「明日も、明後日も」

 「ナマエちゃん、改めて誕生日おめでと」

 いつものように、勤めているスナックの閉店作業をしているときだった。七月の今日は私の誕生日で、働きだしてからまだ間もない私のことを気にいってくれているお客さんから、何杯もお酒を飲ませてもらった夜だった。
 ゴミ箱から顔を上げると、暗い店内の中、私の実母より年齢がいっているママがにっこりと笑っていた。

「ありがとうございます」
「ナマエちゃんのおかげでちょっと売り上げが上がってんのよ」
「え、本当ですか」
「うん。今日はほんとにお疲れさま。気を付けて帰んなよ」
「はい、お先に失礼します」

 ママが煙草の灰を落としながら、片づけはいいからと手を左右に振る。私はママに軽く会釈をし、ロッカーの小さなバックを手に取ると裏口から外へ出た。時刻は当然ながら、深夜を回っている。夏の夜の清々しい匂いが、煙草の煙に塗れていた体を洗い流していく。
 道路に面しているお店の前に出ると、見慣れた姿が気だるそうに夜空を見上げていた。島の街灯一つない町の中、咥え煙草の光がまるで蛍か星のように光っている。

「春ちゃん、迎えに来てくれたんだ」

 名前を呼びながらそばによると、春ちゃんは煙を吐きながら私の方を見た。暗いから顔色はよく分からないけれど、そんなに体調は悪くなさそうで安心する。
 私に気づいた春ちゃんが、すっと目を細めた。

「ン。お疲れサン」
「体調、大丈夫?」
「夜の方が体調いいわ」
「そっか。まあ、ずっと夜型の生活してたもんね」
「だろーな」

 春ちゃんは煙草を最後に大きく吸って携帯灰皿に捨てると、私の右手を絡めとった。ゆるく繋がれた指先に力を込めると、同じくらいの力加減で握り返してくれる。

「……帰んぞ」
「うん」

 ふたりで海側にある古いアパートまでの道のりを歩く。観光シーズンの今、ここは閑散期と比べたら夜でもにぎわうことのある『繁華街』と呼ばれるエリアだけれど、さすがの深夜にもなると怖いくらい静まり返っている。ひび割れた歩道を踏みしめる足音だけが、やけに大きく聞こえていた。

「オマエ、いっつもこんな暗ぇ中帰ってんのか」

 春ちゃんがあたりをきょろきょろとしながら呟いた。ずっとピンクだった春ちゃんの髪は久しぶりに黒染めされていて、そのわざとらしい黒色は暗闇に紛れることなく浮いているようだった。

「暗いけど、東京とはわけが違うから。それに歩いてすぐそこだし」
「どこに行ったって暗いところは危ねえだろ。つかこんな暗ぇとこ東京にはむしろないっつーか」
「でも、そもそも人がいないようなところだから。みんな顔見知りみたいなとこだよ」
「今度は人がいなくて危ねえだろ」
「……どしたの、春ちゃん。今日はやけに心配性だね」

前を向いたまま、何を言っても危ないと言って食い下がる春ちゃんに、私は首を傾げて足を止めた。春ちゃんは手を繋いだまま私を振り返り、暗闇の中でも分かるくらい視線を彷徨わせると、ごまかすように後ろ頭を掻いた。

「……オマエ、今日誕生日だろ」
「……え、春ちゃん、覚えてたの」

すっかり誕生日どころではないと思っていた私は、春ちゃんの口からその単語が出てきて目を見張った。普段から体調が悪い春ちゃんは今日も例外ではなく、意識があるのだかないのだか分からないような状態の春ちゃんに「行ってきます」と言ってレジ打ちのバイトに出ていた。そんなしんどそうな春ちゃんに誕生日のことを話題にするつもりも、ましてやプレゼントを要求するつもりも本当に全くなく、日中も特に気にすることなく過ごしていた。

「んなに驚かなくてもいいだろ。毎年祝ってんだし。ていうかオマエもちゃんと言えよ」
「……でも、今年は、」
「今年もクソもねえだろ」
「そんなこと言ったって、」

それでも言い淀む私に、春ちゃんは「あー、もう」と舌打ちをした。しばらく迷ったような顔をしたあと、上着のポケットの中に手を突っ込んで、ほら、と私に差し出す。
暗闇の中に、突然鮮やかな黄色が現れた。

「……たん、ぽぽ」

 春ちゃんの手には、揺れるたんぽぽが数本握られていた。きっと春ちゃん摘んだのだろうそれらは、長さが不ぞろいながらも花束を形づくり、そこだけぱっと明るくなったかのように花開いていた。

