1.きらめきに誘われて

おとぎ話の王子様が住んでいそうな城で、呪文を唱えて杖を振り、願いを叶えるのだから、ホグワーツ魔法魔術学校へ入学した彼女は、まるで夢の国に迷い込んだような気分だった。
一方で、ほとんど地球の裏側からやってきた彼女がそんな、箒に跨って空を飛んだり、植物の悲鳴にあてられて気を失ったり、先生が猫に変身したりする夢の国で最初にぶつかったのは、極めて妥当で現実的な「言葉の壁」だった。彼女の英語力にできたことは、新しい友人をつくるくらいで、終始英語で進行していく四十五分の授業内容を速やかに理解する準備はできていなかったのだ。
授業中に辞書なんて引いていれば、あっという間についていけなくなるので、あらかじめ教科書の内容を理解しておく必要があることにはすぐに気づいた。所謂、予習をするようになったが、それでも彼女に訳せない言葉は必ず先生の口から出てきた。分からないままにしてなんとかなるはずがなく。一年生が一日に受ける授業は、四教科。一科目でも二限ある情報量を復習しているうちに、放課後は終わってしまう。翌日に持ち越せればいいが、翌日にも授業はある。で、予習をする時間はどうして確保すればいいのか。おまけに同級生とのはじめての共同生活、馴染みのない食文化など、夢から覚めてしまえば、代わりに耐えがたい挫折感が彼女をいっぱいにした。心配かけまいと、祖母の手紙には万事順調だと嘘をついたが、最初のクリスマスを待たずにホグワーツから逃げ出していただろう、ひとりだったなら。
入学式の日、ホグワーツ特急の汽車で偶然、乗り合わせたのがリーマスだった。彼女が外国人だとわかっても、リーマスには身構えるところがなかった。雑談の中で聞き慣れない単語や言い回しが出てくるたびに、話を中断させてしまうのだが、リーマスはとにかく、彼女の歩調に合わせて歩くのがとても上手だった。愛想を尽かしてほかに、もっと歩調が合う友人をつくってもおかしくないのに、予習と復習に付き合ってくれて、なにもわからなくて投げ出したときは、彼女の代わりに分厚い辞書を引いて励ましてくれた。そしてホグワーツに入学して彼女の英語は少しずつだが要領を得て、感情表現が豊かになればなるほど、どんな小さな癖もリーマスのそれに似ていった。

「ちゃんと寝てるの?」マダム・ポンフリーが心配そうに、というより生徒が健康かそうではないか、見極めるような目をして訊いてきた。
「私は、みんなより勉強しないといけないから」彼女は少し緊張しながら言った。リーマス以外の人と話す、自分の英語は、いつもより下手に聞こえるのだ。

「授業についていくのは大変でしょうけど、無理して身体を壊したら元も子もないのよ」
「ちゃんと寝てます」
「本当に?」
「きょうは最初の授業が、“魔法史”だったので」
「授業中は寝ちゃだめなのよ」

ホグワーツの校癒は、患者が平らげた昼食の食器を杖の一振りでトレーに下げると、「五分だけですよ」と言った。面会の注意事項を一言か二言ほど残して、人目からベッドを隠すように立てられた仕切りの外へ姿を消した。
「やっぱり寝ちゃったんだ?」そのベッドでリーマスがにこりと笑って言った。

「グリフィンドール生は全滅だったよ。宿題だけは、なんとか聞き逃さないように頑張ったんだけど」

毎度のように寝てしまうので、魔法史のノートに書き留められることは、いつも少ない。綴りがわかるものは英語で、自信がないものは、あとの復習で確認するため、日本語で発音の雰囲気を走り書きしてある。どの教科をとっても、彼女のノートはどれもこんな感じなので、彼女以外にはリーマスにもすべては読めないだろう。彼が母親のお見舞いで帰省している間、受けられなかった授業については、先生たちが補習や課題を出して埋め合わせるらしいが、ノートを見せてあげられるくらいにはなりたかった。定期的にホグワーツを離れる必要があるなら、リーマス用にもう一冊、ノートをつくってもいい。もちろん各教科ごとに。予習と復習に追われて、まだ辞書も手放せないうちは無理かもしれないが。
でも、それはマダム・ポンフリーにせっかく許された五分間で話すべき内容だろうか? 彼女とほとんど背格好が変わらないリーマスの頬には、大きなガーゼが貼られていた。入院着の袖の下で、左腕には広範囲に包帯が巻かれているのが窺い知れた。

「次は、薬草学だっけ」
「あ、うん」
「医務室から遠いけど、大丈夫?」
「そうだね、そろそろ行こうかな」

ホグワーツはとにかく広大な敷地に建てられている。そして、どこへ行くにも複雑に入り組んだ階段を上り下りしなければならない。ホグワーツじゅうにある階段をひとつに繋げたら、月まで届きそうだといつも思う。

「ピーブスに出会わないように祈ってて」
「髪留めを忘れないでね」
「たしか、鞄に入れたままだった気がする」

髪が垂れて土で汚れたり、魔法植物にいじられたりしないようにひとつ結びにしながら、彼女は医務室の窓の外に目をやった。
ホグワーツに雪は降るのだろうか。汽車に乗る前に、祖母に訊いてみればよかった。九と四分の三番線のホームで、なぜかいつもみたいに甘えられず、捨てられるような寂しさで目の前がいっぱいになっているときに、降雪の有無など気にかかるはずがない。だが、それもいずれわかるだろう。
今年の冬は長くなりそうだ。彼女は思った。
仕切りの隙間から出ていく前に躊躇して、振り返ると、リーマスと視線がぶつかった。
また明日、という気持ちを込めて、手を振る。リーマスも怪我がないほうの手で振り返してくれた。


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