私を離さないで
ナマエさんは、ちょっと浮世離れしている人だった。例えるなら、透き通った白い布のようにうすぼんやりと儚い印象の人で、事実、ナマエさんはいつもどこか遠くを見てぼんやりとしていた。ナマエさんとふたりでいると、ナマエさんのその瞳に、僕が映っていると全く実感できなかった。けれど僕は、そんなナマエさんのことが好きだったのだと思う。いや、一目惚れだったのだ。
僕は当時大学三年生で、卒業後はごく当然のように全員が就職するレールと社会に疑問を持っていた。就活はせず卒業後はヨーロッパを旅しようと、大学のある海が近い辺鄙なこの町でアルバイトをし、こつこつとその資金を貯めている最中だった。
ナマエさんは、海辺にぽつんと建つ白いコテージに、一人で住んでいる女性だった。家もナマエさんにそっくりというか、どこかうらぶれた雰囲気のある、古い小さなコテージだった。
僕とナマエさんが出会ったのは、ナマエさんが飼っている毛深くて白い大きな犬が迷子になったときの、第一発見者になったからだった。
僕がこの町に数軒だけある居酒屋のアルバイトを終えて、暗い駐輪場で自転車に跨ろうとしたときのことだった。
遠くに、ふさふさと柔らかいものが暗闇に浮かび上がっていて、僕はふと手を止めた。そのふさふさは次第に僕に近づいてきて、ワフン、と低い声で一声鳴いた。
「どうした、お前」
よしよし、と屈んで頭を撫でてやると、犬は気持ちよさそうに目を細めた。だいぶ人懐っこい犬だった。首輪はしているし、飼い犬なのは見て分かった。
「迷子なのか、お前」
犬はもう一度、ワフンと鳴いた。そして耳をぴくぴくさせたり、鼻をひくひくさせたりすると、何かに気づいたようにくるりと踵を返して、来た道を戻り始めた。
「おい、どこ行くんだよ」
「ワフン」
僕も慌ててそのあとを追う。しばらく一緒に駆け足で走っていると、道路の向こう側から、もうひとつの華奢な影が見え始めた。
「ジョン――ジョン」
「ワフン、ワフン」
「――ジョン!」
ジョンと呼ばれた犬が、まるで跳ねるボールのようになって影の元へと走っていく。ジョンはその人物の元にたどり着くと、嬉しそうに尻尾を振って飛びついた。
「もう、勝手にいなくなっちゃだめじゃない」
僕はというと、暗闇から突如として現れた存在に、しばらく、思わず見とれていた。ナマエさん――のちに知ることになる名前だ――がジョンを撫でる手を止めて僕に気づいたとき、僕は急にはっとして声を出した。
「あ、あの――」
「すみません、ありがとうございました」
ナマエさんの声が暗闇を震わせた。白い素肌に見合った、透き通る声だった。
「家にいたはずなのに、いつのまにか行方が分からなくなってしまって、本当に、助かりました」
ナマエさんが、すまなさそうにじっと僕を見つめる。けれど、そこに僕は映っていないのは明らかだった。僕を見ているようで見ていないような瞳に、僕は吸い込まれそうになった。
「僕は何も。この子の後をついていただけですから」
「こんな夜遅くですから、また後日、お礼をさせてください。ご住所は」
「いえ、あの、本当に――」
今から考えればこのチャンスを無駄にせず、名乗り出ておくべきだった。なのに僕は――すっかり慌てふためいてしまって、名乗ることも、住所を告げることもできず、早足にその場を去った。
それから偶然にもナマエさんと再会したのは、彼女が、ジョンと共に海辺を散歩しているときだった。ナマエさんはノースリーブの白いワンピースを着ていた。
「あら、あなたはあのときの……」
「あ、えっと――」
「ワフン」
僕はナマエさんに誘われて、コテージをお邪魔した。お茶をご馳走になりながら、ヨーロッパを旅したくてということを話すと、ナマエさんは、あのぼんやりとした瞳に一瞬だけ生気を取り戻したかのように輝かせ、笑みを浮かべた。
「とてもすてきね」
そんなことを言ってくれる大人は、その瞬間まで僕の周囲にはいなかった――それ以来、僕はナマエさんの家に、たびたび遊びにいくようになった。実家から大量に送られてきた野菜をお裾分けしたり、本の貸し借りをしたり、高いところの電球やコテージの修理で力仕事をしたりとするうちに、僕は、大学四年生になっていた。
