梵天が一斉検挙され、春千夜とこの世の果てまで逃げる話1

 梵天が一斉検挙されたときの朝、私はリビングでコーヒーを飲みながらニュースを見ていた。春ちゃんを仕事に見送ってからの数時間は大体こうしていて、脱衣所から洗濯機が回っているごろごろいう音が微かに聞こえていた。速報で画面が急遽中継に切り替わったのと、春ちゃんから電話がかかってきたのはほぼ同時だった。私は雑居ビルの中に次々と捜査員らしき人物たちが乗り込んでいく映像を見ながら、バッグの中に財布とスマフォをつっこみ、部屋着のままマンションを飛び出した。
 一階に降りたとき、春ちゃんの車はすぐには分からなかった。そこにあったのはいつもの高級外車ではなく、ごく一般的な軽自動車だったからだ。春ちゃんは運転席から助手席のドアを乱暴に開け放つと、私の腕を掴んで中に引きずりこんだ。車の中は、安っぽい芳香剤の匂いがした。

「逃げんぞ」
「春ちゃん」

 春ちゃんの顔はつい数時間前家から見送ったときよりずっとやつれていた。見たこともないほど焦燥し切った春ちゃんの顔を見て、私は何もかも現実なのだとそのときようやく思い知った。
 春ちゃんが私を強引に腕の中へ引き寄せた。

「オレと別れてェなら今しかねえからな」

 私を車の中に引きずり込んだのは春ちゃんなのに、と私は春ちゃんのYシャツに顔を押し付けながら苦笑した。春ちゃんの背中に手を回し、ひしと抱きしめ返す。

「私も一緒に行く」

 私はきっとこの人のために死ぬ、という予感は春ちゃんと出会ったときからずっとしていた。その予感は時折そよ風のように吹いてきては、私の前髪を揺らし続けていた。
 それなのに、春ちゃんは私の答えを聞いた瞬間泣きそうな顔をした。
 適当に履いてきたサンダルがかろうじてつま先にひっかかっていた。逃走劇で履くには、あまりにも頼りないぺらぺらのサンダルだった。
 私は春ちゃんの無骨な手を握り返した。私にとって必要なのは、この手だけだった。



 早朝の海は、プリズムのように太陽の光を反射させていた。水平線のあたりに砂粒ほどの大きさの白い船たちが見えるけれど、それが漁船なのか客船なのかは分からない。
 サマーカーディガンを着ていても浜辺は寒かった。私はサンダルを履いた指の隙間に細かい砂を感じながら、日課になった朝の散歩をしていた。
 海と、フェリー乗り場と、スーパーと、かろうじてカラオケとコンビニとスナックくらいしかないこの離島に来てから、そろそろ一か月が経とうとしていた。東京を出たときは春だったのに今はもう夏で、私は日に日に厳しさをます日差しに目を細めた。
 朝にいつもすれ違う、手押し車を押すおばあちゃんとあいさつをする。片手に持っている炭酸入りオレンジジュースのペットボトルは、もう中身を飲み干してしまって空だった。
 築十数年、1DK家賃二万五千万円のアパートに帰る。今にも傾きそうなこのアパートは塩害のせいで、手すりも階段も錆びてぼろぼろだった。
 軋む玄関のドアを開けると、すぐ目の前にあるキッチンに黒髪の春ちゃんが立っていた。逃亡生活をするには春ちゃんのピンク色は目立ちすぎていて、一番初めに泊まったラブホテルの洗面所で私が染めてあげたときから、ずっと真っ黒なままだ。

「春ちゃん、起きてたんだ」
「……はよ」

 春ちゃんはまだ眠そうな目を瞬かせながら視線を上げた。その顔はやっぱりまだ少し青白く、生気がない。
 けれど、それでもまだ今日はまともな方だった。
 梵天を離れ警察から逃亡し続ける春ちゃんに、クスリを入手する経路があるはずがなかった。春ちゃんはそのうちクスリの禁断症状に苦しむようになった。いや、苦しむというようなものではなかった。私は何度絶叫しながら頭を掻きむしり、発狂してのたうち回る春ちゃんを床に抑えつけたか分からない。

