おれの太陽 前半

 クロが引っ越してきてから、数週間目の土曜日だった。おれはいつものようにひとりでゲームをしていて、階下から母親に「研磨」と呼ばれて仕方なくゲームのコントローラーを置いた。「母さん、なに」と言いながら階段を降りていき、そしてぎょっとした。
 玄関には見知らぬ女性が立っていて、おれを見つけると、目を丸くさせて微笑んだ。

「こんにちは、研磨くん」
「あ……」
「研磨、近所に引っ越してきたミョウジさん。今日はご挨拶に来てくださったのよ」

 おれは母親の後ろに隠れるようにしてその人を見た。心臓が、ばくばくと音を立てていた。母親にご挨拶しなさい、と言われ、なんとかぺこりと頭を下げる。

「……はじめまして、研磨です」

 こういうのが苦手だった。親同士はすでに会話に戻っているし、おれに用はない。さっさと戻ってゲームしよう、と思ったとき。
突然、か細い声がおれの名を呼んだ。

「……けんま、くん?」
「……え?」

 おれは思わずきょろきょろとして声の出どころを探した。ミョウジさんの後ろに、小さな人影があった。ミョウジさんの足にしがみついて、おれを窺うように見ている。
 母親に促されてもじもじと姿を現したのは、白いワンピースを着ている女の子だった。

「……わたし、ナマエ」
「お……おれ、けんま」

 おれがそう名乗ると、ナマエは恥ずかしそうに笑いながらおれにそっと手を伸ばした。おれはきょとんとして、その手を見つめた。

「……えっ」

 その手が握手だと気づいたのは、それから数秒経ってからだった。握手だよね、これ、と思いつつ、おれはおずおずと、手のひらを差し出した。
 ぎゅ、とナマエがおれの手を握る。白くて、柔らかい手のひらだった。
 ナマエが、にっこりと笑った。

「研磨くんは、何年生?」
「……二年生」
「私、一年生。よろしくね、研磨くん」

 大人同士の話を聞くに、どうもこのあいだ引っ越してきたクロの親とミョウジさんは知り合い同士で、クロとナマエは友達同士のようだった。その上、クロの家とナマエの家は似ていて、ナマエの家にはミョウジさん一人しかいないらしい。うちの母親が「あらあらまあ、それじゃあいつでも預けにきてくださいよ」と笑いながら話すのが聞こえ、おれは母親を見上げた。これだから大人は、歳が近ければ仲良くなれると思っているのだ。大体、クロともまだ数回しか遊んでいない。しかも無言でずっとゲームをしているだけだ。
 しかしそんなおれの無言の抵抗も虚しく、大人たちはたんたんと約束事を決めてしまう。おれは少しだけ、いやだいぶナマエと遊ぶのが気まずかった。第一に、女の子が好きそうなゲームを持っていないし、話が合うとも思えない。それならあの何にも喋らないクロとゲームしている方が、よっぽどマシだった。
 ミョウジさんがナマエの手を引き、何度も頭を下げながら帰っていく。おれはこっそりと、憂鬱のため息をついた。
 どれだけ憂鬱でも、その日は来てしまう。ミョウジさんとナマエが挨拶にきた次の週の土曜日。クロとナマエが、午後からうちの家に遊びに来た。
 ふたりを部屋に招き入れる。ナマエは所在無げにあたりを見回したあと、クロと一緒にベッドの上に座った。
 おれは一応、ナマエにも「バーテャファイター4やる……?」と聞いてみた。ナマエは初めてバーテャファイターという単語を初めて聞いたようで、分からないというふうに首を傾げた。
 仕方なくおれは、クロとバーテャファイターを始めた。他にどうしたらいいか分からなかったし、ナマエは大人しくおれたちがコントローラーをガチャガチャさせているのを見ていた。
 一時間、二時間と時間が過ぎていく。おれはクロにも、ナマエにも「飽きないのだろうか」という疑問を抱き始めていた。 
 ゲームを一時中断させながら、おれはクロに聞いた。

「……いっつもこれやってるけど、なんかやりたいやつないの」

 するとクロは、瞳を輝かせた。ナマエに「ちょっと待ってて」と言うと、部屋を出ていく。
 しばらくして戻ってきたクロの手にあったのは、バレーボールだった。

「研磨、ナマエ、バレーしよう」
「いいよ、クロ!」

 それまでじっとしていたナマエが勢いよくベッドから立ち上がった。そしておれに、ぱっと手を差し伸べた。

「研磨くん、バレーボール、やらない?」

 ゲームでって意味だったのに、とおれは思った。けれどふたりはバレーをやる気満々のようで、断れない。
 おれはしぶしぶとナマエの手を握った。手を繋ぎながら近所の河川敷へと走る。
 河川敷に着くと「いくぞ!ナマエ!」とクロがまずナマエにボールを放った。ナマエはアンダーでボールを返そうとしたけれど、変な方向へ飛んでいってしまった。

