5.冷たい手でもいいよ

ホグズミードの村外れには、かつてだれかに置き去りされた屋敷がいまも残っていた。家主がいなくなっても、若者がたまり場にし、無法者の隠れ家になるなどして人の出入りは絶えなかったが、時とともに朽ちていく屋敷を修繕する者はおらず、破れ家はやがて、“叫びの屋敷”と呼ばれるようになった。

杖先の明かりが屋敷の二階へつづく階段に触れて、リーマスは腕を軽く掲げた。それでも最上段に光は届かず、階段は途中で暗闇の壁に隔たれているかのようだった。足をかける前に、リーマスは振り向いて手を差し出した。「足元、気をつけてね」
階段を見上げる彼女は、いくらか緊張しているようだった。
窓があったところには余すことなく木板が打ちつけられ、日の光が届かない室内の雰囲気は、墓場のようだといつも思う。壁紙が剥がれ落ちた天井や壁には蜘蛛の巣がかかり、床の絨毯はほとんど擦り切れ、長年かけて降り積もった埃で元の色味もわからなくなっている。住み着いているねずみの澱んだ匂いが充満し、呼吸も憚られた。
ホグワーツに入学してからこの五年間、ここで毎月のようにひたすら孤独と痛みに耐えるだけの一夜を過ごしてきた記憶がなくても、長くはいたくない場所に決まっている。

「寝室でいいんだよね?」リーマスは彼女の手を慎重に引き寄せながら言った。「二階に行くのは僕もはじめてだ」
「そうなの?」
「うん、僕はね、僕じゃないときはわからないけど」

見せたいものがあるから、“叫びの屋敷”に一緒にきてほしい。彼女に言われたとき、リーマスは当然ながら訝しんだ。狼を閉じ込めておく場所に、彼女を連れていくのも気が進まなかった。
「どうしても? あそこじゃないとだめなのかい?」
「うん、どうしても」彼女は胸の前で祈るみたいに両手を握った。リーマスに向けられていたのは、いつもより少し熱心で真剣な眼差しだった。「おねがい、リーマス」
リーマスにはそれ以上、抵抗できない。気は進まないが、彼女に“おねがい”されたなら、リーマスに断れるわけがなかった。
それはなぜか、そのことについて、リーマスは少し考えてみたことがある。なんでも言うことを聞いて甘やかしてしまうので、少しチョコレートを減らしたらどうだ、とシリウスに冗談を言われたこともある。うまい冗談だとは思わなかったが、チョコレート好きなのは、自他共に疑う余地がなかった。リーマスの体内にある、鬱屈した精神を、チョコレートは一時的でも取り除いてくれるのだ。あの甘さは大いに役に立つ。そういうことでいうと、彼女が毎年、バレンタインになるとくれる特別なお菓子は、どれも完璧だった。手作りもそうじゃないのも。
これはきっと、満月に先立ってくる、枯渇感や衝動的な嗜虐心に対する反抗心のせいだ、とリーマスは感じていた。自分の中で確かに息づいている狼の性質と逆を演じることで、“彼”を本来の自分から少しでも遠ざけようとしているのだ。“彼”とはコインの裏表のように離れられないことは、痛いほどわかっているが。
あるいは、献身的な彼女に後ろめたさを感じているせいかもしれない。毎回のお見舞いはもちろん、満月の前後を含めて、授業に出られない間は、彼女がリーマスのノートをまとめてくれているのだ。文法や綴りのミスもいつの間にかなくなりわかりやすく、実習のときでも、コツや要点を書き出してくれている。おかげでリーマスの成績が下がることはなかった。
一方、校則を破り、“叫びの屋敷”に連れてくるくらい、なんだというのだ。彼女が僕を頼っている。ならば、どうするべきかは決まっている。

