人の抱きしめ方を知る春千夜の話

※本編より少し前の話

 その日も、春千夜は深夜に帰宅することになった。六月といえど、真夜中の風は冷たい。
 もう朝だと言ってもいいような午前三時過ぎ。今朝家を出た時とは違うスーツを身に着けた春千夜は、静まり返ったマンションの駐車場に車を停めた。指先まで広がる疲労感に、一瞬だけ車から降りることさえ億劫に思う。ようやく一人になれた私用車の中、深くため息を吐いてから気合を入れ直し、ドアを開けた。
 打ちっぱなしのコンクリートに響く自分の足音を聞きながらスカレーターに乗り込み、今朝がまるで遠い出来事のような、やっとたどり着いた気さえする玄関のドアを開ける。その途端、深夜にいつ帰宅するか分からない春千夜のために、いつもナマエがつけたままにしている柔らかい玄関の光が、ぱっと春千夜を出迎えた。
 深夜に帰宅したとき静かにドアを閉めるようになったのは、春千夜がナマエと一緒に暮らし始めてから初めて身に着いた癖だった。夜中に玄関の音で叩き起こされたからといって、ナマエは文句を言うような女ではなかったが、いつも眠そうな目をこすりながら奥から出てくるナマエを見ているうちに、自然とそうするようになった。ジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めながらリビングへ向かう。テーブルの上には、いつものようにラップにかかった夕飯が、ぽつんと春千夜の帰宅を待っていた。不規則極まりない生活を送る人間に配慮しつくされたそのメニューは、暮らし始めた当初、塩気が全く足りないと感じていたが、それはむしろ自分の舌の問題だったのだと今なら分かっている。
 反社の事務所のドアノブなど、誰かれ構わず乱暴に閉めるので、常にねじがゆるい。それを思えば、我が家のドアはどれだけ住人から丁重に扱われているだろうか。春千夜は脱いだジャケットをソファに放ると、音を立てないよう細心の注意を払って寝室のドアノブを回した。しんと暗い部屋に、廊下の明かりが一筋差し込む。
 寝室に入ると特に、我が家の匂い―というより、ナマエの匂いがする、と春千夜は思う。

「……はる、ちゃん」

 開けられたドアの隙間から差し込む光に気づいたのだろう。布団の中から、ナマエが重たそうな瞼を瞬かせた。

「……起こしたか」
「ううん。おかえり、なさい」

 春千夜はいつも、この瞬間に戸惑う。つい一時間前まで、人を嬲り殺して分泌されたアドレナリンで、運転できないほど興奮に手が震えていたのに。それなのに、ナマエの顔を見ると、いつも体から力が抜けていく。終わった、一日が、と思う。
 布団の隙間から春千夜を見上げているナマエが、嬉しそうに笑う。春千夜は口を開いては閉じ、戸惑いに対する不快感に小さく舌打ちをしたあと、未だに言い慣れない言葉を呟いた。

「……ただいま」

春千夜は誤魔化すようにして、ナマエに布団をかけ直した。


 梅雨をすっ飛ばして夏になったかのように暑い最近、気づいたら羽毛布団は夏布団に変わっていた。以前までは年がら年中ソファとジャケットで眠っていたし、子どものころに家を飛び出してからは、当然のごとく万年床で過ごしていた春千夜にとっては、こうして季節ごとに布団が変わる心地よさは最初、寝心地が悪いくらいだった。
 ベッドに入って、しばらくしてからのことだった。うつらうつらとしていた春千夜は、さっきから腕の中の温かさがずっと震え続けていることに気づいた。

「……ナマエ?」

 抱きしめている腕を離し、体を引きはがす。覆いかぶさるようにしてナマエの顔を覗き込むと、春千夜は衝撃に動きを止めた。
 深く閉じられたナマエの瞼から、いくつもの涙が伝っていた。眉間に皺をよせ、僅かに開いた唇は浅い息を荒く繰り返していた。うなされているのは明らかだった。

