梵天が一斉検挙され、春千夜とこの世の果てまで逃げる話3

 今日でやめますとスナックのママに告げたのは、それから五日後のことだった。ママはわが子のように私のことを心配してくれたけれど、もうお金を稼いでもほとんど意味がなかったし、レジ打ちのシフトも入れていなかった。ママには、素直に妊娠したことを伝えた。
 いつまでも決断できない私に、春ちゃんは急かすようなことは何一つしなかった。何にも言わないまま私の横にいてくれて、時折そっとお腹に触れた。
 最後の勤務を終えて帰宅する。うちのエアコンはほとんど壊れていて、夜中に長時間稼働させることはできず、眠るときはいつも窓を開けて眠っていた。だから真夜中に家に帰ると、部屋には暗闇と潮の香りが満ちていた。
 シャワーを浴びて春ちゃんの横に体を滑り込ませる。タオルケットのやわらかい生地が、つわりで辛い体を優しく包み込んでくれた。
 眠ってから、どれくらいたっただろうか。
 夢と現実の境をうとうととしていたとき、隣で眠っている春ちゃんが身動ぎする気配を感じて、私はうっすらと瞼を開けた。

「はる、ちゃん」
「……ナマエ」

 無防備に横たわる私の上に、情事のときのように春ちゃんが覆いかぶさる。頬を撫でる優しいてのひらに顔をすり寄せると、春ちゃんの指先が、私の首に掛かった。

「……ぐ、あ」

 最初は触れるだけだったその手のひらが、今は私の気道をゆっくりと押しつぶし、呼吸を妨げていた。暗闇の中で春ちゃんの目だけが冷たく光り、私を見下ろしていた。

「は、る、」

 私がそう名前を呼んだ途端、すぐに春ちゃんの両手から力が抜けた。急に開放された気管がひいひいと音を立て、飛び込んできた酸素に肺が驚いていた。

「……悪ィ、ナマエ」
「はる、ちゃん」

 落ち着かない呼吸を整えるため閉じていた瞼を開け、春ちゃんを見上げた。そこには、見たこともないくらい泣きそうな顔をしている春ちゃんがいた。

「悪ィ、ナマエ」
「春ちゃん、いいよ」

 春ちゃんが私の胸に顔をうずめ、脱力したように体重をかけてのしかかってくる。私は春ちゃんの真っ黒な頭を両腕で抱きしめた。

「春ちゃんだったら、何されてもいいよ」
「……するわけねえだろうが」

 春ちゃんが絞り出すような声で呟いた。その声があまりにも苦しそうで、私は春ちゃんの頭を撫でる手を止めた。

「……オレがオマエを殺すわけねえだろ」

 そのときだった。窓の外から、数台の車が止まるブレーキ音がした。たんたんたん、と塩害で腐食した階段を素早く上がってくる複数の足音が部屋まで聞こえ、私たちははっと体を起こした。
 鍵も、チェーンもかけてある。けれどだからどうしたというのだろう。アパートを包囲されてしまえば、意味がないのと一緒だった。

「春ちゃん」
「いいな、全部オレに脅されてしたことだと言え」
「私だけ逃げるわけにはいかないよ、」

 ドアが乱暴に叩かれはじめ、私は視線を玄関へ向けた。「警察だ」「ここを開けろ」という声がしきりに発せられ、頭も体もフリーズする。
 春ちゃんは無言のまま、ベッドの下の引き出しに隠していたナイフを取り出した。暗闇の中できらめいた刃先の光に、私が「そんなものでどうするの」と言いかけたとき、春ちゃんが突然乱暴に私をベッドから引きずり下ろした。
 後ろから春ちゃんの腕が首に回ってきて羽交い絞めにされ、つ、と首筋に冷たいものが当たる。それがナイフの切っ先だと気づいたとき、春ちゃんが叫んだ。