寝室と思しき部屋はすぐにわかった。一階同様、窓は遮られ、杖の明かりがなければなにも判別できない状況だったが、彼女は杖を振って、部屋の照明に明かりを灯した。部屋には天蓋付きのくすんだベッドがあった。
リーマスが自分の目を疑ったのは、部屋にあるベッド以外のもののせいだった。ある、というか、いる、というか。
「じゃーん」彼女は部屋の奥へ向かって、両手を広げるようにした。反応に困っているリーマスを置いて、「紹介するね」と右から左へ順番に腕を動かした。
「プロングズ、パッドフット、ワームテールだよ」
何度か瞬きしてみたものの、紹介された先にいるのはやはり、牡鹿と黒い犬のようだった。犬のほうは首輪はしていないものの、よく躾けられているのか、見知らぬ相手が現れても、“おすわり”の格好を崩さない。尻尾だけを忙しなく左右に振っている。
犬はまだいい。なんでここに、と純粋な疑問はもちろんあるが、犬自体、まだ日常的で、身近な存在だと思える。
その点、牡鹿は、どうやらこちらも本物らしいが、見慣れないものが似つかわしくない場所に堂々と現れたせいか、リーマスは圧倒されてしまった。左右の角はひとつ枝分かれしているだけで、まだ若い牡のはずだが。
「ワームテールって?」とリーマスはなんとか訊いた。彼女が示した先にはなにも見当たらなかった。
「ほら、こっちにきて」彼女は床に向かって手を伸ばした。そばの暗がりがもぞりと動いた。腕を伝い、肩まで登ってきたのは、小綺麗なねずみだった。「彼がワームテール」
「ちょっと、かなり混乱してるんだけど、きみが飼ってるの? そのねずみと、犬と鹿を?」
そんなことより、どんな菌を持っているかもわからない生き物を、今すぐ彼女の肩から払い落とすべきだろうか。
「私のペットではないんだけど」と彼女は言った。「私はいいかな。リーマスは、どう? この子たち、飼ってみる?」
「僕も困るよ。そもそも、どこから集めてきたんだい。元の場所に戻しておいでよ」
そのとき、だった。突然、空気が破裂するような音が響いた。黒い犬がはじめて吠えたのだ。
大型犬なのは一目見てわかったが、犬種に詳しくもないリーマスにわかるのは、それだけだ。でも、雑種ではないかもしれない。賢そうだし、全身を覆う黒い毛並みは艶やかで、品がある。犬に向かって品があるだなんて、と首を振ったところで、ふと黒目がちの大きな瞳と目が合い、リーマスはどきりとした。犬は、リーマスが部屋に入ったときからずっとそうしていたかのように、リーマスから目を逸らさない。観察されている?
かなり前に頭の回路に置きっぱなしにして、そのまま忘れてしまっていた記憶がそこで、蘇った。とっかかりができると、それはリーマスがはじめて自分のことをジェームズたちに話した日だったことも思い出された。彼らもすでに察していることは、先に彼女から聞いていたが、それでも自分から話すとなるとやはり心の準備がまだできていなかった。で、彼女にもついてきてもらった。そうしてリーマスの話が済むと、ジェームズが待ってたよと言わんばかりに、いくつか対処法を提案してきたのだった。いずれも現実味がなく、荒唐無稽だったが、彼らなりに考えてくれていたのだ。安堵と不安がリーマスを苛んだ。リーマスはあえて、一方の考えを無視した。にこっと微笑んでくれる彼女や、リーマスのことを本気で考えてくれている彼らのそばにいれば、それはさほど難しいことじゃない。
あのときと同じ胸の震えが、リーマスを揺り動かそうとしていた。
いつもの軽口だと思って本気にしていなかったのは、自分だけだったというのか。いや、まさか、いまになって。
「シリウス?」黒い犬に向かって、リーマスは口走っていた。きみなのか?
その一言が、彼にかかっていた魔法を解いたかのようだった。


