反対意見
しばらくナマエと抱き合って唇を交わしたあと。おれたちは朝食を食べて身支度をし、家を出た。朝からまた雨が降り続いていたけれど、ナマエの顔は、昨日より明るさを取り戻しているように見えた。
ふたりで傘を差して並んで歩く。おれたちが、バス停へ向かうためナマエの家の前を通りかかったときだった。
突然、ナマエの家から男性が飛び出してきた。その顔には見覚えがあって、すぐに、ナマエの父親だと分かった。
「ナマエ!!」
「おとう、さん。どうしたの……!?」
ナマエの父親はナマエの肩を掴むと、乱暴にゆすった。ナマエが「痛い、」と言うのも気にせず、血走った目で叫び始める。
「ナマエは家族三人で暮らしたいよな!!だよな!?」
「何言ってるの、お父さん……!?」
「ナマエが母さんにそう言って説得してくれたら、また家族三人やりなおせる!!な、頼む、母さんにそう言ってくれ!!」
「お父さん、やだ、離して!!」
「ちょっと」
おれは父親の腕を掴んでいた。冷静なおれの声に、父親の目がおれの方を向く。
「なんだお前」
「嫌がってます、ナマエさんが。離してください」
落ち着き払って淡々と答える。けれど父親は、今度はおれの制服の胸ぐらを掴んだ。
「……なんだテメェ。他人が家族のことに口出すんじゃねえよ」
おれは胸ぐらを掴んでいる手を掴んで、振り払った。
「おれは、ナマエさんの他人じゃありません」
「……は?他人だろうが」
ナマエの父親が嘲るように笑う。おれは襟元を直しながら、ナマエの父親を真っ直ぐに見た。
「おれはナマエさんの婚約者です」
一瞬、父親は呆気に取られたように目を見開いて動きを止めた。おれはもう一度「だから他人ではないです」と宣言した。
「……は、はあ?」
「……研磨、」
「ちょっと智和!!なにしてるの!!」
「お母さん」
父親を追いかけるようにして飛び出して来たのは、ナマエの母親だった。おれと父親の間に割って入り、父親を睨みつける。
そのまま二人は口論にもつれ込んだ。近所の目も考えず、罵り合う。
おれは「行こう、ナマエ」ナマエの手を掴むと、バス停まで早足で歩き始めた。バス停のベンチにナマエを座らせ、おれも隣に腰掛ける。
ナマエの手は、震えていた。おれはナマエの手を取ると、しっかりと握りしめた。
「ごめん、研磨……嫌な思いさせちゃって」
「気にしなくていいから、謝らないで。それより掴まれたところ、大丈夫?」
「うん、もう、大丈夫……」
ナマエの語尾が震える。ぽたぽたとナマエのスカートに、涙の染みができていく。
「……怖かったね」
ナマエが、小さく頷いた。おれはバスが来るまで、ナマエを抱きしめていた。
母親から怒涛のメールが届いたのは、昼のことだった。
懸命は『研磨!!』で、内容を見なくてもなんのことについてなのか、すぐに分かった。
『研磨!!ナマエちゃんママに聞いたけど、ナマエちゃんの婚約者ってどういうことなの!!』
おそらく、今朝のことからナマエの母親に伝わり、そしてうちの母親にも伝わったのだろう。おれは『帰ってからきちんと説明するから』と返信をした。
部活を終えて、ナマエと家に帰る。母親が、慌てふためいたようにリビングから出てくる。
「ナマエちゃん、研磨、どういうことなの」
おれはナマエの家に父親が帰ってきていることを説明した。そして大学生になったら起業を考えていて、ふたりで暮らしていけるほどの収入源があることも。
「母さん」
おれはカバンの中から事業計画の資料を取り出した。この一週間をかけて、作り上げたものだ。
「でも……あなたたち、高校生なのよ、いつ気が変わったりするか」
「おばさん」
ナマエが、口を開いた。
「突然で、本当にごめんなさい。とてもびっくりされていると思います。でも、私たち、本気なんです」
「ナマエちゃん……」
母親はそう呟くと、涙ぐみながら続けた。
「ナマエちゃんの家が、昔から大変なのは知っていたわ……。よく、うちに駆け込んできたもの」
「おばさん……」
「私はナマエちゃんに幸せになってほしい。でもね、高校生でっていうのは……」
「母さん」
おれはナマエの手を握った。ゆっくりと、母さんの目を見て話す。
「おれはナマエを支えたい。そのためにも起業する。起業だけじゃない。他にも色々考えてる」
「研磨……」
「この一年で準備してみせる。受験勉強もする。その姿を見てから、考えてほしい」
「……研磨」
「だから、今すぐ否定したりしないでほしい。ナマエのお母さんにも、これから話をしにいく」
「……本気なのね」
「おれは、ずっと本気だよ」
母親が、ふっと表情を緩めた。そして「……分かった」と呟いた。
「あなたたちが結婚したいというなら、それはあなたたちの自由よ。でもね、私にも母親としての責任がある」
「……おばさん」
「結婚を認めるかどうかは、まだ分からない。でもこの一年、あなたたちの姿を見て、決めさせてちょうだい」
「……母さん」
「お母さんも、ナマエちゃんママに話をするから、今からおうちに行きましょう」
「……おばさん」
母親が、ナマエの顔を見つめる。母親はナマエに微笑みかけた。
「……私も、ナマエちゃんには幸せになってほしいのよ」
「……ありがとう、ございます」
ナマエの家に行くと、やはりすでにナマエの母親が玄関で待っていた。招き入れられ、リビングに入る。
父親の姿はなかった。おれたちは、四人でソファに腰掛けた。
おれはまず、真っ先に頭を下げた。
「お騒がせして、申し訳ありませんでした」