「おい、ナマエ起きろ」

 覆いかぶさったまま、ナマエの肩を掴んで揺する。それでもナマエは春千夜を振り払うように身動ぎをしただけで、目を覚ます気配がなかった。春千夜はナマエの手首を掴むと、強引に布団に押し付けた。
 暗闇の中でも分かるほど蒼白な顔面に汗の粒を浮かばせ、涙の筋が頬を伝い枕まで落ちている。その姿は春千夜につい半年前の出来事を思い出させ、どくり、と心臓が嫌な音を立てた。
 その日も、深夜に帰宅していた。今日と違うのは、前後不覚になるまでクスリをキめた状態での帰宅だった。そのころはそんなことはしょっちゅうで、錯乱して玄関で暴れる春千夜を、ナマエが引きずりながらベッドへ運ぶのが常になっていた。そして春千夜が正気に戻る朝方まで、ナマエはいつまでも春千夜の背中を擦ったり、手を握ったり、春千夜の意味をなしていないほとんど叫び声のような言葉に、「うん」「うん」と相槌を打ち続けていた。
 「もう、クスリをするのはやめてほしい」――と、何度もナマエに泣かれた。春千夜の胸に縋ってわんわんと泣き「死んじゃったらどうするの」と繰り返すナマエに、春千夜はよく他人のためにそんなに泣けるな、と全く別の生き物を眺めるかのように思っていた。本心としては、そんなナマエをややうざったく思っていたこともあったし、やめようと思ってやめれる品物ではないというのが、春千夜の言い訳だった。じゃあオマエは素面でオレとおんなじ仕事ができんのか、と、無茶なことを言ったこともある。
 その日正気に戻ったのは、朝が開けてしばらくしての、昼過ぎのことだった。春千夜は全身の血管を溶かした鉛が駆け巡っているかのような気だるさと、妙な関節の痛みに顔を顰めつつ、ベッドから起き上がった。隣にナマエがいないことが妙に気がかりで(離脱症状で働かない頭でもそのことは考えることができた)重い足を引きずるようにしてリビングへと向かう。
 そしてそこに広がっている光景に呼吸を止めた。
キッチンに、ナマエが意識を失って倒れていた―沢山の白い錠剤を、そばにまき散らしながら。

「ナマエ!?」

 動きを止めていた脳みそが、事態を理解する前に春千夜を突き動かしていた。ぐったりと横たわるナマエを抱き上げると、だらんとした手首が、床に伸びた。

「おい、ナマエ、なにしてんだよ」

 どろりと濁った焦点の合わない瞳が、呼びかけに何とか応じて春千夜を見つめる。ナマエの唇の端から、つうとよだれが伝い落ちた。その表情には、春千夜にも見覚えがあった。

「――まさかオマエ、」

 床に散らばる錠剤の大半は市販薬のもので、空っぽになったいくつものアルミシートに記載された商品名は、春千夜も知っている頭痛薬だった。頭痛薬を大量摂取しただけで、薬物中毒のような恍惚とした表情をするわけがない。
 春千夜はリビングまで駆けだすと、ソファに放られていたジャケットを手に取った。ポケットを漁るが、やはりそこにあるはずのものがなく、指先が急激に冷えて震えだす。

「ッナマエ!! テメェ何錠飲んだ!?」

 叫んだ途端、ジャケットの隙間に挟まっていたのか、かさりと音を立てて見慣れたアルミシートが床に落ちた。奪い取るように拾い上げてみれば、そこには一錠も残されておらず、春千夜は一瞬だけ視点が暗転した。だくだくだくだく、と心臓が激しく血液を送り出す音が耳の奥で木霊したあと、弾かれたかのようにナマエのそばへ駆け寄る。

「テメェは死にてぇのか!!」

 叫びながら、春千夜はナマエの真っ白い指先を握った。スマフォで闇医者に「今すぐ女を連れて行くからどうにかしろ」「死なせたらテメェを殺す」と喚きちらして一方的に電話を切り、ナマエを抱え上げる。

「――は、る」

 闇医者のもとへ制限速度を五十キロオーバーしながら向かっている最中、ナマエが春千夜のナマエを微かに呼んだ。   
 春千夜はフロントガラスを睨みつけたまま、ナマエの手を鷲掴んだ。乱暴に車線変更を繰り返すが、スモーク張りの高級外車にクラクションを鳴らすような車はいない。