「ナマエ、おしい!あとちょっと!」

 今度はおれの番だった。ナマエの見様見真似で、ボールをアンダーで返してみる。けれどやはりおれのボールも、ナマエと同じく見当違いのところへと飛んでいった。

「おしいおしい、手はこう!ここに当てるとちゃんと飛ぶから!」

 おれはボールを拾いながら「この人でっかい声でるんだな」と思った。それくらいゲームをしているときとは別人のように、クロは生き生きとしていた。
 おれはクロがしたようにボールを投げた。クロもアンダーで返そうとするが、やはりちゃんと返せない。

「ちゃんと飛んでないじゃん」

 三人でボールを追いかける。けれどボールは、水たまりにべっちゃあと突っ込んでいったあとだった。泥だらけになったボールを見て、おれら三人は笑い出した。

「あーあ、ボール泥だらけ!」

 そう言いながら、ナマエが指先でボールを拾い上げる。とりあえず川の水でボールの表面を洗って乾かし、おれたちはバレーボールを再開した。
 おれは次第に(一度お腹にボールがキマッたけれど)こつを掴んできた。それなりに投げてくれた方向にボールを返せるようになってきたけれど、ナマエは経験者のはずなのに何度やってもボールをうまく返せなかった。それでもナマエは何度も何度もボールを返すことに果敢に挑戦し「行くよ、研磨くん」と初心者のおれに優しくボールを投げ返してくれた。
 夕方になり、そろそろ帰ろうとクロが言い出した。おれは河川敷の階段を上がりながら、ふと服を捲り上げられた自分の腕を見て、絶句した。おれの腕には、びっしりと赤い点々が広がっていた。見たこともないそれに、おれは声を上げた。

「うわあ!?なにこのブツブツ……!?」

 ナマエとクロがおれの腕を覗き込む。そしてなんてことのないように言った。

「ああ、ただの内出血だよ、すぐ消えるし続けてれば出なくなるよ」

 「大丈夫、大丈夫」とナマエが笑う。ナイシュッケツという恐ろしめのワードに「ただの」「大丈夫、大丈夫」と言ったクロとナマエを、おれはちょっと尊敬してしまったのだった。

「バレー、できる人探せば。シロウトとやってもつまんないでしょ」

 おれはふとそう呟いた。ナマエはおれと同じくらいの実力だとしても、クロはやはり上手く、今日は一日おれとナマエに教えることばかりしていた。
 するとクロは、思い切り首を左右に振った。

「つまんなくない、覚えるの早い!!頭いい!!」
「そ、そう……?」

 おれはあまりそうは思わなかったけれど、クロが勢いよく言うものだから、おれはなんとなく頷いた。
 家に向かって歩きだす。しばらく歩いていると、クロが話しはじめた。

「前はナマエとチーム入ってたけど、引っ越しちゃったから」

 だから他にできるやつがいないというわけか。おれはクロに提案してみた。

「ふーん、こっちでも探せばあるんじゃない?」

 しかしクロもナマエも無言だった。きっと、新しい環境に未だに慣れないのだろう。それはそれで分かるなあ、とおれは思った。新しいトコ、やだよね、わかる、と。
 しばらく家までの道を歩いていたら、クロが突然、おれの方を見た。

「……なあ土曜日空いてる……!?」

 おれはちょっと気圧されながら答えた。

「!?……うん、空いてるけど」
「ナマエも空いてるよな?な?」
「うん、空いてるよ」
「じゃあ、おれと地域バレーのチーム、見学しに行かない……?おれ、ナマエと研磨となら行ける気がするんだ……!!」

 クロのそれは、お願いというより懇願に近かった。おれは空いていると答えてしまったから断るわけにもいかず「じゃあ、行くよ」とクロに言っていた。
 次の週の土曜日。おれの家にナマエとクロが集合したあと、おれたちは地域の体育館へと向かった。扉越しに、バレーボールが床に弾む音が響いてくる。
 クロは緊張した面持ちで、体育館の扉に手をかけた。

「……いいか、行くぞ。いいか、行くぞ……!!」
「行けば」

 クロが扉を開ける。そこには、たくさんの人がバレーを練習している光景が広がっていた。クロとナマエが、声には出さないけれど瞳をきらきらとさせているのが分かった。

「やあ、見学の子かい?」

 指導者らしき人が、おれたちに声をかける。おれもナマエもクロも、きゅっと緊張する。

「どう?やっていかない?」
「……やります!」

 行くぞナマエ、とクロがわくわくしながらリュックを下ろす。おれはバレーをするつもりじゃなかったし、そんなふたりに、とりあえずついていった。
 クロが投げられたボールをアンダーでうまく返す。それだけのことでクロは、飛びあがらんばかりに喜んでいた。一方ナマエは、やはり上手く返せない。クロはナマエに駆け寄ると「あとちょっとだな!」と励ましていた。
 おれはふとコートの反対側を見た。あちら側ではおれらよりもう少し年上の子どもたちが、ネットに向かって飛んで速いボールを打っている。

