「あ」
「ん?」
部活帰り、夕陽に染まる道を二人で並んで歩いていると、一乃が声を漏らして立ち止まった。
一歩先へと進んでしまった倉間も立ち止まって振り返ると、いつもの端正な顔立ちを微妙に間抜けた表情にして一乃は口を軽く開いていた。そして、小さく「しまった…」と、呟く。
「何だよ」
未だに一乃の言動の理由を掴めずに首を傾げれば、交わっていなかった視線が絡み、途端に困った表情に切り替わる一乃に「クールに見えてよく表情変わる奴だな」などと、ぼんやり考えた。
「図書館に本を返すのを忘れていた」
一乃から聞かされた理由は倉間にとってはどうでも良いことで、返し忘れたなら明日返せば良いと結論付けるものである。
決して今の一乃のように悩ましく感じることはない。
そう思ったことを言葉にして伝えた。
「明日返せば?」
「いや、今日が期限なんだ。ちょっと戻る。先に帰って構わない」
期限なんて気にしたことがない。
例え期限をすぎてもレンタルビデオ等とは違って延滞金を取られることなど、まずない。『次は気を付けてくださいね』という事務的な言葉に対して此方も条件反射的に『はい』と返して終わりだ。
しかし、真面目な一乃のことだ。期限は守るもの。という考えしかないのだろう。「じゃあ、また明日な」と、片手を上げて来た道を戻り始めたその背中を呼び止める。
足を止めて振り返った相手に倉間は「待ってる」と告げた。
「え?」
「待ってるよ。そんなに遠くないし、すぐ戻ってくるだろ?」
「あぁ、でも…」
「ちょっと先に本屋あるだろ。そこにいるから」
一乃の言葉に被せるようにそう決めて、倉間は歩き出した。
「………」
数秒、沈黙した後に一乃は「ふっ…」と笑みを溢す。
「倉間!」
「あ?」
「すぐに追い付く」
「…あぁ」
パタパタと駆けていく一乃を見て、倉間も再び歩き始めた。
『すぐに追い付く。絶対に。またお前と同じフィールドに』
「…あー、思い出した」
少しだけ朱に染まった頬を隠すように掌で頬をぐいぐいと押す。
脳裏に過ったのは、倉間がセカンドからファーストに上がる事が決まった日のこと。
倉間が着る新しいファーストのユニフォーム、その背番号を優しく撫で、一乃は「うん、似合ってる」と、倉間をくるくると回す。
「やめろ、馬鹿っ…目が回る」
「ハハッ、ごめん」
「だいたい、色が違うだけでそんなに変わんねぇだろ」
少しの恥ずかしさもあり、ふいっと顔を逸らすと、それまでの揶揄う口調とは違う真剣さを含んだ声音で「それは違う」と返された。
釣られるように視線を戻すと、一乃は真っ直ぐに倉間の瞳を捉えた。
「そのユニフォームは俺達セカンドの…いや、サッカーをやる多くの少年達の憧れの象徴だ」
「……」
「お前がそのユニフォームを着て、雷門のFWを努められること…俺は誇りに思う」
一乃は力強く「俺も」と、笑顔で続ける。
「俺もすぐに追い付く。絶対に。またお前と同じフィールドに…一緒にサッカーをやろう」
そこまで思い出したところで、本屋の店先に着いた。
あの時、俺は何て返したんだっけ…
記憶の底を探りながら店内に入ろうとした時に名前を呼ばれて振り返る。
そこには息を切らした一乃がいた。
「…早かったな」
「…言っただろ?すぐに、追い付くって」
「期待しないで待ってるつもりだった」
「反語」
「うっせぇ」
「あの時も、お前は俺に期待してなかったな……表面的には」
「……何の話か知らねぇが、一言多いんだよ、お前は」
「ふふっ…」
一乃が合流したことによって、用のなくなった本屋を後にして二人は帰路を歩く。
「どちらにせよ、結局お前は待っててくれるんだよな」
「お前が言ったから」
「ん?」
「追い付くって…」
「あぁ…」
その後は特に会話が続く訳でもなく、静かに歩いていた。
しかし、それは気まずい雰囲気などではなく心地好い沈黙だった。何も言わずともお互いの気持ちは分かっていた。
あの日の言葉に嘘はなかった。
倉間は一乃を待ち続けたし、一乃は倉間に追い付いた。形は思っていたものとは違うが、一乃は充分に力を付けている。
それは倉間だけではなく、拓人や蘭丸も認めるものだった。
「倉間」
一乃が名前を呼ぶと、倉間は立ち止まり手を出す。
一乃の言いたいことがすぐに分かったから、
「…外だから」
「あぁ、そうだな」
一乃はその手を取って軽く口付けた。
その表情は艶かしいものがあり、倉間は心臓が跳ねるのを感じた。
こいつは訳の分からない色気があるな…
「いつか…」
倉間の手を離した一乃が少しだけ切なげな笑みを浮かべた。
「また、俺のゲームメイクで動くお前が見てみたいな」
「……」
セカンドの時、一乃は冷静に戦略を立て、選手達に的確に指示を出していた。
それは今では拓人の役目。一乃はそれに不満はないし、むしろそれが良いと思っている。
「ずっと変わらないものなんてない…分かってはいるけど、たまに昔を思い出して懐かしく思うよ」
「…なら、一緒に変わっていけば良いだろ」
「倉間?…っ」
一瞬で、離れる唇…
「…外だからキスしないんじゃないのか」
「うーるーさーいー」
耳を塞いで単調にそう言う倉間に思わず笑い、「そうだな」と倉間の頭を撫でる。
「一緒に行こう」
「…ん」
いつもなら「子供扱いするな」と怒る倉間がおとなしく頷いた。
そうだ、
もう、追いかけるのではない。一緒に歩いていけば良い。
すっかり、陽が落ちて街灯が付き始めた道を歩きながら一乃はそう思った。