「……犬?」

 四月になって新入生たちが入ってくると、学校がにわかに活気づく。とはいえおれは人間関係に対して興味がないから、変わったと感じることは朝の待ち合わせにクロがいなくなったことだった。クロは東京の大学に無事合格し、いまは家を出て一人暮らしをしている。
 今日も、ナマエがおれの家の前で遅いおれを待っていた。

「おはよ」
「おはよー、研磨」

 そっと、おれからナマエの手を繋ぐ。きゅ、と握りしめると、ナマエも同じように握り返してくれる。ナマエが目元だけで、えへへ、と照れたように笑った。
 ほとんど葉桜になりかけた桜から、最後の花びらが舞い落ちてくる。歩道には桜の花びらが散っていた。

「バレー部、今年は入部希望が多そうだね。春高もあったし」
「部員が多くなると、ナマエは忙しくなるんじゃない?」
「そうだね。でも、そっちのほうがやりがいがあるっていうか、楽しいっていうか」

 でもそのまえに部員募集のポスター作らなきゃ、とナマエが拳を握る。

「私ね、春高にみんなで行って、確信したの。やっぱり私、頑張ってる人を応援すること、好きだなって」

 はらはらと桜がナマエに舞い落ちてくる。バス停にたどり着き、おれたちは足を止めた。

「……そういう職業に就きたいなって、思った」

 ナマエがぽつりと呟く。バスが、遠くの方からやってくる。

「……ナマエならできるよ、きっと」

 ナマエがぱっと笑顔になった。眩しい、春の木漏れ日のように温かい笑顔。

「ありがと、研磨」


 とはいえ、ナマエのマネージャー業の危機はさっそくやってくることになった。部活の練習を終えて帰宅し、家でゲームをしているときのことだった。スマフォが鳴り、ディスプレイを見る。件名は泣いている顔の絵文字だった。

『研磨どうしよう。ポスターが全然仕上がらなくて』

 そのときまでおれは忘れていた。ナマエが、びっくりするくらい絵がへたくそだということに。
 おれが返信した数十分後、玄関のチャイムが鳴って階段を降りる。そこには、困り顔のナマエがポスターと画材を抱えて立っていた。

「研磨〜〜、助けて……」
「……そういえばナマエ、絵は壊滅的だったね」
「どうしよう、全然うまくいなくて……」

 おれの部屋にあがり、机の上に書きかけのポスターを広げる。それを眺めておれは「……犬?」とナマエの描こうとしていたであろうものを当てようと頑張った。

「…………猫」
「…………」

 猫に、見えなくもない。確かにうちは音駒だし、ポスターに描くなら猫だろう。おれはなんとかフォローを入れようと頭を巡らせた。けれど、言葉が何も思いつかない。

「……猫に見えなくもないよ」
「研磨!!なんのフォローにもなってないから!」
「提出はいつなの?」

 おれはさりげなく話題をすり替えた。ナマエが半泣きの顔で答える。

「明日まで……」
「…………」

 バレー部の概要と練習場所などの記載事項はすでに書けている。けれどそれ以外のところはかろうじて猫と判別できなくもないイラスト以外、空白だった。

「研磨、お願い、助けて!研磨ゲーム好きじゃん!!」
「ゲーム好きとイラストが描けるかどうかは関係ないと思うけど……」

 とはいえナマエに頼まれたら断れない。おれは椅子に座るとシャーペンを取り出した。

「なんかいい感じに、猫みたいなイラスト散りばめればいいんじゃないの」

 とりあえず、ナマエの猫(のように見える)イラストの横に、猫を書いてみた。ナマエが出来上がったおれの猫を覗き込む。すると、ナマエが肩を小刻みに揺らしはじめた。
ナマエは目じりに浮かんだ涙を指で拭いながら、必死で笑いをこらえていた。

「ふ、ふふ、ごめん研磨、笑っちゃって。でも、私とあんまり変わらなくない……?」

 ナマエのよりは上手でしょ、とおれはポスターに視線を戻した。紙をもってもう一度見比べ「ナマエのよりマシだと思うけど」とぱっと顔を上げ、固まった。
 すぐそこに、ナマエの笑っている顔があった。すぐ近くで目が合い、見つめ合う。
 ナマエが、不意に笑みをひっこめた。

「……けん、ま」

 ナマエが、震える声でおれの名前を呼ぶ。おれはすっと、ナマエの顔に手を添えた。親指で頬を撫で、じっとおれが映っているナマエの瞳を覗き込む。

「……ナマエ」

 ごく自然に顔が近づいていった。唇の先がかすめるような軽いキスをして離れ、こつん、と額を合わせる。
 ナマエは相変わらず、真っ赤な顔をしていた。

「……けん、ま」
「……なに?」
「……ううん。研磨、真っ赤だよ」
「……ナマエもね」

 額を離し、ナマエが両手で頬を挟む。おれはとりあえず、誤魔化すようにシャーペンを持ち直した。
 それからポスターが仕上がったのは、夜の十一時を回ったころだった。とりあえずイラストはおれが描いて、ナマエが色鉛筆で着色をした。猫は一匹一匹が部員を擬人化させたもので、まあまあなんとか、人に見せられるものになった、と思う。
 ナマエを家まで送るために外に出る。わずかな距離だけれど手を繋ぎ、暗い夜道を歩く。
 ナマエの家に差し掛かったころ、見慣れない車が一台、家の前に止まっているのが見えた。こんな時間に来客だろうかと思い、ナマエのほうをふと見る。