「……あっちの方がかっこいいけどあれはやんないの」

 クロが一瞬、目を輝かせる。けれどクロは、すぐに沈んだような顔をした。

「あれはスパイク!かっこいいだろ!でも背が大きくないと打てないから……」

 そのとき、しわがれた声が後ろから聞こえた。

「じゃあネットを下げればいい。最初こそはまずは『できるよろこび』じゃないかい」
「……え?」

 おれたちの背後からやって来たおじいさんはそう言うと、呆気に取られているおれたちの横をすり抜けていった。えらい人なのか、指導者の人たちから「お久しぶりです、いらしてたんですか〜!」と声がかかる。
 すると、おれたちに最初に声をかけてくれた指導者の人が、クロとナマエに「ネットを下げてやってみるかい」と声をかけてくれた。
 クロは満面の笑みを浮かべた。

「はい!!やります!!」
「おお、いい返事だ。じゃあさっそくネットを下げよう」

 けれど、クロのスパイクはなかなか決まらなかった。横でナマエが、両手を握りしめて固唾を飲んで見守っていた。何本目かのとき、ようやくクロはスパイクを打った、というより、てのひらに当てた。ナマエはぴょんと飛び上がると、クロとハイタッチをした。

「やったね、クロ!」
「ナマエもやってみろよ!」
「うん!」

 正直に言えば、ナマエがスパイクを決められるとは思えなかった。ナマエはバレーを好きそうだったけれど、大してうまくないのは素人のおれの目でも分かった。というより、さらにはっきり言えば、ナマエは運動音痴の部類だと思う。
 それでもナマエは、スパイクを決めようと諦めなかった。必死になって何度もネットへ向かって飛び、ボールに手を伸ばす。けれど手はボールをかすめるどころか、全く届いていない。クロが大きな声で「頑張れ、ナマエ!」と応援している。おれはじっと、ナマエを見つめた。
 もう百本はやったんじゃないかというころ。ナマエの手が、ボールをかすめた。向こうのコートにボールが落ちていく。

「やったな!!ナマエ!!」

 それはスパイクとは呼べないものだった。けれどクロは立ち上がってナマエと力強くハイタッチをした。まるで自分のことのように、クロはナマエのスパイクを喜んでいた。
 ナマエが、汗だくになっておれのところへ帰ってくる。そして、おれにぱっと手を差し出した。

「研磨くんも、やろうよ!」
「いや、おれは……」

 断ろうとしてそこまで言って、おれは口を噤んだ。ナマエの額には、きらきらと汗の粒が光っていた。肩で息をしながら、まっすぐに、おれを丸い瞳で見つめている。
 きっとここでおれが断れば、ナマエはさっと手を引っ込めて「そっか」と笑うだろう。

「…………」
「ね、研磨くん。やってみない?」

 けれどおれは――そうはしなかった。
 おれはナマエに手を引かれながら、コートまでやって来た。ナマエたちがしていたように、助走をつけて飛んでみる。もちろん、ボールに手はかすりもしない。
 何回かそれを繰り返したあと。もういいよ、別にそこまでバレーがしたいわけじゃないし、と諦めようとしたときだった。体育座りをしていたナマエがいきなり立ち上がって声を張り上げた。

「研磨くん、あとちょっとだよ!」

 ナマエがコートの端から、笑顔で小さな手を大きく振り、おれを必死に応援していた。まるで自分のことのように。そしておれができると信じきっているように。
 おれはネットに向き直った。助走をつけ、再び飛ぶ。

「……!!」

 おれの手は空中でボールを捉えた。クロほど勢いはないものの、向こうのコートへ打つ。
 ばうん、とボールが弾んだ。おれは自分の手を、思わず見つめた。

「研磨くん、すごい!」
「やったな研磨!」

 クロとナマエが、おれに駆け寄ってくる。おれはふたりと、ハイタッチをした。
 練習を終え、ナマエとクロと三人で並んで歩きながら帰る帰り道。
 おれは、どうしてスパイクを諦めなかったのだろう、と考えていた。クロみたいにスパイクに憧れていたわけでもないし、体を動かすのもそんなに好きじゃない。どちらかというと、ちょっとめんどくさい気持ちもあった。
 けれどナマエが、あんな笑顔で応援していたから。おれのことを、できると信じきっていたから。
 多分それだけだ。多分それだけで、おれは、珍しく必死になってボールを打とうとした。

「今日の研磨くん、すごかったね!」
「おれたち三人とも、スパイク決められたな!!」

 クロとナマエが、興奮したように言う。おれはそんな二人に、頷いて応えた。
 ナマエがクロの言った冗談にけらけらと笑う。その笑顔を見ながらおれは、ナマエを、眩しく思っていた。

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