彼女が泣いているところを見るのはこれがはじめてではないのに、はらはらと涙を流す彼女の横顔は、リーマスがいままで見てきたなによりも美しかった。彼女はもうかわいいだけじゃなくなっているのだ。
いずれにしろ、リーマスは、気づかないうちにつまらないことを言ってしまったのだと思い、謝罪の言葉を口にしようとしたが、「ごめん」と彼女のほうが先に言った。自分で頬を拭ってしまうので、少し惜しい気持ちになった。もっと見ていたいと思ったのだ。
「私、知ってるの」
彼女の腹を括ったような言い方だけで、リーマスはもう逃げられないことがわかった。
「なにを?」と儀礼的に訊ねた。自ら処刑台へ上っていくような気分になり、本心では訊きたくもなかったが。
「満月の夜、リーマスが本当はどこでなにをしているのか。どうして怪我をして戻ってくるのか。叫びの屋敷の声は、リーマスなんでしょう?」
ああ、神様。「いつから気づいてたの?」
「最初は本気でリーマスの言うことを信じてた。でも、二年生になってすぐ、日本の行事のお月見をしようって誘ったこと、覚えてる? リーマス、すぐに断ったよね」
「満月を見ながら、日本のお菓子を食べるんだったよね。本当に残念だけど、僕は一生、お月見に参加できないんだ」
「お月見なんて、どうでもいい。ただ、それで違和感を覚えた」
「そうなの?」
「リーマスが私のおねがいを断ったことは、それまで一度もなかったから」
彼女の切なそうな目からまた、涙が溢れて頬を伝った。

「これだけはわかってほしいんだ」とリーマスは言った。「僕はきみを傷つけるつもりなんてないし、これからもそんなことはありえないって約束するよ」
彼女はうつむいたまま、首を横に振った。拒絶。当然の反応だ。わかっていても、目の前が少し暗くなった。
「僕がこわい?」とリーマスは訊いた。
が、こんなこと訊いてどうするんだ。ある意味でこれは自傷行為だ、とリーマスは思った。
だけど、これは彼女のためだとも思った。心優しい彼女は、こわくてもこわいと言えないだろう。たとえどんなに英語が上達したとしても。彼女は、ただ頷けばいい。彼女が望めば、なんだって叶えてあげるつもりなのだから。そうすれば、諦めもつく。
そんなわけがなかった。それが言うほど簡単じゃないことは、明らかだった。一ヶ月のうち、狼が残した傷が癒え、やっとベッドから出られて、また月が満ちる夜を待つあいだ、授業や宿題に追われ、ホグワーツ城の地図を制作するために時々、友人たちといくつか校則を破る日々をなくして、自分に課せられたこの重荷に耐えていけるのか?
満月が夜空にかかるのをもうひとつの心臓で感じながら、ついに鼓動が重なるぞっとするあの瞬間を待つ間、この苦痛が終わったら待っていてくれるひとに会える楽しみで自分を鼓舞してきたのに、彼女を失って、生きていけるのか。
「おかえり」その声がいつも恋しかった。だから、身体じゅうが傷だらけになっても、心は折れなかった。だから、暗闇からいつも抜け出せてこれたというのに。

「私がこわいって言ったら、どうするの? 学校、辞めるの?」

リーマスの両頬が、柔らかいものに包まれた。冬でも温もりがある彼女の手に、壊れものを扱うかのように優しく促され、お互いの顔をしっかりと見合わせる格好になった。彼女の手は濡れていた。
いや、濡れているのは彼女の手じゃない。
「私がこわがっているように見える?」
涙を気力で止めたような、意思の固い瞳が覗き込んでくる。少しの前のことなのに、教科書と辞書に挟まれて泣いていた女の子は、もうどこにもいなかった。

