もう一度言わせて

 しばらくして、ナマエは祖母の家から高校に通うようになった。電車を二本乗り継いで、およそ一時間弱かけて学校に来る。そのうえバスも反対方向で、おれたちは二人きりになる時間がほとんどなくなった。
 練習のないオフの日や日曜は、おれはたびたびナマエの元を訪れた。カフェに行ったり買い物をしたり、ゲーセンに行ってプリクラをとったりした。
 今日はカラオケに来ていた。とはいえ、歌っているのはナマエだけで、おれはぼーっと、ナマエが歌っているところを眺めていた。
 こういうとき、クロならさっと曲を入れて歌ってしまえるのだろう。けれどおれは、ほとんど音楽は聞かないし、知らない。
 ナマエがaikoを歌い終わり、おれの方を見た。

「研磨もなんか歌おうよ」
「ナマエが楽しそうなところ見るだけで楽しいから、いい」

 ナマエが少しだけ頬を赤らめる。反応に困っているのか、視線をうろうろさせている。
 おれはぽすんと、ナマエの肩に頭を乗せた。

「ナマエと一緒にいられるだけで、いいよ、おれは」
「……研磨」

 時刻の終了を知らせる電話がなったあと。帰りぎわ、おれたちはキスをした。唇が触れ合うだけの、ごく軽い軽いキス。
 手を繋いでカラオケ店を出る。外はもう夕方だった。おれたちは手を振りながら、駅で別れた。


 七月。音駒はインターハイ予選を第六位で終わり、全国大会出場を逃した。虎たちは春高を目指して引退しなかったけれど、おれはバレーには一旦区切りをつけて、引退することに決めた。大学受験に専念することもあったし、起業に備えて勉強しておかなければならないこともまだまだたくさんあった。それに、引退すればナマエとの時間も確保できる。
 クロの家に遊びに行ったのは、引退してすぐの頃だった。ナマエと電車を乗り継ぎ、クロのアパートにたどり着く。
 チャイムを鳴らすと、少し髪を短くしたクロが出てきた。

「クロ、久しぶり!」
「よお、上がれよ」

 クロの部屋はこざっぱりとしていた。大学でもバレーボールサークルに入ってバレーを続けているらしく、壁にはポロシャツがかけてある。
 ローテーブルを挟んで腰掛け、まず話題になったのが、おれたちが婚約したことだった。

「びっくりしたわ、やりますね、研磨クン」

 クロがにやにやと笑う。おれは少し苦々しい気持ちで答えた。

「でも、二年後だから」
「まあお前ら結婚するんだろうなーとは薄々思ってたけど、まさか学生のうちに婚約するなんて思ってもなかったわ」
「報告するのが遅くなってごめんね、クロ」
「ほんとだよ、まっさきにおれに教えるべきだろうが」

 ナマエが照れたように笑う。クロはそんなナマエの頭を、ぽんぽんと撫でた。

「家、大変なんだって?」
「……うん。まだ落ち着かなくて」
「ま、研磨もついてるしな!なんかあったらおれも力にならから、安心しろよ」

 クロがにかっと笑う。それに釣られてナマエも、ありがとう、と笑った。
 それからおれたちは海に行って花火をした。クロが手持ち花火に次々とライターで火を点けていく。ナマエのはしゃいだ笑顔が、色とりどりの花火の光に照らされていた。
花火の最後。クロが打ち上げ花火に火をつけ、ナマエが手を叩きながら「きゃー!」と叫ぶ。
 どん、と打ち上がった花火にナマエが夢中になっているあいだ。クロがおれにさり気なくささやいた。

「先越されたわ」
「……クロ」

 クロの視線の先には、打ち上げ花火ではなく花火を見上げるナマエがいた。今日はナマエはよく笑う。久しぶりに三人で遊んだからだろうか。

「ちゃんと、ナマエのこと守ってやれよ」
「……当たり前でしょ。そのために結婚するんだから」

 二年後だけどね、とおれは付け加えた。二年という時間が、こんなに待ち遠しく感じたことはない。

「研磨!クロ!次は線香花火しよ!」
「お!やるか?」

 ナマエがはしゃぎながらおれたちに手を振る。久しぶりに見る、ナマエの満面の笑みだった。


 夏休みの終盤に、ナマエがうちに泊まりにきた。久しぶりにおれの部屋でマリカーをし、家族と夕飯を食べる。途中でナマエの母親もやってきて、おれは挨拶をした。

「いつもお世話になっています」
「研磨くん、いつもナマエのこと、ありがとう」

 ナマエの母親は少しやつれて見えた。まだ、父親はあの家に居座っているらしい。
 おれの母親が夕飯を勧めた。おれたちは五人で賑やかに、食卓を囲んだ。
 おれがお風呂から上がると、部屋には布団が敷いてあった。きっとおれが風呂に入っているあいだに母親が持ってきたのだろう。
 ナマエは布団の上に座ってマリカーをしながら、眉尻を下げて困ったように笑った。

