焦った様子もない老中の一人。夏も冬も変わらず晒されているその腕を掴み、頼宣は声を大にして問い質し始めた。


「松平伊豆!聞きたいことがある」
「これは紀伊様、何かありましたか?」


さらりと返事をした知恵伊豆こと松平伊豆守信綱の表情に、頼宣は更に苛立ちを募らせる。
何故焦らないのか、何故そんなにも余裕があるのか、何を考えているのか。
頼宣にはさっぱり信綱たちの意図することが理解出来なかった。


「何故この非常時に諸侯を国許へ返す?こんな時こそ何が起こるのかわからないのだから皆を集めるべきだろう!」


後の世において振袖火事とも呼ばれる明暦の大火。江戸の町を焼き、城にまで被害が及んだ大災害。
それが起こっておきながら、諸大名を国許へ帰してしまう。いや、むしろ暇を出して帰させてしまったのだ。


「…お言葉ですが紀伊様、現在米の価格が跳ね上がっているのはご存知で?」
「当たり前だ」
「ならばご理解頂けますでしょう」


頼宣の怒る声色に反し、信綱は淡々とした声で切り返す。
いつだって平然とした態度。それが信綱という人間なのだが、些か短気な人間を苛立たせるには十分な要素だった。
そして今の頼宣は頭に血が上り、冷静な状況把握が出来ない状態であった。


「意味がわからぬ!これとそれと何の関係があるのだ!」
「米価が上がるそれすなわち、需要と供給が釣り合っていないからです」
「需要と、供給…?」


更に怒鳴り声を上げる頼宣に対して、内心信綱は溜め息のひとつでもつきたい心境だった。何故、御三家ともあろう人がこれくらいのことに気付かないのだろうか、と。
少し考えればわかることではあったが、そもそも頼宣には価格決定のその仕組みが理解出来ていなかった。


「米は無いが腹は減る…そんな時に諸侯がおりますと、ただでさえ少ない米を食い尽くすことになりかねません」

「ならば諸侯には国許にお戻りいただき、江戸の米は江戸の民に振る舞うべきだと存じますが、いかがでしょう?」


毅然とした態度は崩さぬままに頼宣へ説明をしはじめる信綱。その全てが正論であり、正直頼宣はぐうの音も出なかった。

火災により米蔵が焼け、供給量が著しく低下したとしても江戸の人口はほとんど変わらない。ということは需要率は火災以前とほぼ同じなのだからもちろん価格はつり上がる。
そこに諸大名が現れたらどうなるか。彼らは道中においての弁当は所持してくる。だが江戸で過ごす間の食料を国許から持参するのはあり得ないに等しい。そうなると江戸にある米を食べることになる。

ただでさえ少ない米を何故わざわざ大名にやらなければいけない。信綱はそう言いたいのだ。


「だ、だが何かあってからでは遅いのだぞ!?」


食って掛かった以上頼宣も簡単には引き下がれない。納得したとしても意地が下がることを許さない。
なおも突っかかる頼宣に対し、ついに呆れた信綱は隠しもせず溜め息をつく。


「ここには私共の他に紀伊様や保科肥後様もいらっしゃいます、問題ないと思われますが…もしそれでも不安ならば、」



「肥後様にもお聞きになってはいかがです?あの方は誰より徳川家の事を思っていらっしゃるのですから」
(まぁ、同じ答えしか得られないと思いますが)


不敵に笑った信綱の表情だけが、頼宣の脳裏に焼き付いた。





叶わぬ恋ならせめて振袖を



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