桜色の人魚
「一緒に住むか」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。私は文字通りぱちぱちと瞬きをし、それは新しいお菓子の名前か何かだろうか、と本気で考え、それからようや く、春千夜の放った言葉をゆっくりと咀嚼していった。
ホテルの、ジャグジー風呂の中でのことだった。乳白色のお湯が泡立ち、ときおりその飛沫が顔にかかっていた。私は春千夜に背中を預けるように浸かっていて、春千夜がどんな表情をして言っているのか、さっぱり検討がつかなかった。
ふたりのあいだに、ジャグジーの泡が吹き出るぶくぶくという音だけが響いていた。春千夜は私が聞こえていないと思ったのか「……おい、聞いてんのか」と顔を覗き込もうとしてきた。
私の頭は混乱を極め、自分でも意味不明な言葉を返していた。
「春千夜がもし人魚になったら」
「……は?」
「きっと、すごく綺麗ね」
先ほどとはまた違う沈黙が、ふたりの間を満たした。私の頭は、ますます混乱していくばかりだった。
「なんでオレが人魚なんだよ」
春千夜が飛沫で濡れた顔を拭いながら言った。だって、と私は言い募った。
「私が人魚なら叶わなくて泡になって消えてしまうもの。それなら春千夜が綺麗な人魚になってくれたほうがいい」
私は春千夜のそばを離れると、浴槽の縁に手を下にして突っ伏した。一面の窓の外では、東京タワーが遠くできらめいていた。
しばらくそうしていると、春千夜の指先が、私の背中に触れた。びくり、と私は思わず体を揺らした。
「……一緒に、住むか」
それは今度は、明瞭な響きを持って私の耳に届いた。嘘でも冗談でもない、春千夜の、誠実な声だった。私には春千夜のその誠実さに、向き合えるほどの勇気がなかった。嬉しいはずのその提案を、真正面から受け止める度胸がなかった。
「……春千夜」
「んだよ」
「もう一回、したいの」
私は勢いよく顔を上げると、春千夜に有無を言わさないまま抱きついた。私のささやかな胸を春千夜に押し付けると、春千夜の体はすぐに反応した。
すっかりのぼせあがったあと、私は春千夜に抱えられてベッドへ運ばれると、冷たいシーツに沈み込んだ。目線の先にはやはり、東京の夜景が広がっていた。
春千夜は私が飲んだあとのペットボトルの残りを一息に飲み干すと、背中を向けている私の横に横たわった。
「……なあ」
「ほかの女の子は、いいの」
口をついて出たのは、我ながら可愛げのない言葉だった。背後にいる春千夜の表情はやはり見えず、けれど、春千夜が呆れたようなため息を吐いたのを聞いて、私はびくっと振り返った。
「潔癖症だから他人なんか家に上げねえよ」
「じゃあそれって、どういうこと」
今度は春千夜が、遠い目をする番だった。
「……どういうことだろうな」
再び、ふたりの間を沈黙が流れた。私は窓の外を眺めながら、ぐるぐると春千夜が言っていたことを考えていた。もしかして眠ったんじゃないか、と私が春千夜を見上げようとしたとき、春千夜に強く、抱きしめられた。
「ほかに女がいたら嫌か」
私は、はぐらかすようにして答えた。
「……人魚姫は、王子様が別の女性と結婚したから泡になったのよ」
気が付くと、朝になっていた。私はベッドに一人、シーツに包まっていた。春千夜が朝まで一緒にいることは滅多にない。仕事なのか、それともなんなのか分からないけれど、大抵そうだった。
けれど、今日は少し違っていた。
ベッドサイドのテーブルに、見慣れぬ銀色の鍵が一つ、置いてあったからだ。