「なあ」人間の姿に戻ったシリウスは、興奮を抑えられないようだった。「すごいだろ、俺たち、ついにやったんだぜ」
彼のとなりで牡鹿の頭が持ち上がり、後ろ足で立ち上がるのかと思ったら、長い鼻先やぴんと立った耳の輪郭が縮むように歪み、人の立ち姿へと馴染むようにして変わっていった。ジェームズが眼鏡をかけ直しながら、「最初にこれを習得したのは僕だからね、一応言っておくけど」と自慢げに言った。
「僕はみんなに手伝ってもらったけど」ピーターはばつが悪そうに言うが、学生が“動物もどき”を習得できただけでもじゅうぶん、すごいことだ。
「こう見えて、ワームテールは役に立つんだぜ。暴れ柳を大人しくさせられるしな」とシリウスが褒めると、ピーターは顔を赤くして黙り込んでしまった。

「ずいぶん待たせてしまったね」ジェームズが親身な声音で、穏やかに言った。
「僕、言わなかった?」リーマスは声を絞り出した。「相手が人間じゃないからって、喉元に噛みつかないとは限らないって」
「それは次の満月に試してみようよ。やっと試せるときがきたんだよ。仲間がいれば自分を傷つけずに済むかもしれない。確率は半分だ。楽しみだろ、ムーニー?」
「楽しみ? きみたちを噛み殺して、死体を鉤爪でいたぶることが?」
彼らがいるのは埃っぽい屋敷の一室だったが、リーマスはまるで薄い氷の上にでも立っているような気分だった。凍てつく海にだれも落ちないよう、慎重になっているのに、リーマスのそんな心配など気にも留めず、彼らは同じ場所で飛んで跳ね回るのだ。心の底から楽しそうにして、そんなふうになにも恐れず羽目を外せたらどんなにいいだろうか、とリーマスを誘惑する。「きみたちがしようとしているのは、ただの自殺行為なんだよ」
「なあ、リーマス」と声をかけてくるシリウスを、そうすれば彼がさらに苛立つとわかっていても、リーマスは遮った。「それに、きみたちのことだから、魔法省に届け出もしていないんだろう。それがどういうことがちゃんとわかってるのかい?」
これ以上、喋るべきじゃなかった。自分でもそれがわかった。が、彼らを批判しなければ、理性を保てそうになかった。
本当は、いずれこうなるってわかっていたではないか。リーマスが彼らをかけがえのない存在だと思っているように、彼らも同様にそう思っているのだから、友を救うために手段など選ぶわけがないのだ。そうして彼らは、大人たちに気づかれず“動物もどき”になるために、どんな悪事を働いた? なにを犠牲した? だれを利用した? リーマスには想像もできない。知るのが怖いとさえ思う。リーマスは自分の頬を服の袖で拭った。
それなのに、やっぱり、うれしいと思ってしまう。希望を捨て、自分を卑下し、リーマスがひとつひとつ丹念に積み上げてきた高い壁を壊してでも、この手をとろうとしてくれるひとたちがいるのだ。リーマスはようやく、その事実を受け止める覚悟ができた。
これはきっと地獄への入り口にちがいなかった。現実は、めでたしめでたし、で終わるおとぎ話ではない。どんなにいい夢も、いずれは醒める。氷は砕け散る。でも、そう悪くないはずだ。冷たい水の底に身を沈めることになっても、この幸福な瞬間を抱いていけるのだから。
リーマスはもう口をつぐもうとした。その前にたった一言でも彼らに伝えたかったが、言葉がのどにつかえた。

「大丈夫、ちゃんとわかってるよ」

リーマスは顔を上げて、彼女を見た。目が合うと、彼女はいつものように、にこっと笑い、リーマスの腕にくっつくように寄り添った。
「心配するなよ、リーマス」とシリウスが揚々と言った。「バレなければいいんだから」
頭を撫でられ、髪をぐしゃぐしゃにされる。そのまま引き寄せられ、彼の肩に額を押しつける格好になった。
シリウスのそのせりふは、彼らがよからぬことをしようというたびに聞いてきた。慰めとしては最低で、リーマスが安心できた試しはない。リーマスは呆れて言い返そうとした。が、それもできなかった。リーマスは嗚咽が止まらなくなっていた。


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