守るから

 雨がぽつぽつと降り続ける朝だった。見慣れない車が止まっていた翌日の朝、ナマエはいつものようにおれの家の前に立って、傘を差していた。

「おはよ、研磨」
「おはよ、ナマエ」

 普段通り朝の挨拶を交わす。けれどどことなくナマエは元気がなく、ナマエは歩きながら話し始めた。

「お父さんね、しばらくうちで暮らすことになったの」

 おれは耳を疑った。過去のことを知っているから、余計に信じられなかった。

「しばらくって……」
「私もよく分かんないけど、お父さん、経営してた会社が潰れて、奥さんと別れたんだって。お金もないし、いくところもないから、うちに来たみたい」
「……ナマエとおばさんには、もう全然関係ない人なんじゃないの」
「私もそう思う。お父さんだって言ったって一緒に暮らしてたのは三年くらいだもん。三年生のとき帰って来てから、ずーっと音沙汰なかったのに。突然また来るんだから、本当、困っちゃうよね」

 ナマエが、泣きそうな顔で笑う。おれはなんと言ったらいいか分からず、傘の持ち手を握りしめた。

「……ごめんね、こんな話して。でも話せるのは、研磨くらいしかいなくって」
「何言ってんの」

 おれは足を止めた。ナマエも足を止めて、おれを見る。

「ナマエはいつもそうだよね」
「ごめん、研磨……」

 おれははっとした。ナマエを責めたい訳ではなかった。

「ごめん、言いすぎた。……でも、おれはいつでも話を聞くから」
「うん。ありがとう。あー、家に帰るの、やだなあ」

 ナマエが雨空を見上げる。雨は次第に、雨足を強くさせていた。


 事件が起こったのはその日の放課後だった。おれはサーブ練をしていて、ボールを拾い上げようと体育館の床にかがみ込んだときだった。なにやら体育館の外が騒がしい。虎が、おれのそばに慌てた様子でやってきた。

「どうしたの、虎……」
「研磨!ナマエが倒れた!」
「……!?」

 おれはボールを放り投げると体育館を飛び出した。渡り廊下のあたりに、人だかりができている。おれは人だかりをかき分けると、床にしゃがみ込むようにしてぐったりとしているナマエを見つけた。あたりには運んでいたのだろう洗い立てのギブスやタオルが散乱していた。

「ナマエ……!」
「研磨、」
「ナマエちゃん、突然気分が悪くなってしゃがみこんじゃったみたい」

 そばにいたのはナマエの友達だった。ナマエは俯けていた青白い顔を、僅かに持ち上げた。

「ごめん、ただの貧血だから、だいじょう……」
「何言ってんの、大丈夫じゃないでしょ」

 おれはナマエの背中と膝に腕を回した。そのまま横抱きに抱き上げ、保健室へと急ぐ。
 保健室には誰もいなかった。おれは保健室の奥のカーテンを開けて、ベッドの上にナマエを寝かせた。
 ナマエが貧血を起こしたのはこれが初めてではなかった。貧血のときは足を高くして頭に血流がいくようにしたほうがいい。
 おれは手近なクッションを掴むと、ナマエの足が高くなるよう足の下に置いた。
 ナマエが、うっすらと目を開けておれを見た。

「ごめんね、研磨」
「体調が悪いなら、ちゃんと言って。もしかして昨日、あんまり眠れなかった?」
「……うん」

 おれはナマエの頬に触れた。ナマエの顔色は、さっきよりだいぶマシになっていた。

「……昨日、夜遅くまでお父さんとお母さんが話し合っててね。なんだか、眠れなくて……」

 ナマエの目の下には、うっすらと隈ができていた。
 ナマエが、すり、とおれの手に頬を擦り寄せる。

「研磨の手、冷たくて気持ちいい……」
「いいよ、眠るまでこうしておくから。ちょっと眠ったほうがいい」
「……研磨」
「……ん?」
「……ありがとう」

 それから数分も経たずして、ナマエから穏やかな寝息が聞こえてくる。おれはそっと手を離すと、保健室を後にした。先生に報告するため職員室へ向かいながら歩き、考える。
 どうしたら、ナマエの笑顔を守れる。
 ナマエの笑顔を守るために、おれになにができる。
 

 気づいたら、時計の針は十一時を回っていた。帰ってからずっとパソコンと睨み合っていたから、かれこれ三時間は経過しているだろうか。
 おれは椅子に座ったままぐっと伸びをした。目頭を揉み、大きく息を吐く。
 ナマエの笑顔を守るためにおれにできること。
 おれはそれを考え続けた。そしてたどり着いた答えが実行可能かどうか確かめるべく、この一週間、ずっとパソコンに齧りついて検索欄にキーワードを叩き込み続けた。
 ふと、ナマエの青白い顔が脳裏に浮かぶ。子どものとき、泣いているナマエに何にもできなかった自分の、不甲斐なさも。
 そのとき、スマフォが鳴り出した。画面を確認し、通話に出る。

「ナマエ、どうしたの」
「……なんとなく、電話したくなっちゃって」

 ナマエの声に覇気がない。何かあったのだと察するのは容易だった。
「なにか、あったんでしょ」

 数秒、無言の間が続く。聞こえ出したのは、ナマエの泣く声だった。

「……私、お父さんのことが解決するまでおばあちゃんちに行くことになった」
「どうして。家を出るべきなのは父親の方でしょ」
「どうしてもお父さん、お金もないし、住む家もないんだって。だからしばらくうちに居候するみたい。どれくらいかかるかも分からないし、お母さんが、あなたはしばらくおばあちゃんちにいなさいって」

 あまりの理不尽さに、おれは手のひらを握りしめていた。出ていくのは父親であってナマエではなく、そんなの、少しも筋が通らない。
 おれは立ち上がりながら言っていた。

「今から少し会える?」
「……うん」
「家の前で待ってて、すぐ行くから」

 おれは家を飛び出すと、ナマエの家まで走った。すぐにナマエの家は見えて来て、門扉のところに、ナマエが所在無げに立っていた。

「ナマエ」

 おれは軽く息を切らせながらナマエに近づいた。ナマエを両腕で強く抱きしめる。


「研磨、どうしよう、私、」

 ナマエはパニックに陥っていた。目じりから涙が零れ落ちてはナマエの頬を濡らしていく。

「私、どうしたらいいんだろう、」

 おれはナマエを抱く腕に力を入れた。ナマエが顔を覆って泣き始める。 
 腕の中にある、小さなナマエの体。おれの太陽みたいな女の子。ナマエがその手で、何度おれを温かいところへ連れ出してくれただろうか。

「ナマエ、よく聞いて」
「……けん、ま」

 ナマエが涙を拭きながら顔を上げる。涙の雫が、街頭にきらめいた。
 おれは大きく息を吸み、そして吐き出した。

「おれと、結婚してほしい」

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