4.寒いのは冬のせい

「ああ、いたいた」彼女を見つけ、ジェームズの一言目はそれだった。“外”で声をかけてくるなんて珍しいと思ったが、基本的に生徒は立ち入り禁止のホグワーツの厨房だ。学年一の問題児と比べて地味な女子生徒が親しげに話していても、彼らの関係を邪推するような野次馬は見当たらなかった。

「今年はもう終わったと思ったのに、また雪が降ってきたよ、見たかい?」
「ううん、積もりそうだった?」
「たぶんもう、積もりはしないと思うけど。早く暖かくなってほしいものだね。箒に乗るたびに髪が凍っちゃって大変でさ」
「なにしにきたの? ジェームズ」
「それ、きみがひとりで作ったのかい?」

調理台のケーキを見て、ジェームズは言った。ケーキといってもこれはまだ、チョコレートを塗りたくり、チョコレートで飾りつける前の、ただのスポンジケーキだ。スポンジにもチョコレートを練り込んではあるが。
彼女は、流し場のほうへ目をやった。“厨房の友だち”が、使い終わった製菓道具を泡で洗っているところだった。
「ううん」と彼女は首を振った。「友だちと一緒に」
「ふうん」
広い厨房をぐるりと見回すジェームズには、普段の落ち着きがなかったが、彼女はそれをわざわざ指摘したりはしなかった。

「日本人のバレンタインは、女子からチョコを贈るって、本当なんだね。面白いなあ、ホールケーキだとは思わなかったけど、うれしいね」
「リーマスがもういらないって、チョコレートから逃げ出すくらい甘いものをつくろうと思って。でも、はりきりすぎたかな」
「ええ?」
「え?」
「そのケーキ、まさかひとりぶん? “僕たちに”じゃないの?」
「ええ? 欲しかった?」
「リーマスほどじゃないけど、僕も甘いものは好きだよ。箒に乗れなくなったら困るから、自制しているだけで」
「知ってるけど」
「けど?」
「どうしてもというなら、リーマスに分けてもらえば?」
「僕たちはさ」ジェームズが一歩分、身体を寄せてきた。彼を見上げるために、彼女は首をさらに傾けることになった。「僕たちは最初の印象こそよくなかったかもしれないけど、同じ秘密と目的を共有する仲間になれたと思ってたよ。シリウスにしても、きみのこと、世間知らずの優等生だなんて言ってたのにさ。と言っても、彼の場合はだれに対してもそうだけど。リーマスのことも、最初は女子とつるんでる軟弱なやつだなんて言ってたしね。それがだよ、いまではきみたちのことでやきもきしてる。きょうこそふたりがキスするんじゃないかってね。シリウスはあの見た目だろ? 異性にはとくにいつも好意を向けられてきたから、男女の友情が理解できないんだろうねえ。それでも僕たちは仲間になれた。そう、だからだよ、厨房を使いたいというきみに、扉の場所も開き方もすぐに教えたんだ。その親切な僕に、手作りとは言わないけど、“蛙チョコレート”のひとつもないの? 本気かい? そっちのそれは?」

ジェームズの口は、よく回る。放っておいたら無限に喋るのだが、ジェームズのいいところは、相手がほとんど聞いてなくても気にしないところにある、と彼女は思った。彼女は、いつものように言葉の数々を身に浴びせられるままに任せようとしたが、彼が手を伸ばした先の“それ”には、決して触らせなかった。
手触りのよい洒落た包装紙だけで、専門店のものだとわかる。詳しい内容は忘れたが、形と味が異なるチョコレートが一口ずつ、何種類か詰め合わせになっているというものだ。購入する際、人に贈るならリボンの色を選ぶように店員に言われ、思いがけず迷ったことを思い出した。で、安直かもしれないと思いつつも彼女が選んだのは結局、鮮やかな緑色だった。

ケーキづくりは順調と言ってよかった。スポンジを水平にふたつに切り分け、チョコレート味のホイップクリームを仕込んでいる途中で、ジェームズにつまみ食いされたが。「わお」と彼は目を丸くして、二度と手を出さなかった。
同じクリームでケーキ全体を包み、体裁を整えると、彼女は絞り袋の準備をはじめた。
「僕にもやらせてよ」とジェームズが急に言ってきた。
「ケーキ作り、したことあるの?」
「ないさ。でも、きみがやっているのを見てたら、なんだか挑戦してみたくなったよ」
積極的なジェームズに、あまりいい思い出はないものの、彼女はクリーム入りの絞り袋を彼に渡すことにした。リーマスはきっと見栄えなど気にしないはずだ、と自分に言い聞かせて。
そんな心配をよそに、ジェームズの手つきは慎重だった。ケーキに覆い被さるように立ち、絞り袋から出てくるクリームを均一にするには手首をどう使えばいいのか、早くにコツを掴んだようだった。意外な一面に驚きつつも、なんでもできてしまう彼のことだから驚くことではないのだが、いずれにしろ彼女は手持ち無沙汰になった。

