梵天が一斉検挙され、春千夜とこの世の果てまで逃げる話2

 ホテルを転々とする日々より、この島にやってきてからのほうが落ち着いて生活できているのは、毎晩の眠りの深さからしても明らかだった。昼も夜も働く私に職場の人は想像以上に優しくしてくれて、その理由は最近になってから知ったのだけれど―こうして訳ありっぽい人間は、年に何人かやってきては知らぬ間に去っていくのだそうだ。
 仕事がない日は、春ちゃんと一日中一緒にいた。私たちはじりじりと残りの時間が減っていくのを感じながらも、そんな風にして逃亡生活を続けていた。
 最初は、いつ警察が家を訪ねてくるか分からないストレスによって胃が悲鳴を上げているのだと思った。夕飯を食べると吐き気がしたり、ご飯が炊ける匂いを嗅ぐとむっとしてトイレに駆け込んだりするのもそのせいだろう、と。病院に行かなかったのは時間がなかったこともあるし、お金がもったいのもあった。けれどふと今月も生理が来ていないことに気づき、ひそかに試した妊娠検査薬でその線がはっきりと表れたとき、もうそんなことを言っていられる場合ではなくなってしまった。
 内診室で椅子に腰かけ、もやもやとしたエコー画面を見つめる。下半身を付きだしたカーテンの向こうから「これが胎嚢ね。赤ちゃんの袋」と声をかけられて、私は何も、言えなかった。
 貰ったエコー写真は明細書とともに財布の奥へと仕舞いこんだ。春ちゃんに、言わなくてはいけないことは分かっていた。けれどどう打ち明けたらいいか分からず、私は重い足取りのままスーパーの買い物袋片手 に帰宅した。
 私が帰ると、ベッドに寄りかかってテレビを見ていた春ちゃんが「おかえり」と言って立ち上がる。

「今夕飯作るね」
「手伝うわ」

 ふたりで小さなキッチンに立ってカレーを作った。夕飯を食べた後はふたりで手を繋いで海辺を散歩した。そのときも胃のあたりが不快感を訴えていたけれど、私は生唾を飲み込んで、必死に吐き気を堪えていた。


 本格的なつわりが始まったのは、それから一週間後のことだった。
 私が真夜中に起き上がりトイレで嘔吐していると、気づいた春ちゃんがずっと背中を擦ってくれていた。私はからっぽな胃をひっくり返し続け、そうして真っ白な便器に黄色い液体を吐きながら、春ちゃんの灰皿から灰と吸殻が消えていたことに、そのときようやく気が付いていた。
 トイレットペーパーで口を拭うと、春ちゃんが私を硬い床から抱き上げた。そのままベッドまで運ばれ、向かい合うように座らせられる。

「オマエ、できただろ」

 ばれないわけがなかった。毎日ことあるごとにトイレへ駆け込み嘔吐する姿を、この狭い1DKの部屋では隠しようがなかった。そのうえいつもの重い生理痛も、生理前の情緒不安定な時期も来ないのだから、私が春ちゃんに告げる必要すらなかった。

「ごめん、病院に行った」
「……んなことで謝んなよ。行かねえわけにはいかないだろうが」
「でも」
「で、医者はなんつってた」
「妊娠、八週目だって」
「性別は」
「まだ分かんないよ。ちっちゃい袋みたいなのだった」
「写真、あるか」
「……ある」

 私はベッドの下に置いていたかばんから財布を取り出し、しまいこんでいたエコー写真を取り出した。相変わらずその写真はぼんやりとしていて、私は先生に教えてもらったときのように「赤ちゃんの袋」である黒い塊を指さした。
 春ちゃんはしばらく、じっとその写真を見つめていた。私が来週また病院に行くと言うと、春ちゃんが無言で私を強く抱きしめた。

「ナマエ、今すぐ警察に行け。オレに脅されて連れまわされてたって言え。無理やりやられて、妊娠したって言えば証拠として十分だろ」
「……なん、で」
「腹ん中のガキのためにも、オマエまで道連れになる必要はねえよ。オマエはシャバで生きて、ガキを育てりゃいい」
「じゃあ春ちゃんは、どうなるの」

 春ちゃんは何にも言わなかった。私が警察に駆け込んだとして、春ちゃんの居場所を知らないではすまないだろう。

「春ちゃん」

 私は春ちゃんにしがみついた。肩口に顔を埋め、ぼろぼろと涙を零した。
 そんなことはできない、と強く思う。けれど子どものことを考えれば、それが最善の方法なのは明白だった。
 泣きじゃくる私の頭をゆっくりと撫でながら、春ちゃんが口を開いた。

「オマエを選んだことを、後悔はしてねえよ。でもオマエをこんなところにまで連れてきたのは、後悔してる」
「私は、なんにも、後悔してないよ」
「好きなオンナは、幸せにしてやりてぇんだよ」

 私の幸せは春ちゃんのそばにいることだよ、と私はほとんど叫ぶようにして言っていた。春ちゃんの肩に爪を立て、絶対に離れないと抱き着く。

「なァ、ナマエ」
「いやだ、どこにもいかない、」
「死んでもあいしてる」
「はる、ちゃん」

 春ちゃんが私から体を離した。ぐっしょりと濡れた私の頬を手のひらで拭い、包み込む。
 そんな春ちゃんの目を見ていたら、また涙が止まらなくなった。私は嗚咽を上げながら、首を横に振り続けた。警察に行くしかないと分かっていても、心が悲鳴を上げていた。
 駄々をこねるように泣いている私に、春ちゃんが額と額をこつんと合わせた。


「幸せにしてやれなくて、悪かった」

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