「絶対にオマエは死なせない」

 春千夜の手より、はるかに小さな手だった。死んだ小動物のように力の入らないその手に、春千夜は吐き気が止まらなかった。


 そのあと闇医者の処置により、ナマエは一命をとりとめた。ナマエの目が覚めるまで一睡もせずそばにいようとする春千夜に、珍しく灰谷兄弟が「オマエが倒れたら元も子もねえだろ」と常識的な言葉を掛けてきた。いつもだったら「うるせェわ」と一蹴するものの、春千夜はゆらりベッドわきの椅子から立ち上がると、無言のまま帰宅した。
 三日後、闇医者からようやくナマエが目を覚ましたと連絡が入ったときも、春千夜は制限速度を優に超えて車を飛ばし、病室に飛び込んだ。

「はるちゃん」

 そこには、まだ青白い顔をしたナマエが、辛そうにベッドへ腰掛けていた。

「ナマエ!!」

 それでも春千夜は、ナマエを掻き抱きたい衝動を止められなかった。元から細いが、さらに痩せたような体を腕の中に閉じ込める。見慣れない薄緑の入院着の下、確かに温かいナマエの体温に、涙腺が不意に緩んでいく。

「っテメエ、なんであんなことした!?」

 ここが一応、闇医者だとはいえ病院であることも忘れ春千夜は叫んだ。ぎゅうぎゅうとナマエの体を締め付け、声を震わせながら叫ぶ春千夜の背中を、ナマエの手がそっと触れて擦る。
 体調が悪いとき、背中を擦られると妙に落ち着く気持ちになることを教えてくれたのも、ナマエのこの手だった。

「はるちゃん」
「なんであんな馬鹿なことした、そんなに死にてえのか、そんなにオレのことが」
「春ちゃん、私は別に、死にたかったわけでも、春ちゃんのことが嫌いなわけでもないよ。ごめんね、心配かけて」
「じゃあなんで、あんなことした!?」

 叫び続けるぐしゃぐしゃの春千夜の頭を、ナマエが撫でつける。この三日間、ろくに睡眠も食事もとらず生活していたから、髪型も手付かずだった。
 憤る春千夜を余所に、ナマエが、ゆっくりと口を開いた。

「ねえ、春ちゃん――私が薬飲んでぐったりして、心配した?」
「心配したに、決まってんだろうが」
「死んじゃったらどうしようって、思った?」
「……当たり前だろうが」
「春ちゃん、それはね、私もおんなじだよ」
「……は?」

 意味が分からず、春千夜はナマエから体を離すと華奢な肩を掴んだ。どういうことだよ、と問い詰める。
 血の気のない顔をしたナマエは、悲しいのか嬉しいのか怒っているのか、分からないようなそんな曖昧な微笑みを浮かべていた。 

「クスリをする春ちゃんに、どうして私があんなに心配してたか、分かった?」
「……は、」
「たくさん心配かけて、ごめんね。でも、毎晩毎晩クスリ飲んで帰ってくる春ちゃんに、私がどんな気持ちでいたか、ちょっとは分かってくれた?」
「オマエ、そんなことのにために、」
「……うん。こんなことして、春ちゃんに迷惑かけて、本当にごめんなさい」

 これで別れるって言われても、仕方ないと思ってるから、とナマエがうつむきながら呟いた。ナマエの言葉に理解が追い付かず、放心していた春千夜は、もう一度ナマエを抱きしめた。柄にもなく体ががたがたと震えていた。それは怒りのせいではなく、春千夜には見当もつかない、何かだった。

「オマエ、どうしてんなことができんだよ」

 子どものようにナマエにしがみつく春千夜に、ナマエが困ったように小さく声を立てて笑った。

「愛しているから。春ちゃんのためなら、死ねるから」


 春千夜はナマエの手首を掴んでいた手を離すと、涙で冷えた頬に両手で触れた。ナマエは相変わらず、顔を歪めてうなされていた。

「――おい、起きろ、ナマエ、ナマエ」

 ぱちぱちと軽く頬を叩く。雫に濡れそぼったナマエの長いまつ毛が揺れ、はっとしたように見開かれると、すぐに瞳は春千夜をとらえた。
 春千夜を見つけたナマエの瞳が、じわじわとまた潤んでいく。ひっ、とナマエの細い喉から嗚咽が上がった。