びゅん、と僕は赤いフリスビーを夏空へ放った。その途端、ジョンがフリスビーを追いかけて一目散に走り出していく。
ナマエさんに思い人がいるということに気づいたのは、この頃だった。それは、意味深に伏せられた写真立てや、彼女の右手に光る指輪や、いつも郵便が来るたびぱっと顔を輝かせる顔や、そして落胆しながらポストを閉める姿からして明らかに思えた。それに、ナマエさんは働いていなかった。要するに、彼女の生活を支えている誰かがいるのだ。
一度だけ、ナマエさんとお酒を飲んだことがある。春先の、まだ海辺は肌寒い時期だった。渡辺君は、とナマエさんが少しいたずらっ子のような顔をして尋ねてきた。
「好きな女の子とか、いないの」
ナマエさんはウィスキーを、僕はビール缶を煽っていた。ナマエさんは意外にもお酒と煙草が好きだった。煙草の銘柄はパーラメントだった。ナマエさんが夕方、テラスでもの悲しそうな瞳をしながら煙草を吸うたび、僕はひそかに、男の影響を感じていた。
きっとナマエさんの思い人も、ウィスキーを飲むしパーラメントを吸うのだ。
「――いないですね、全然」
「あら、そうなの。もったいない」
「就職もせずふらふらするような男、好きになる人いないですよ」
「そうかな。私は魅力的だと思うけど」
僕たちのいるコテージのテラスには、海風が吹き付けていた。ナマエさんがウィスキーを注ぎ直した。ナマエさんはあまり手に年齢を感じさせないけれど、今年で、三十六歳になる。とてもそうは思えない。
「私だってふらふらしてるわ」
ナマエさんが、自嘲的に笑う。「ナマエさんは、なんていうか――」と僕が言い淀んでいると、ナマエさんが笑みを深くした。
「ごめんね、フォローしてくれなくても大丈夫」
「そんなつもりじゃ……」
「いいの、ほんとのことだから」
「……ナマエさんは、どうしてこんなところに一人で住んでるんですか」
それは、一緒に過ごすたびに深まっていく疑問だった。というより――ナマエさんには、分からないことしかなかった。
ナマエさんが、声のトーンを落として答えた。
「私ね、人生の深みにはまっちゃったの」
「――え?」
ナマエさんは、珍しく酔っているように見えた。頬がいつもより赤く、頬杖をついてつまみをフォークの先でいじくりながら、ナマエさんは続けた。
「もう、どこにも行けなくなっちゃった」
そのとき、ランタンの柔らかい光がナマエさんの横顔をゆらりと揺らした。その、あまりにも物憂げな顔に、僕はつい、口に出していた。
「ナマエさんは好きな人いるんですか」
ナマエさんがふっと顔を上げた。けれど、瞳はやはり僕を映していなかった。どこか遠い、誰かを見ていた。暗い、夜の蠢く海のような黒目だった。
ナマエさんは何も言わなかった。それが答えだった。
「渡辺君――」
ナマエさんが、砂に足を取られながら駆け足で駆け寄ってくる。ナマエさんに気づいたジョンが、ワフン、と鳴いた。
「レモネード、飲まない?作ったの」
「――頂きます」
ジョンを連れて、僕たちはナマエさんの家に帰った。ナマエさんの家は白いペンキ塗りのドアをくぐっても、外と同じく潮のにおいがする。
その頃の僕は、だいぶ旅行の資金が貯まっていた。もちろん贅沢な旅はできない。それでも、実はひそかに、ナマエさんの分の資金も貯めていた。ナマエさんはこんなところに一生閉じこもって生きていく人ではない――と僕は、ナマエさんのことを何も知らなかったくせに、生意気にも知ったような気になって、そんなことを考えていた。
「旅行の資金は貯まった?」
「あ、はい、だいぶ」
「そう、それはよかった」
打ち明けるならいまだ、と僕は思った。出してもらったレモネードをぐいと飲み、僕は、覚悟を決めた。
「ナマエさんも、一緒に行きませんか」
「――え?どういうこと?」
ナマエさんは不意を突かれたような顔をしていた。当然だろう、僕は話を続けた。
「ナマエさんの分の資金も貯めているんです」
「でも、ジョンがいるから」
ナマエさんは、眉を困ったように下げながら言った。しまった、と僕は思った。今の今まで、ジョンの存在を忘れていた。
ナマエさんはジョンを、心の底から愛し、支えにして生きていた。まるで我が子のように。なのに僕はそんな大事なことを失念していただなんて。