「私もいいのかなって、思ったんだけど……」
「いいから、持ってきたんでしょ」

 気まずい空気が、二人のあいだに流れる。ナマエはマリカーをしつつも体が進行方向に動いていなくて、ゲームに集中せず緊張していることが分かった。。
 マリカーを何戦かしたあと。そろそろ寝よっか、とおれは呟いた。ナマエが布団に潜り込み、おれは電気を消すために立ち上がる。
 ぱちん、と電気を消しておれも布団に入った。

「おやすみ、研磨」
「……おやすみ、ナマエ」

 けれど当然ながら寝付けなかった。時計の針の音が、やけに大きく聞こえた。おれはがばりと起き上がると、ナマエに「寝てる?」と呼びかけた。
 しばらく間が空いてから、ナマエが「ううん」と応えた。
 おれは布団を抜け出して、ナマエの横に体を滑り込ませた。びくり、とナマエが体を揺らす。
 おれはゆっくりとナマエを抱き寄せて、頭頂部に顔を埋めた。

「……けん、ま」

 ナマエが、震える声で呟いた。

「しないから、そういうこと」
「……え?」
「なに、期待してたの」
「そ、そういうわけじゃ……!」

 ナマエが勢いよく顔をあげる。ふたりの顔が近く、吐息がかかりそうな距離だった。

「なにかあっても今のおれじゃ責任取れないから」
「……けん、ま」

「ナマエが高校を卒業するまでは、そういうことしないから」
 おれはナマエの頬に手をそわせると、唇に唇を合わせた。しばらく重ね合わせ、惜しむように離す。

「でも、一緒に寝るくらいはいいでしょ」
「……うん」
「おやすみ、ナマエ」
「……おやすみ、研磨」

 おれはナマエを腕に抱き直した。ナマエの体は温かく、やはり折れそうなほど細かった。しばらくナマエは緊張したように体を強張らせていたけれど、次第に寝息が聞こえるようになってきた。
 おれはそっとナマエの顔にかかっている髪を払った。額に唇を押し付け、おれも眠りについた。


 夏休みも終わると、受験勉強はますます佳境に入った。そのうえおれはこの頃から将来的にプロゲーマーとして稼ぐことも視野に入れていて、日々のプレイは欠かせない。大きな大会も目前に迫り、この大会で名前を残すことができるかが、スカウトに繋がる大きな分かれ目だった。優勝賞金は百万円で、起業資金にもちょうどよかった。
 おれは今日も勉強を終えたあと、ゲーム機のスイッチを入れていた。しばらくプレイし、スマフォが鳴り出したのに気づいて手を止める。
 ナマエからだった。おれは画面の通話ボタンを押した。

「研磨、ごめんね、忙しいときに」
「ううん、ちょうど休憩しようと思ってたから」

 ナマエの声は寂しげだった。最近は、なかなかふたりの時間をつくることができていない。

「今、なにしてるの?」
「ゲーム。大会があるから、それに向けて」
「そっか。すごいね、大会に出るなんて」
「大会に出ること自体は大したことないよ。あとはまあ、名前が残せるかどうかだね」

 ナマエこそなにしてたの、とおれは尋ねた。

「あのね、実はおばあちゃんに習ってアップルパイ作ったの。それで、研磨に食べて欲しくて、今研磨の家に向かってるところ」
「え、もしかして今外?」
「うん。今駅だから、もう少ししたらそっちに着く……」
「駅で待ってて。夜道を歩かないで。おれがそっちに行くから」
「え、研磨、」

 おれはナマエの返事も聞かないまま通話を切った。母親に一声かけ、家を出る。駅は歩いて十分ほどの距離のところにあった。
 駅に辿り着きあたりを見回していると、ナマエの「研磨!」と呼ぶ声が聞こえて振り返った。
 ぱたぱたと足音を立て、ナマエが駆け寄ってくる。手には大きな紙袋があった。

「ごめんね、忙しいときなのに邪魔しちゃって」
「ううん」
「これ……おばあちゃんに習って作ったの。勉強とかゲームとかの合間に、食べて」

 おれは手渡された紙袋を開いた。紙袋の底には、お皿に乗った大きなアップルパイが、ラップに包まれて覗いていた。ふわり、と甘い香が鼻をくすぐる。

「シナモンは控えめで作ってみたから」
「ありがと、ナマエ」

 ナマエが嬉しそうに笑う。おれは左右をきょろきょろと念入りに見て人がいないことを確認すると、ナマエの額に、唇を落とした。

「け、研磨……!」

 ナマエが額を押さえながら、ぶわっと顔を赤くさせる。俺はもう一度「ありがとね、ナマエ」とお礼を言った。
 それからおれらはなかなか二人きりになれない代わりに、夜はたびたびお互いに電話をかけた。ナマエがかけてくるときはいつも、寂しそうな声をしていた。ナマエは時々ぽろぽろと本音を吐いて泣き出し、おれはどうしても会いたいときには電車に飛び乗ったりした。