「テメェら入ってくんじゃねえ! んなことしてみろ、このオンナを殺す!」

 何が起こっているのか分からなかった。ドアの向こうからどよめきが広がり「落ち着け、なにもしないからその人に危害を加えるんじゃない」という春ちゃんを宥める声がした。

「テメェに指図される覚えはねえよ。このオンナ殺されたくなかったら、車と金用意してひっこんでろ」
「分かった、君の言うとおりにする。だから落ち着け。その人を殺しても何にもならないぞ」
「あと一時間で用意しろ。できなかったらこいつの命はねえ」

 微かなざわめきを残しつつ、ドアの向こうが静まり返る。足音が遠ざかり、再び波音が部屋に戻ってきたとき、春ちゃんが耳元で私の名前を優しく呼んだ。

「ナマエ」
「はる、ちゃん。なんで」
「次にサツが交渉に来たとき、オマエを放してやる。そしたら全部オレに脅されてしたことだと言え」
「春ちゃん」
「孕まされた挙句、殺されかけたと証言しろ。オマエの首に絞められた跡がある。それで十分だろ」
「春ちゃん、無理だよ。そんなこと言えないよ。だって私、春ちゃんにそんなことされたの一度もないのに」
「オマエが否定してもオレがそう言う。オマエはガキ産んで明るいところで生きろ。オレの道連れになんかなるな」
「はるちゃん」
「幸せになれ、もうバカな男につかまんなよ」
「はる、ちゃん」
「ガキは女でも男でもいい。オレのことは言うな」
「……はるちゃんは、捕まったら、どうなるの」

 春ちゃんは一瞬言葉に詰まったあと、自嘲するように口の端を吊り上げた。

「オレが無期懲役なわけねえだろ」
「春ちゃん、私も、やっぱり一緒に捕まるから、だから、」
「……なぁ、ナマエ」

 春ちゃんは私の言葉を遮ると、私の後頭部に唇を落とした。そして再びナイフを突きつけ直す。

「死んでもあいしてる」

 私は春ちゃんを抱きしめたかった。それでもナイフの先端は、私が数センチ動いただけでも皮膚を切り裂く距離にあって、私は振り向くことすらできなかった。身動ぎをしようとする私に、春ちゃんが「情けねえ顔してっから見んな」と笑った。

「死ぬことなんざ今さら怖くねえよ。でも、オマエを巻き込んだことを後悔したまま死にたくねえ。オマエが産んだガキを手放さなきゃなんねえのも耐えらんねえ」
「春ちゃん、私、」
「なぁ……頼むから」
「……はるちゃん」

 春ちゃんが私を深く抱きしめ直す。そして鼻をすする音とともにもう一度「頼む」と消え入りそうな声で呟いた。
 その声に、ここが終着駅だ、と思った。

「春ちゃん、私は、幸せだった」

 春ちゃんはきっと知らない。春ちゃんが「逃げんぞ」と私を選んでくれたとき、どれだけ私が幸せだったか。春ちゃんは私を東京に置いてきぼりにせず、どこまでもどこまでも一緒に連れて行ってくれた。どこに行っても、当たり前のように私の手を掴んでくれた。
 春ちゃんのナイフを握る手に、私は自分の手を重ねた。私は春ちゃんの手が好きだった。不器用だけれどどうにかして私を大事にしようとする、春ちゃんのこの震える手が。

「私もずっと春ちゃんのこと愛してる。どこにいても、なにをしてても」

 ドアが、控えめにノックされた。続いて「少し話をしないか」という、穏やかな男性の声も。こういう立てこもり事件の時、まずは犯人を落ち着かせるため世間話から入るということは、このあいだのニュースでも報道されていた。そうか、これって、立てこもり事件なんだ、と私は他人事のように思った。
 春ちゃんが、子どもに言い聞かせるような声で囁いた。

「言うとおりにできんな」

 私は声に出せないまま、静かに頷いた。
 春ちゃんが、私からナイフを下ろす。そしてゆっくりと腕を離すと、私の背中を、とん、と押した。


「ほら、行け」

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