訪れし解氷の季節






知らなくてもいい現実は必ずや彼を傷付ける、僕は勝手にそう決め付けていたのかもしれない。

「……雪村が僕に隠していることを教えてくれるなら、今度は全部答えるよ」

「僕も、現実から目を逸らすのはもう止めにしようと思うんだ」

小さな命、僕のコピー。子供だから知らなくていい、怖いことも汚いことも全部知らなくていい。そうやって僕は彼を自分の籠の中に閉じ込めていたんだ。普通の生活をしようと、させてあげようと決めたはずなのに、結局これでは施設に居た時と同じじゃないか。
繋いだ手がひやりと冷たい。一体どれほどの時間外に居たのだろうか。それを知る手段を今の僕は持たないけれど、これ以上冷たくならないようにすることならば出来る。

「手が冷たい。まずは家に帰ろう?」
「でも、」
「話はそれからだ」

少し躊躇った後、小さく頷いた彼の手を引いて家路につく。帰ったらまずは温かい飲み物を用意してゆっくりと話をしよう。明日は休日、時間はたくさんあるから。

『そんなことをしたって、弟は戻って来ないぞ』
『……知ってるよ。これは、僕の自己満足だ』

不意に思い出した施設での会話。今はそれを頭の隅に押しやり、今回は何から話そうかと記憶の本棚を漁る。彼は聡くて優しい子だ。僕が皆まで言わなくとも意図を汲んでくれるだろう。でもそれじゃいけないんだ。僕がこの声で、言葉にしなくちゃ意味が無い。その事実がどんなに汚くて醜い自分勝手なものだとしても。
それでもきっと雪村は、全部受け止めてくれるはずだから。受け止めてくれると、僕は信じているから。










「さて、雪村が聞きたいことから先に答えようか」

温めたミルクに市販の粉末を入れて即席カフェオレを作る。いつもならきちんとコーヒーをおとすのだが、とりあえず今はこれで我慢してもらおう。

「前に聞いていたね、何故プロジェクトが終了したのか。遺伝子操作実験、通称"ゼロプロジェクト"……その終了理由は至って単純、実験体1号が暴走したからだ」

毎日毎日飽きもせず実験を繰り返してデータを取り続け、実験体を生物兵器紛いに仕立て上げていく。しかしそのうち一部の人間が気付いてしまったのだ。
『もし実験体が我々に叛旗を翻したらどうする?』『既に奴らは我々の手に余っている、何かあったら……』
そう言う声も少しずつ上がるようになった。

「そこで僕たちは実験体の力を少しでも削ぐために不完全だった実験体2号を植物状態にすることにした。だがそれが大きな誤算だったんだ」

実験体は同一存在だった。だから片一方を破棄してしまうともう一方も死んでしまう、不安は多々あれどそれだけはみんなどうしても避けたかった。しかしそのままにしておけば、同一存在はお互いの能力を乗算させて未知数の結果を叩き出す。本格的に実験体へ手が付けられなくなるその前に、どうにかしなければならない。
考えた末に二人のうち能力値は一般能力者の平均を下回るが、安定して能力を使える実験体1号を生かして2号は仮死状態とすることにした。抵抗されないようにと予め操力減退の薬品を投与しておき、治癒能力の著しく低い2号の身体をギリギリまで痛め付けておく。

「雪村ももちろんそうだけど、僕らは君たちから自我を奪わなかった。それが裏目に出たんだね」

そうしてからまた別の薬品を投与し、植物状態にしようとした。しかし僕たち研究者の予想以上に実験体二人はお互いのことを知り、大事にしていたようだ。2号への薬物投与を阻止しようとした1号が無理に力を使い暴走した。
これにより施設は半壊以上、研究者たちも三分の二以上が亡くなった。そしてパトロンの支援も受けられなくなり、当初の名目を保てなくなったプロジェクトは事実上解散とされる。

「君がこのことを知らないのは当然だ。だってこの暴走事故が起こる直前に、僕が君を眠らせてしまったからね」
「眠ら、せる…?」
「ちょっとした能力の応用。簡単に言えば冬眠状態……なのかな?」
「どうして吹雪さんは、そんなことを」
「見せたくなかったんだ。自分勝手で醜い大人たちを、己の欲望に忠実で汚い現実を。全部君の目から隠したかった」

でも本当は怖かった。摂理の応用によって人の体温を下げ、強制的に冬眠状態へと移行させる。だがそれは彼の同一存在が自分だったから出来たこと。眠らせた後に心配だったのは「きちんと雪村が起きてくれるのか」ということ。もし意識が戻らず昏睡状態に陥ったら、そんな不安ももちろんあった。
けれど彼は目を覚ましてくれたのだ。僕が隠したかったこの現実世界に、帰って来てくれた。その事実がただ、嬉しくてどうしようもなかった。