「……来ちゃった」
「……研磨」

 そういうときは大抵、駅のベンチに腰掛けて時間を過ごした。明日も朝になれば学校で会える。それでも、どうしても二人の時間が欲しかった。話ができるのはほんの数十分だったけれど、そうやって会えただけでも充分だった。
 

 十二月。おれは国内でも有名なプロも出場する大会に出ていた。
 実況者がおれのプレイを解説している。おれは画面に向かって神経を集中させながら、一体一体、敵を撃破していった。エイムの調子がいいことは、最初から感じていた。
 おれは照準を合わせた。敵には気づかれていない。最後にヘッドショットを決め「winner」の文字が表示される。
 会場が一気に沸き立ち「KODZUKEN!!」と誰かが叫んだ。

『高校生ゲーマー、KODZUKEN、最年少で優勝だーー!!』

 おれは実況者の叫び声を聞きながら、ヘッドセットをゆっくりと外した。対戦相手と握手を交わし、促されるまま優勝賞金の額が書かれたパネルを持つ。
 すかさずインタビュアーがおれにマイクを向けた。賞金の使い道は、と聞かれて「将来のために」と答える。
 ステージを降りて控え室に戻るとすぐにスマフォが鳴り出した。ナマエからだった。

「オンラインで見てたよ!すごい研磨、本当に優勝しちゃうなんて!」
「おい研磨、マジで優勝したのかよ!?」

 ナマエの声に続いてクロの声も聞こえる。ナマエとクロは今日、クロの家で大会をウェブ観戦していた。

「うん。まあ、これからだけどね」

 そう、これからだ。おれはやっとスタートラインの一歩手前に立っただけ。おれは二年という長い年月を思った。おれがクロのようにあと一年はやく産まれていれば、ナマエをこんなに待たせることはなかった。
 とはいえ、年齢を嘆いていても仕方ない。今はやるべきことを淡々とこなしていくだけだ。そのひとつが今日、終わった。
 次に電話をかけてきたのはおれの母親だった。

「ナマエちゃんから連絡をもらって知ったの」
「母さん」
「本当にやったわね、研磨」

 母親はおれの賞金の使い道を知っていた。声が涙で潤んでいる。

「……うん、やったよ」
 おれは椅子に深く腰掛けながら、空中を仰いだ。


 結局、ナマエは三月になっても実家に帰ることができなかった。合格発表当日。おれの部屋でナマエとパソコンに向かい、ネットの結果を見る。
 ディスプレイには、合格、と表示されていた。

「研磨……!おめでとう!」

 おれは緊張していたつもりはなかったけれど、気づいたら胸を撫でおろしていた。ナマエと連れ立って家を出て、ナマエの家に向かう。
 ナマエの家には、すでにナマエとおれの母親、そしておれの父親が揃っていた。
 まずはおれの合格を報告する。その場にいた全員がエンドの笑みをこぼし、ナマエの母親が「合格おめでとう、研磨くん」と口を開いた。

「ありがとうございます」
「よく頑張ったね、研磨くん」

 ナマエの母親はすでに瞳を潤ませていた。ゆっくりと、おれに向かって頭を下げる。

「ふたりとも、この一年間頑張っていたと思う。孤爪家のお父さんとお母さんがよいと仰るなら、ナマエをよろしくお願いします」
「……お母さん」

 ナマエが声を震わせた。「ナマエちゃんのお母さんがよいと仰るなら……」とおれの母さんも頭を下げる。
 父さんが、落ち着き払って口を開いた。

「あと一年、頑張りなさい。そのあいだ、ミョウジさんのお嬢さんは、うちが責任を持ってお預かりする」
「……はい」

 おれとナマエは一緒に頭を下げた。やっと――やっとナマエと暮らす準備が、整い始めていた。


 卒業式の日。ナマエはやはり、泣いていた。
 廊下に並んだ卒業生を見送る在校生の列の中、ナマエを見つけてそっと近寄る。

「けん、研磨……」
「ナマエ、泣きすぎ」
「だって、やっぱり私、みんなに置いていかれるんだもん……クロも研磨も、いっつもそう」

 おれは笑いながら頭を撫でた。ナマエの手を引き、誰にも気づかれないよう列を抜け出す。裏庭のまだ緑の葉ばかりの桜の木の下までやってくると、ナマエに向き直った。
 春の木漏れ日が、地面にちらちらと揺れていた。ときおり暖かい風が吹いてきて、ナマエの髪に触れていく。
 卒業式の遠い喧騒が、ここまで聞こえてきていた。

「……けん、ま?」 
「ナマエ、待たせてごめんね」
 ナマエが、ぴたりと涙を止めた。おれはポケットから――婚約指輪を取り出した。
「けん、ま……」

 ナマエが驚きに目を見開く。おれはナマエの右手を取った。ナマエが驚きに目を見開き、おれはゆっくりと、指輪を薬指にはめた。

「研磨、これ」
「婚約指輪。いつかもっとちゃんとしたものを贈るから。……ナマエ、もう一度、言わせて」

 ナマエが、さっきとは別の涙をこぼす。おれはナマエの涙を指先で拭いながら、言った。

「……おれと、来年になったら結婚して欲しい」

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