「オマエ、今日仕事は」
「今日は朝も夜も休みだよ」
「……ン」

 春ちゃんの口座はとっくの昔に凍結されていた。そんな春ちゃんがまともな仕事に着けるはずがなく、私は朝はスーパーでレジ打ちをし、夜はフェリー乗り場の向かいにあるスナックで働いた。それでなんとか、ふたりで食べていけることができた。
 コンロにかけられたフライパンからいい匂いが立ち上っている。私は空になったペットボトルをシンクに置きながら、春ちゃんの手元を覗き込んだ。

「パン焼くね」

 春ちゃんがあくびをしながら頷いた。キッチンの窓辺には昨日摘んできて小瓶に活けたタンポポが、まだ鮮やかに花開いていた。
目玉焼きとハムとパンの朝ご飯を食べたあと。私たちはまだ朝だというのにベッドへもつれ込んだ。明るい光が満ちる部屋の中、目に焼き付けるようにしてお互いの裸を見つめ、口づけ、細胞のひとつひとつを溶け合わせる。
 もう二度と解けることがないように。
 そのたびにこの折り畳み式の小さなシングルベッドは、今にも壊れそうな音を立てた。
 体の奥底から湧いてくる熱はどれだけくみ上げても収まることを知らず、私たちはお昼を過ぎても手足を深く絡め合っていた。春ちゃんは何度も何度も確認するように私に唇を落とした。私はそのキスの合間に、何度も春ちゃんの名前を呼んだ。一生分の「春ちゃん」をここで使い切ってしまいたかった。
 警察に見つかるのは時間の問題だと、私たちは言葉にしなくても分かっていたからだ。
 私たちは警察から、東京から逃げた。逃げて逃げて逃げ続けた。逃げ続けるたびに春ちゃんはどんどん空っぽになっていって、辿りついたのはこの小さな部屋だった。
 そうして泳いだ後のようにへとへとになったころには、窓の外が淡いオレンジ色に染まり始めていた。体中に満ち足りた倦怠感が広がる中、私は気だるい腕を伸ばして、タオルケットに包まっている春ちゃんのくしゃくしゃになった頭を抱いた。

「春ちゃん、お散歩行こうよ」

 春ちゃんが、薄目を開けて小さく頷いた。


 皺だらけのTシャツのままサンダルをひっかけて浜辺まで行くと、私たちは砂の上に並んで腰を下ろした。大きな太陽が水平線の向こうに沈みかけていて、ふたりの顔を真っ赤に染め上げていた。
 東京で暮らしているとき、春ちゃんはほとんど家に帰ってこなかった。人殺しも、臓器売買も、薬物密売もしなくなった今、やっとこうしてのんびりとお散歩できるようになったのは、なにかの皮肉だろうか。
 私の首筋に瞼を押し当てていた春ちゃんが、か細い声で口を開いた。

「……オレはマイキーを裏切った」

それがどういう意味なのか私は知っている。私は春ちゃんに腕を回した。しばらくそうしていると、次第に私の首筋が温かく濡れそぼっていった。

「……マイキーを裏切って、オマエを選んで逃げた」
「……後悔してる?」

 してねえ、という言葉は、波音に混ざりながら私の耳に届いた。
 ここには、私たち以外になにもなかった。春ちゃんが乗り回していた高級車も、何着も持っていたオーダースーツも、夜景の見えるマンションも、シャネルもディオールも拳銃も大金も部下も組織も、そして春ちゃんの王様であるマイキーさえいなかった。
 私は瞼を閉じて春ちゃんの胸に額をつけた。泣きたくなるくらい、春ちゃんの匂いが好きだった。
 そして目の前に広がる暗闇に向かって、神様、あと少しだけ時間をください、と祈った。あと少しだけ時間をくれたら、私はもう、どうなってもいいです。

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