マグカップに手を伸ばし、温くなったカフェオレをずずっと啜る。粉末が底に溜まっているようなので、スプーンでゆっくりと撹拌させてもう一度口に含む。温度は更に下がったが味は多少まともになったようだ。
プロジェクトが終わった理由、終わった時のことを何故雪村が知らないのか。全てではないが、それは今話した。ではその先のことは、話すべきなのか否か。臆病で狡い僕は口を噤んでしまおうかとまた考えるが、彼が「知りたい」と言ったから、それが彼のためになるのだと信じてやはり口を開くことにするのだ。

「――それと僕はね、雪村。正直初めは君のことが好きじゃなかった。だから君が僕の同一存在だとわかった時、なんて神様は残酷なんだろうかと思ったよ」

クローン実験に参加したのは、始めはほんの気紛れみたいなものだった。昔々に亡くした弟の代わりが僕は欲しかったのだ。双子というわけではなかったが、配列は違えど遺伝子の構造は同じだから手を加えれば同様のものくらいは作れるだろう。そんな自分勝手で甘い考えしか当時の僕は持っていなかった。
弟を取り戻したいつもりじゃない。弟の"代わり"が欲しかった僕はそれこそ"命"を弄んでいたのだ。

「……これ以上隠したくないし、嘘もつきたくないから本当のことを言うね」
「何、ですか……?」
「僕は君を殺そうと思ったよ、何度も何度も。でも同一存在ということが枷になって結局は殺せなかった。それが煩わしくて僕は君に対して八つ当たりしたこともあった」

実験内容を僕の指示で指定されていたものから勝手に変更して死にそうになるぐらい追い詰めたり、投与する薬品の成分・濃度を通常の倍以上に変えたり。普通の人間とは違って簡単には壊れないのをいいことにそんなことばかりをしていた時期もあった。
床に這いつくばる彼を見て、このまま死んでしまえば良いのに、と何度も思っては結局死んでくれなくて。

「僕のこと、嫌いになった?」

こんなことを言ったら嫌われてしまっただろうか、僕に絶望してしまっただろうか。でもこれは、事実であり真実だ。震えそうになる手を無意識に押さえる。僕の本音を言ってしまえば、彼の返事を聞くことが怖かった。言うだけ言って耳を塞いでしまいたい、しかしそれでは根本的な解決にならない。
散々な仕打ちをしておきながら嫌われたくないと願う僕の身勝手は、予想に反して随分あっさりと受け入れられたのだ。

「……ならないです」
「無理しなくて良いんだよ?」

俯いてしまった雪村はふるふると首を横に振って、所謂否定の意を示す。視線は自らが持つマグカップに注がれたまま、小さな深呼吸の後にゆっくりと語られる言葉。

「俺が一番怖かったのは、貴方に捨てられることだった。俺に関心が向かなくなる日が来るのが怖かった。だからどんな形であれ、貴方が俺のことを見ていてくれているそれだけで良かったんだ」

そういえばいつのことだったかは忘れてしまったが、ある日の実験で雪村は大怪我を負った。僕が理不尽な罵詈雑言を浴びせても、彼は掠れた声で「ごめんなさい」と謝って次の瞬間には「大丈夫でしたか?」と僕の心配をする。特殊な同一存在のため、痛覚の一部はいつだって共有だった。自分は今にも死にそうなのに、そんなことより僕の心配をする彼は正直馬鹿だと思った。
しかし胸がじくじくと痛むことを知り、これが痛覚共有による影響では無いことに気付いてしまってからは少しずつ彼への見方が変わった。

「だから貴方がいつからか俺を特別扱いし始めて、名前を付けてくれたことがただ嬉しかった。貴方の功績になるのなら、望まれる結果を出すために必死になるのも苦じゃなかっ……」

そうしていつしか彼は僕の中で随分と大きな位置を占めるようになったのだ。使い続けた物に愛着が湧くように、煩わしさが愛しさへと変化する。そして一度気付いてしまった感情は、名前の無いままでも加速を続けながら止まることなく走り出す。
触れることを躊躇っていた手を伸ばし、思わず抱きしめた。加減なんて出来ない。そして「好き」よりも「愛しい」よりも大きくなった感情をまずは音にする。

「ありがとう。ありがとう、雪村」
「俺は、貴方に感謝される価値なんか何ひとつ無い」
「君は自分のことを過小評価しすぎる」
「そんなことない」
「価値が無いだなんて言わないで。僕には、君が必要なんだ」

("好意"よりも"感謝"の言葉を、他の誰でもない君に)
今となっては彼を失うことが、僕の傍から離れてしまうことが怖い。始めは弟の代わりとして作り出した"物"だけれど、今では弟と同じように"家族"になってしまったから。だから、何かあったら無関心も見て見ぬふりも出来ない。

「最初は君のことを殺したくて仕方なかったけれど、今は君のことが愛しくて仕方ないんだ」
「……あ、りがとう、ございます」

愛しい愛しい、僕の同一存在。
笑って泣いて怒って、どこからどう見ても人間じゃないか。もし彼が人間じゃないと言うのなら、人間の基準とは何なのだろう。




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