「――ナマエ?」

 ナマエは驚いているような、絶望しているような顔をしていた。その表情に車が誰のものなのか、嫌な予感がする。
 ナマエが、怯えた声で呟いた。

「……おとう、さん……?」


 ナマエの家の事情を知ったのは、ナマエが小学校三年生のときだった。ナマエの家に父親がいないことは知っていたし、クロの家も母親がいなかったから、おれらは特に気にすることなく「そういうものなんだ」とナマエの家のことを思っていた。だから、ナマエが泣きながら裸足でおれの家に駆け込んできたとき、子どもだったおれは、ようやく事態の重大さを知ることになった。
 その日はクロと、ナマエを遊びに誘いにナマエの家まで行った。けれどチャイムを鳴らして出てきたのは全く見知らぬ男性で、おれもクロも緊張に固まった。
 男性は不機嫌な声で「ナマエは今日遊べないから」と言うとドアを乱暴に閉めた。

「……あれ、だれ?」

 クロが呟き、おれは無言のままドアを見つめていた。
 おれたちは家に戻って、しばらくゲームをしていた。なんだか外へ出て遊ぶ気分にはなれなかった。ゲームにもそろそろ飽き、クロがコントローラーを放り出したときだった。突然うちの玄関扉が勢いよく開かれる音がして、おれとクロは、顔を見合わせた。

「……何の音?」

 クロが首を傾げる。次に聞こえてきたのは、親がばたばたと廊下を走っていく足音と、ナマエの泣いている声だった。
 おれらは慌てて階段を駆け下りた。玄関では裸足のまま泣きじゃくっているナマエを、おれの母親が必死に宥めているところだった。

「どうしたの、ナマエちゃん」
「お父さんが突然帰ってきて、お母さんと、ずっと喧嘩してるの」
「まあ……それは怖かったわね」

 よしよし、とおれの母親がナマエを抱き寄せる。ナマエは母親にしがみついたまま、しばらく泣き続けていた。
 それからというもの、ナマエが泣きながらクロの家やおれの家に駆けこんでくることがたびたびあった。そのたびに母親はナマエを抱き寄せては慰めてやり、おれは影から、その様子をじっと見つめていた。
 あるとき、母親がいないときにナマエがおれの家に駆けこんできたことがあった。やはりナマエは裸足で、大粒の涙を次から次へと流していた。

「……ナマエ」
「お父さん、やっと帰ってきたのに、」

 ナマエは涙を必死に拭きながら口を開いた。おれはどうしたらいいのか、ナマエのそばでおろおろするだけだった。

「お父さんとお母さん、いつも喧嘩してるの。どうして……?私が、悪い子だから……?私がいい子にしていないから、いつも喧嘩しちゃうのかなあ……」

 わああん、とナマエが声を上げる。おれは母親がしているように、ナマエをぎゅっと抱きしめた。服の袖で涙と鼻水を拭く。

「ナマエ、大丈夫だよ」

 ナマエの頭をよしよしと撫でる。ナマエが「研磨ぁ……」とおれの名前を呼んだ。子ども心ながら、ナマエが悪いわけではないと分かっていた。だからおれは、なんとかしてそれをナマエに伝えたかった。

「ナマエが悪いわけじゃ、ないよ」

ひっくひっく、とナマエがしゃくりあげる。おれはもう一度、ナマエの体を抱きしめた。

「絶対にナマエは悪くないよ」

 さらに詳しいナマエの家の事情を知った――というより理解できるようになったのは、おれが中学生になったときだった。ナマエの父親はナマエが幼いころに家を出てそれきりだったけれど、新しい奥さんとうまくいかず、ナマエの家に転がり込むように戻ってきたらしい。当然ながらナマエの母親と喧嘩が絶えず、すぐに父親は、また新しい奥さんを作って家を出ていったようだった。
 父親が出て行ってからは、ナマエがおれの家に飛び込んでくるようなことはなくなった。けれど三年生の後半ごろ、ナマエはぱったりと笑わなくなった時期があった。そのときおれは、ナマエになにもできなかった。ただ遊びに誘えばナマエは家から出てきたから、クロと一緒に、河川敷でバレーをしたりした。


 ナマエの手は、震えていた。おれはナマエの手を握りしめた。

「おれの家に、戻る?」

 けれどナマエは首を横に振った。無理に作り笑いをし、おれを見る。

「きっと、なにか用事があって来ただけだと思うから、大丈夫」
「……ナマエ」

 ナマエがおれの手を離して玄関扉に向かう。ドアに手をかけるナマエの顔色は、表情をそぎ落としたかのように暗かった。
 おれはナマエの背中に呼び掛けていた。

「おれがいるから。なにかあったら連絡して。すぐ行くから」
「研磨……ありがとう」

 ナマエは本当に微かに笑った。泣いているような笑顔だった。ナマエがドアの向こうに消えていくと、おれはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
 
 



 



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