「はる、ちゃん」
「オマエ、うなされてんぞ」
「こわい、ゆめ、みた」

 ぽろぽろぽろぽろ、と春千夜を見つめたまま目じりから涙が溢れる。春千夜は泣くなよ、とだけ呟くと、指先で涙を拭った。こういうとき、とっさにどんな言葉をかけたらいいか分からない自分を、ひそかに呪う。

「夢だろ。んなに泣く事ねえだろうが」

 春千夜が子どものとき、夜中に怖い夢で目を覚ましても、慰めてくれる大人なんていなかった。奥歯を噛み締めて涙を堪え、暗闇の中じっと天井を睨みつけて耐えることしかできなかった。ナマエには言ったことはないが、小六になるまで夜尿の癖も直らなかった。汚した布団を洗う親代わりの祖母に、すでにおねしょシートを卒業していた千壽といつも比べられ、ぶつぶつと嫌味を言われていた。寂しいとすら思わなかった。それが春千夜にとっては当然のことだったからだ。
 ナマエが未だに涙を零しながら、また「はる、はるちゃん」と震える声で春千夜の名前を呼ぶ。その姿に、春千夜の胸に痛みに似た何か得体のしれないものがこみ上げてくる。どこか苦しさすら感じるその感情に、春千夜は顔を顰めた。どうする、どうすればいい、と息を詰めながら思い出す。
 ナマエと付き合い始めたころ、一度だけ、同じように悪夢にうなされていた春千夜を、ナマエが揺すり起こしたことがあった。汗びっしょりになりながら目を覚ました春千夜に、ナマエはコップに水を汲み、落ち着くまで背中を擦り、春千夜が再び眠りにつくまで、どうでもいいようなことばかり話し続けていた。
 春千夜はうっとうしくまとわりついてくる長い襟足を後ろに振り払うと、ナマエの腕を引いて引き寄せた。後頭部を掴んで胸に押し付け、強く抱きしめる。
 ナマエのつむじにむかって、春千夜は声を絞り出す。

「もう、泣くな、頼むから」
「はる、はるちゃん」
「どんだけ怖い夢見たんだよ」
 
 それでも泣き止まず、嗚咽とともに跳ねるナマエの薄い背中を、ぽん、ぽんとぎこちなく叩く。できるだけゆっくりと。ナマエが、クスリを飲んでぐちゃぐちゃになって帰ってきた自分に、してくれたときのように。いつまでそうしていたらいいか分からず、春千夜はナマエの呼吸が落ち着くまで、とにかく背中を擦り続けた。
 ナマエが、涙でぐずぐずになった声で言った。

「春、ちゃんが、死んじゃう夢だった」
「――は?」
「春ちゃんが死んじゃって、帰ってこなくなる夢、だった。探しても探してもどこにもいなくて、こわかった、何度も電話かけたのに、繋がらなくて、」
「バカかオマエは――ただの夢だろうが」

 春千夜はナマエの手を、思わず掴んで握っていた。

「どっちかっていうと、オマエの方が死にかけたろ」


 そのうち、気づいたらナマエから穏やかな寝息が聞こえてきて、春千夜もようやく脱力することができた。カーテンの隙間からは朝の光が漏れ始めていて、あと数時間でまた家を出なければならない。
 胸元のシャツがぐっしょりと濡れていた。それでも春千夜は気にせず、くたりと安心しきって春千夜に体を預けるナマエの、肩まで布団をかけ直して瞼を閉じる。
 人の抱きしめ方など、分からないと思っていた。性欲処理で女を抱くことはあっても、愛情などという口にしただけで鳥肌が立ちそうな単語の意味を、自分なんかが理解することは一生かかってもないだろうと、そう思っていた。
 何度も胸にこみ上げてくる、痛くて苦しくてどうにかなりそうな気持が、あいしている、だとは知っていたが、まだ春千夜は口にすることができなかった。

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