 それでも追いかけられなかった。
 追いかけて、逃げる彼女を捕まえて、何を言う?
 今、自分の目の前で起きたあの不思議な現象の説明を迫るのか?
 否。
 真雛がそんな柳生から逃げたことは、一度もなかった。
 そして、今真雛は逃げた。
 柳生から、逃げたのだ。

「……………成田、さん」

 切れかけた街灯が薄暗く照らすこの路地裏に、柳生の小さな呟きだけが音となり広がった。残された鳩が不安そうに柳生を見上げる。
 今の今まで、この名を口にしたことすらなかった。
 唇を噛み締める柳生の横を、猫がひと鳴きし、通りすぎていく。
 猫が何と言ったのか、柳生にはわからない。

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