「じゃあ、ジョンも連れて行きましょう」
「渡辺君……」
「ナマエさんは、こんなところにいていい人じゃない」
「ありがとう、渡辺君。気持ちはとても嬉しい。でも、ジョンのことを考えれば、安易に連れていけないわ」
僕は下唇を噛んだ。自分の軽率さに対する失望を、つい、ナマエさんへの怒りに転換してしまった。
「本当の理由は、ジョンじゃありませんよね」
ジョンなんて、そんなの建前だ。ナマエさんは待っている。ナマエさんのいつやってくるのか分からない思い人が、ふたたび尋ねてくることを。僕には無性にそれが腹立たしく――そしてそれは、嫉妬という感情でもあった。
「渡辺君……」
「ナマエさんは、いつまで死んだようにここで生きてるんですか」
「……そうね、渡辺君みたいな若い人から見たら、私は死んだも同然よね」
ナマエさんのその声を聞いて、僕ははっと我に返った。一体何を言っているんだ、自分は。
「すみません、帰ります」
僕は席を立つとドアを開けた。相変わらず海は僕の気持ちになんて関係なく深い青をたたえ、白い波頭を砂浜に打ち寄せていた。
その夜、僕はひどい後悔に苛まれていた。あんな風にナマエさんの気持ちに土足で踏み込むようなことを、僕はするべきではなかった。
僕はどうしてもナマエさんのことが気になって、深夜にも関わらず自転車に飛び 乗った。ナマエさんは夜型の生活だったし、きっと今でも起きている。
僕は今でもこのときナマエさんの家に向かったことを、後悔しているのかしていないのか、よく分からない。
ナマエさんの家にはまだわずかに明かりがついていた。きっと読書をするため、間接照明をつけているのだろう。僕ははっと我に返った。女性の家にこんな時間に来るなんて。帰ろう、と思ったとき、僕はナマエさんの家の近くに、見慣れない黒いセダンが停まっているのを見つけた。何かの予感が、胸をよぎった。
ナマエさんの家から遠い場所に自転車を停め、テラスのほうに忍び寄った。わずかにカーテンと窓が開いていて、明かりがこぼれている。僕はそっと、中を覗いた。
まず見えたのは――ナマエさんの、目を見開いた驚愕の表情だった。ナマエさんは、震える手で顔を覆った。そして僕はようやく、室内にもうひとつの影があることを見つけた。その影は、ナマエさんを、優しく抱き寄せて抱きしめた。
ああ、と僕は思った。ああ、ああ、ああ。このときが来てしまったのだ、と。
ナマエさんの泣く声が、ここまで聞こえてきた。はるちよ、はるちよ、とうわ言のように繰り返される名前も。ナマエさんの手が、影の背中に回される。ふたりは強く抱き合ったまま動かず、まるで、時間が止まったかのようだった。
「春千夜、春千夜……」
「待たせて、悪かった」
「信じてた。絶対に事が済めば、必ず春千夜は私を迎えに来てくれるって」
「……当たり前だろ」
「ああ、春千夜、春千夜、春千夜……今度こそ私を連れて行って。離さないで、絶対に」
「……もう、離すかよ」
そのときだった。影が、僕の存在に気づいた。影はベルトから何かを引き抜くと、僕に向けた。
それが拳銃だということに気づくまで、僕は数秒要した。
「誰だ」
「渡辺君……」
「んだよ、知り合いか」
それでもその男は僕から拳銃を下ろさなかった。片腕でナマエさんを片時も離すまいと抱き寄せたまま、僕を睨みつけている。
「春千夜、渡辺君よ。彼は大丈夫」
「……もう、行くぞ」
「ちょっと待って、春千夜」
ナマエさんは、ナマエさんを連れて行こうとする男の腕から体を乗り出して、僕へ向かって言った。
「――ジョンを、お願い」
ナマエさんは、それだけ言うと男とともに家を出ていった。遠くで、エンジンが始動する音がする。僕の両足は、張り付いたかのように全く動かなくなっていた。
ジョンが、くぅん、と寂し気に鳴く声がどこかから聞こえてきた。僕は、ジョン、と部屋に呼びかけた。
ジョンがとぼとぼと出てくる。ジョンの首をよしよしと撫でてやると、ジョンは、気持ちよさそうに目を細めた。
じゃりじゃりとタイヤが砂を踏みはじめる。僕はその音を聞いて、その場にへたりこんだ。
ナマエさんは、すべてを捨ててあの男と一緒に行ってしまった。愛していた犬と、八年住んでいた家さえ、すべて捨てて。
ふと気づくと、もう、波の音しか聞こえなかった。