「悪い、忘れてたわけじゃねえんだけど。朝目が覚めたとき今が何月かすら分かってたなかったというか、夕方に目え覚めて、ニュースで今日オマエの誕生日だったことにやっと気づいた」

 大げさなくらい言葉を失ったままたんぽぽを見つめる私に、春ちゃんは「そんな大したもんじゃねえだろ」と苦々し気に言う。

「この島、花屋行っても仏壇用の花しかねえんだよ」
「それで、用意してくれたの」
「……用意したっつーレベルのもでもねえだろ」

 私は春ちゃんの手から、その小さな花束をそっと受け取った。春ちゃんはなおも、バツが悪そうな顔をしていた。

「……こんなガキみてえなもんしか用意してやれなくて悪かった」

 ううん、と私はうつむきながら呟いた。今までに春ちゃんから、びっくりするような金額のものをプレゼントしてもらったことは、何度もある。私が普通にOLとして働いていたら買えなかったようなそれらのプレゼントが、嬉しくなかったわけではない。それでも、このリボンもセロファンもない手のひらに収まってしまう花束のプレゼントに、こみ上げてくる涙をおさえることができなかった。

「はる、ちゃん」
「……泣くようなもんじゃねえだろ」
「ううん、嬉しい、大事にするから」

ぼろぼろと大粒の涙を零す私に、春ちゃんが辛そうに眉間の皺を深くする。私は涙を手の甲で拭うと、たんぽぽの束を胸元で握りしめた。
 春ちゃんが、無言のまま私を引き寄せる。私は花束を右手に握ったまま、東京にいたころよりは随分痩せてしまった春ちゃんの背中を抱きしめた。どくんどくんと、春ちゃんの鼓動が胸を通して伝わってくる。そのまま春ちゃんの体温を感じながら目を閉じると、波が砂浜に寄せては返す微かな音が、こんなところまで届いていることに初めて気づいた。

「……本当は今年、指輪をやるつもりだった」

 鼓膜を撫でる波音に耳を傾けていると、春ちゃんが、絞り出すような声でぽつんと呟いた。「それってどういうこと、」と戸惑いながら聞き返す私に、春ちゃんが「そういうことに決まってんだろ」と低く囁く。

「だって春ちゃん、結婚なんて興味ないと思ってたから」
「最初は興味なんかなかった。こんな仕事してて『ちゃんとする』なんて、バカみてえだと思ってた」

 春ちゃんが一瞬、押し黙る。そして重たく息を吐くと、涙を堪えるような掠れる声で言った。

「……こんなもんしかやれなくて、本当に、悪かった」

 私は夏なのに体温が低い春ちゃんの体を、もう一度強く抱きしめた。私は春ちゃんがいてくれたらなんにもいらない。本当にそう思っているのに、きっと春ちゃんは、納得しないだろう。
もし私の心を取り出して春ちゃんに見せられるなら、今すぐそうしたかった。それでもそうすることはどうやってもできないから、精一杯気持ちを込めて、春ちゃんに伝える。

「ううん、春ちゃん。私、春ちゃんがいてくれたらなんにもいらない」

 春ちゃんが、呆れたように小さく笑った。

「……オマエは、そればっかり言ってんな」
「……だめ、だった?」

 恐る恐る聞き返すと、春ちゃんは痛いくらいに私を抱きしめた。そして額を肩口にこすりつけるようにして、首を横にふった。

「……あいしてる」

濡れた瞼で夜空を見上げると、私たちの上に、優しいまなざしを降り注ぐ月がかかっていた。私は、私たちをどこまでも追いかけてきては見下ろすお月様に祈った。
たくさんの罪を犯してきたこの人を、許してほしいなどとは言いません。私も一緒に罰を受けるから、だから、この人ともう少しだけいさせてください。明日この人と過ごせたら、私は何も、いりません。

 帰宅すると、春ちゃんはお風呂にも入らず私をベッドに引きずり込んだ。窓の外が、水底のように青い光を放って明るみ始めても、春ちゃんは私を離さなかった。
 昼頃、私は春ちゃんの腕の中で目覚めると、慌てて起き上がってベッドの下を探した。脱ぎ散らかした服の間に、昨夜より少ししおれてしまったたんぽぽの花束を見つけ、慌ててシャツを羽織ってキッチンへと向かう。
 水切りをし、戸棚の中からジャムの空き瓶を見つけると水を注いだ。昼の光の中、たんぽぽは傾きながら咲いていた。
 起きだした春ちゃんが、私を後ろから抱きしめた。

「たんぽぽ、枯れちゃうかも」

 春ちゃんは私の跳ねる後ろ髪を撫でつけると、肩にこてんと顎を置いた。


「……明日も、明後日も、摘んできてやるわ」

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