「……研磨くん、どういうことなのか説明して」
「ナマエさんとは、数ヶ月前からお付き合いさせて頂いていました。このたび僕のほうから、ナマエさんにプロポーズさせて頂きました」
「研磨くん、それが、どういう意味なのか分かってるの?」
「はい。僕たちは、結婚したいと考えています」
おれはもう一度、ナマエの母親にあらましを説明した。事業計画の資料を取り出し、ナマエの母親に差し出す。
ナマエの母親は一通り資料に目を通すと、おれたちをじっと見つめた。
「……私はあんまり古い考えの人間じゃないから、ナマエが若く結婚しても、反対しないと思ってた。でもね、娘が高校生で結婚なんて、考えてもみなかった」
研磨くんが本気で言ってくれているのは分かるわ、とナマエの母親が続けた。
「……きっと、ナマエのことを考えての、結婚なんでしょうね」
はい、とおれは短く答えた。
「……ナマエは、研磨くんと結婚したい?」
ナマエに視線が集まる。ナマエは、はっきりと答えた。
「私は、研磨の思いを聞いて、結婚したいと思った」
ナマエが一呼吸置く。そして慎重に言葉を選ぶように続ける。
「研磨は……子どもの頃からずっと、私のそばにいてくれた。研磨は優しくて、泣いているときは、黙って慰めてくれた。研磨は、結婚が不安な私のためにちゃんと気持ちを話してくれた。私は……研磨を信じてる」
「……ナマエ」
ナマエの母親が、ナマエの名を呼ぶ。テーブル越しにそっと手を伸ばし、ナマエの手を握る。
「ナマエには、たくさん悲しい思いをさせた。だから、ナマエには結婚で後悔してほしくない」
「……お母さん」
「私も研磨くんママと同じく、一年間、あなたたちの姿をみせてほしい。試すような真似をしてごめんなさい。でも、ナマエには幸せになってほしい」
おれは、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
そのとき、玄関の扉が乱暴に開かれる音がした。荒々しい足音を立ててリビングに現れたのは、ナマエの父親だった。。
「おれは絶対許さねえからな!!高校生で結婚なんて!!」
「ちょっと、智和、」
「……お父さん」
ナマエの父親の目は朝のときと同じく、血走っていた。まともな人間じゃない、とおれも思う。
けれど――腐ってもこの人はナマエの父親だった。
おれは立ち上がり、仁王立ちする父親に対峙した。
「朝のときは、すみませんでした」
「絶対に娘はお前みたいな男にはやらねえ!!」
おれは奥歯を噛み締めた。ゆっくりと、頭を下げていく。
「ナマエさんと、結婚させてください」
「研磨くん、いいの、この人は父親なんかじゃ……」
「なんだと、テメェ!」
「いい加減にして、智和!!」
ナマエの母親の叫び声が、大きくリビングに響き渡った。ぴたりと誰もが動きを止め、ナマエの母親を見つめていた。
「本当に父親なら、娘の幸せを考えなさいよ……!!」
「なっ……」
「本当に、いい加減にして……!!!」
「……ちっ」
父親が、バツの悪そうな顔をして舌打ちをする。そして来たときと同じように足音を響かせながら「パチンコ行ってくる」と玄関を出ていく。
「……研磨くん」
ナマエの母親が、おれの手を取った。両手で握りしめられる。ナマエの母親の瞳は、涙で潤んでいた。
「……ありがとう」
その日の夜。おれは、仕事から帰ってきた父さんと、ダイニングテーブルを挟んで向かい合っていた。
父さんは目を通していた事業計画書をテーブルに置くと、腕組みをしておれを見据えた。
「父さんは、ナマエちゃんが高校生だから、という理由で反対するわけじゃない」
父さんが、ゆっくりと口を開く。おれは黙って、父さんの話を聞き続けた。
「研磨、お前は賢い。それは父さんと母さんが誇りに思っていることだ。よくこの事業計画書を作ったと思う」
父さんが一呼吸置く。口元を撫でさすってから、もう一度口を開く。
「でもな、お前はまだ社会の厳しさを知らない。当然だ、お前はまだ若いのだから」
「……父さん」
「それに、ナマエちゃんの家の事情もある。ナマエちゃんのお父さんのことは、この先一生、ついて回る。血縁っていうのはそういうもんだ。お前は本当に一生、ナマエちゃんのことを守れると言えるのか?まだ事業もなにも成功していない、大学にすら入学していない、この段階で」
おれは反論しようとし、口を閉じた。情けないことに、何も、言い返せなかった。
おれはテーブルの下で手を握りしめた。
「……最低、二年だ。結婚は二年、待ちなさい」
――二年。それでは、遅すぎる。
おれは顔を上げて父さんを見つめた。
「……じゃあせめて、おれが大学に入学したら、同棲することを許してほしい」
父さんは何かを試すようにじっとおれを見つめた。小さく息を吐き、分かった、と呟く。
「ナマエちゃんの事情もあるだろう。ナマエちゃんのお母さんがいいというなら、父さんも許そう。だがな、大学にも行って、仕事もして、ナマエちゃんのことも守ってなんて、覚悟がいるぞ」
「……分かってる」
おれは唇を噛み締めた。そんなおれを見て父さんは、ふっと笑った。
「研磨は頑固だからなあ」
「……父さん」
「お前ならきっとやれる。同棲は、ミョウジさんとこの大事なお嬢さんを、孤爪家がお預かりするということにしよう。だから、なにかあったら頼りなさい」
父さんがおれに手を伸ばす。がしがし、と頭を撫でられる。
「……結婚なんて言い出すんだから、びっくりした。いつのまに、でかくなったな、研磨」