「ジェームズ」
「ん?」
「私に用事があったんじゃない?」
「きみの様子を見てきてほしいって、リーマスに頼まれてね」ジェームズは顔を上げずに言った。「心配してたよ。お見舞いにきてくれたけど、元気がなかったって」
「私は元気だよ。健康だし」
「素晴らしいことだ」
「リーマスの怪我はひどくなるばかり」
「身体が成長するにつれて、狼のほうも成長するからね」

いままでだって、ひどい怪我をして帰ってくることはあった。だが、その怪我でさえまだ軽いほうだったのだと彼女たちは考えを改めなくてはならなかった。
リーマスの増え続ける包帯の数や長引く入院を目の当たりにすると、否が応でも焦りが募るのに、ただ見ていることしかできず、底なし沼にずぶずぶと沈んでいくような無力感に苛まれる。
だが、それが一体なんだっていうのだろう。自分たちが弱音を吐いてどうなる? お互いになにか言うことはないが、それはたしかに彼女たちの共通認識だった。一番苦しんでいるのは、だれでもないリーマスなのだ。
例の課題についての進捗は、一進一退であった。ピーター以外はマンドレイクの葉を口に含んだまま日常生活を送ることに慣れてきて、毎回完璧にとはいかないものの、一ヶ月後も葉を残せるようになってきている。満月に拒まれ、やり直すことになっても、いまではマンドレイクの葉をただの飴玉のようにしか思っていないだろう。
彼らは諦めない。が、一番の問題は依然として残っている。

「“動物もどきの呪文”」とジェームズは言った。「でも、きみはもうすぐそれを手に入れる」

彼女はとっさに、彼のほうを見ないようにした。しかし、それが却ってなにもかも白状しているような気分になった。
「元々、異国の地からやってきたきみを、マクゴナガルは気にしていたし、きみは先生の期待に努力で応えてきた。きみみたいに、礼儀正しく成績優秀な生徒をきらう教師なんていない。その当然の結果なのかもしれないけれど、きみは時間をかけて、マクゴナガルの信用を得てきた、だろ?」
彼女は顔をあげた。ジェームズの涙袋が膨らみ、目が弧を描いて、にっと笑っていた。

「マクゴナガル先生が、禁書にも書いてない呪文をただの生徒に教えてくれると思う?」
「マクゴナガルは厳格で聡明な魔女だ。だからこそ、きみも注意深く、最善を尽くしてきたはずだよ」
「逆に私が、私たちの計画を先生に話しているとは思わないの?」
「思わないねえ」とジェームズは言った。「言っただろ? 僕たちは、同じ秘密と目的を共有する仲間になれたと思ってるって。でも、マクゴナガルは、そうは思ってない。きみのような優等生が、僕たちと繋がっているなんてね。そこが肝さ」
「私が、マクゴナガル先生から“動物もどきの呪文”を聞き出して、ジェームズたちに教える」
「そう、羊の皮を被って、マクゴナガルを欺くんだ。お茶でもしながら、先生の紅茶に“真実薬”を一滴、垂らせばいい」
そこでジェームズは、「あ」と思い出した。「きみ、紅茶は苦手なんだっけ? それってちょっと、信じられないな。本物の紅茶を飲んだことないんじゃない?」
彼女はじっと彼のことを見た。それはもう、まじまじと。本物の紅茶とは一体どういうものなのか、興味を惹かれたわけではなかった。
「“真実薬”?」
「わかるよ、悪戯では済まないって言いたいんだろ? でもさ、それに関しては、僕たちがしようとしていることも立派な違法なわけだから、いまさらだと思うんだよね」
「そんなものどうやって」
「きみは知らなくていいことさ」
彼女は自分の考えをまとめる間をとった。「私がずっと心配しているのは……」
「恩を仇で返すみたいで、後ろめたい? 真実薬に抵抗がある? まあ、バレたら大変なことになるのは確かだね。きみがホグワーツを退学になったって聞いたら、きみのお祖母さんは卒倒するかもしれない。同じくらい、孫の帰りを喜ぶ可能性もあるけど。何にしろ、シリウスの言葉を借りるなら、“バレなければいいんだ”だよ。きみもわかっているとは思うけど、これは全部、リーマスのためなんだ。それに……」
「本当に?」彼女はすかさず、しかし落ち着いてジェームズに聞き返した。「本当にリーマスのためなの?」
まだ話し足りなそうだったジェームズの老熟した目が、彼女を観察しているのがわかった。些細な反応から情報を得ようとしている。そして彼女の五感は、どれかなのかそのすべてなのかわからないが、彼にじゅうぶんな情報を与えていたらしかった。「きみ、もう知ってるんだね」そして、彼は、なぜか嬉しそうに口を開いた。「で、僕たちにそれを教えるべきかどうか、迷ってるんだ」

