いとしいひと
一目見たときから、私はこの人のことをとても好きになるだろう、と思った。身も蓋もなくなるくらい好きになって、何もかも投げ捨ててもかまわないような、きっとそんな恋に溺れるだろうと。そしてそれは、本当に現実になった。
「春千夜」
名前を呼ぶと、私に覆いかぶさっていた春千夜は、ベッドへと体を横たえた。ふたりの体の間には汗が溜まっていて、エアコンの風が、すかさず素肌を冷たくしていく。ふるり、と私が身震いしていると、春千夜の腕が首の下へと回ってきた。春千夜の見た目以上に逞しい腕に抱き寄せられ、胸に頬をくっつける。春千夜の胸も、汗ばんでいた。
「何考えてた」
まだ整わぬ息のまま、春千夜が尋ねた。
「何って」
「ヤッてるときなんか考えてただろ」
春千夜が、髪をかきあげる。春千夜の体の部分でも、私が一等好きなのはおでこだ。春千夜のおでこは案外狭くて、可愛い。
「出会ったときのこと」
「ふうん」
「きっとすごく春千夜のことを好きになるだろうなって思った」
「それで、今は」
「その通りになったよ」
そーかい、と春千夜は呟いた。聞いてきたくせに興味なさそう、と私は口をとがらせてみせた。けれど、口に出しては言わない。春千夜はあまり口数の多いほうではなかった。かといって、行動で示すタイプでもない。ただ、今がすべてなだけだ。
「春千夜のこと、すごく好きになるだろうなって思った」
私が繰り返して言うのを、春千夜は無言で聞いていた。そろそろ煙草が吸いたいんだろうなあ、と思いながら私は続けた。
「きっと、死ぬほど好きになるだろうなって、思った」
こつん、と頭頂部に春千夜の顎が乗せられる。体がより密着して、春千夜の匂いが濃くなった。春千夜からは、少年の匂いがする。悲しい匂いだ。
「春千夜、好きよ」
春千夜から返事は帰って来ない。まるで夜空に向かって呟いているようだった。最初から何もかも覚悟して好きになったはずなのに、悲しくて、涙が溢れそうになる。
「本当に、好きなの」
「……泣くなよ」
いつもだったらここで私が口を閉じる。けれど今日は、出会ったときの気持ちを思い出したこともあって、止まらなかった。
「好きとは言ってくれないのね」
春千夜は何も言わない。ただ、黙って私を抱きしめているだけだ。返事を期待しているわけではなかった。ひとはあまりに誰かを好きになると、なんにも望めなくなるのだ。
私は春千夜の腕の中で、静かに泣き続けた。しばらく泣き続け、瞼が腫れぼったくなってきたとき、頭上から声が降ってきた。
「オマエのことが、嫌いなわけじゃねえよ」
「……うん」
「オマエの言う好きっていう感情が、分かんねえんだ。オマエだけじゃなくて、セケンイッパンが言う、恋だの愛だのが、オレには分かんねえ」
「……うん」
でも私のことは抱いてくれるんでしょう、とは言わなかった。それを言ったら、春千夜のことをますます混乱させるだけだと思った。
「……オマエのことが、嫌いなわけじゃねえよ」
春千夜が、優しく私の髪を撫でつける。春千夜は、愛を知らない人だ。
「春千夜」
「なんだ」
私は体を起こすと、春千夜の瞳を見つめた。
「好きよ」
「……そーかよ」
「……愛してる」
それから私は再び春千夜の胸に顔をうずめて泣いた。思いが通じ合わないことにではない。この人の深い孤独を思って、泣き続けた。