私の男
「三途」という苗字は偽名らしい。全くもって彼らしい、と私は思う。彼はいつもつかみどころがなく、ふらっと現れては消えて、それこそ、春の霞のような存在だった。ここまでくると、春千夜、という名さえ本名かどうかあやしく、私は彼のこと何も知らないのだという気分になる。いや、本当に存在しているのかどうかさえ、不確かなのかもしれない。
ただそれでも私は、彼のその「春千夜」という名を美しいと思った。普段ならついていかないだろう「あれ」に――ナンパ――についていったのは、全部、彼の名の美しさだ。
「春の千の夜」
私はときどきひとりきりのときに、彼の名をそう呼んでみたことがある。春の千の夜。春の、千の夜。なんとあの男の顔に見合った名前だろう。彼は頑なに「春に千に夜」と言うが、私からしたら「春の千の夜」だ。たとえ偽名だとしても、春千夜、という名の美しさだけで十分だと思った。こんな美しい名前が存在していると知ることができただけで、彼と出会った甲斐が会ったというものだった。
その日も、けぶるような雨の降る夜だった。大体あの男は前もって連絡するようなことはしない。私が家にいて当然だと思っているのか、それとも、ただの気まぐれに従っているのか。どちらにせよ、どれだけ餌をやってもいつかない野良犬のように彼は現れる。
「ご飯食べた?」
私は大抵アパートのドアが開かれると共にそう聞く。春千夜は下手したら煙と薬が主な食事のときがあって、不健康を絵に描いたような男だった。「そういうこと」をする前に、まずはたらふく何か食べなくっちゃ。それが私のポリシーだった。
春千夜が、ぼそっと答えた。いつもの答えだ。
「食ってない」
「じゃ、食べましょ」
春千夜にはたくさんご飯をあげる。春千夜はその細い体のどこに入るのだというくらいがつがつ食べる。私はその食いっぷりを見ていると、なんだか「そういうこと」をしているときのことを思い出してしまう。食欲と性欲は似ている、と思う。
それから、お湯をたっぷり沸かしたお風呂に春千夜を入れる。そして煙草と硝煙と血の匂いを落としてからようやく、私たちはベッドにもつれ込むのだ。
私は春千夜に抱かれながら――いつもなぜだか、春千夜を抱いている気分になる。それはこの男の本性が、寂しいことにあるのだと思う。
それは、春千夜が偽名を名乗ってまで捨てたかったもの。春千夜の名さえ、本当の名なのかあやしい理由。ファミリー・ネームという呪縛。
寂しさと性欲は比例する。私がする前に春千夜にお腹いっぱい食べさせるのは、空腹の春千夜が少し怖いからだ。多分、空腹のままますれば春千夜に本当に食べられてしまう。それくらい、春千夜の性欲は底なしに深くて、寂しい。
この男は飢えている。だからたくさん食べさせなくちゃ。
「春千夜……」
「んだよ」
「ううん」
部屋の外からは雨の音が相変わらず響いていた。私は母親がするように、春千夜の額に唇を落とした。それからもう一度「春千夜」と呼んだ。春千夜は意味が分からないとでもいうふうに、けれどそれでも、どこか嬉しそうに怪訝な顔をする。可愛い、私の春千夜。私の男。
朝になると、春千夜はまだ明るくなりきらないうちに出ていく。私は人がいないことをいいことに、シーツを体に巻き付けてベランダに出ると、春千夜が真っ黒い車に乗り込むまでを見送る。
お腹も、睡眠も、性欲も満たされた自分の男がまた仕事に出ていくところを見守る朝というのは、いつも気持ちがいい。たとえどこかで別の女を抱いていたとしても、私がこの男をつやつやになるまで満たしてやったのだ、という自負が湧いてくる。
「いってらっしゃい、春千夜」
そう呟くと、一瞬だけ春千夜がこっちを見たような気がした。