「“動物もどき”は、魔法省に届け出をして、習得していることを登録しなきゃいけない決まりなんだよ。どうしてそんな決まりがあるのか、わかるよね」
「僕たちが、“動物もどき”の力を悪用するんじゃないかって心配なわけだ」
「私が心配してるのは、リーマスだよ」彼女は言った。「暴れ柳がハッフルパフの男子生徒に怪我させたこと、覚えてる?」
「ああ、そんなこともあったかな。なんだっけ、友達同士で度胸試しみたいなことをしてたんだっけ? 自業自得だと思うけど」
「かすり傷だったけど、リーマスは自分を責めてた」
「え、そうなのかい?」
彼女は自分が話しすぎているような気がした。が、ここでやめることはできない。
「自分をきっかけに、先生や魔法省の目を盗んで“動物もどき”になった友だちが、その力でなにか問題を起こしたら、リーマスはきっと同じように責任を感じると思う。そうはなってほしくない。けど、危険を犯してまで“未登録”にこだわるところを見てると、リーマスのためと言いながら、いずれ“動物もどき”を悪用するつもりなんじゃないかって思ってしまう」
「きみって、想像力豊かだね。でも、良いほうにも考えてごらんよ。もしかしたら、この力が僕たちのだれかを助けるかもしれない。まあ、何にしても、未来のことなんて、だれにもわからないんだから」
「そうだね」と彼女は顔をしかめた。「でも、すべてが偶然というわけでもない」
「ええ?」
「“動物もどきの呪文”は、最初からマクゴナガル先生に訊くしか方法はなかった。どこにも書いてないんだから。でも、“動物もどき”のことをだれにも知られたくないジェームズたちには、それができない。“真実薬”も使えない。薬の効力を本当に発揮させるには、相手が飲まされたことに気づかず、無防備でないといけないんだから。ジェームズやシリウスがお茶なんて勧めてきたら、私でも怪しむもの」
ひどいなあ、と口では言うが、ジェームズは明らかに彼女を話を面白がっていた。あるいは、答え合わせを。
「だから、代わりの人間が必要だった、ちがう? 自分たちの代わりに先生から“動物もどきの呪文”を聞き出せる人間が。先生の紅茶に“真実薬”を垂らせるような、でも、そんなこと絶対にしなさそうな人間が」
「あるいは、リーマスのためならなんでもするっていう人間が」とジェームズは言った。

「だから、ハロウィンの日、私に声をかけたんだね」

いつもはうるさいくらいの口を閉じて、ジェームズはあの日と同じ笑顔を浮かべていた。なりゆきを見守り、人の心の機微を油断なく観察し、巧みに小突いて誘導していながら、僕はそんなつもりまったくありませんよ、と言い退ける気でいる笑顔だ。それでも彼の目が微笑んでいるのは、あらかじめ描いていた絵図が徐々に、そして思ったとおりに完成していく満足感のためだと思えてならなかった。
私は憤るべきなのだろうか。最初から思惑があったのに、なにも知らされてなかったことは気に入らないかもしれない。正直、見定められて、性質を利用されたのは居心地が悪い。が、それだけだ。いま重要なのは、“私”じゃない。

「教えてくれるかい」ジェームズがふいに訊いてきた。「僕は間違っていたかな?」
「間違ってないよ」彼女は首を振った。「どんなに未来が不安でも、ジェームズのシナリオどおり、私は呪文を教えるんだから」
「それが、リーマスを助けられるかもしれない、唯一の方法だからね」
彼女は、五角形の見慣れたお菓子のパッケージをジェームズの前に置いた。三つある。シリウスとピーターの分だ。三つとも、普段はつけていないリボンが結んであった。
ジェームズはそれらに目を細めて言った。「だから僕はきみのことが好きなんだ。きみは期待を裏切らない」


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