彼女は涙ぐみ、幼少時代の自分と瓜二つの小さな子どもを抱き締めた。かなり緊張した様子で、彼女と初めて交わした抱擁に身を硬直させた子どもからは、しどろもどろに困惑の声が溢れる。
「会いたかった……ずっと、あなたに会いたかったわ……」
 白い息と共に紡ぐ言葉は、数えきれないほどあるはずだったず。けれども今の彼女にはその一言しか声に出来ない。
「さあ、そろそろ中に」
 いくら気温設定されているプラントといえど、冬で夜中となればかなり寒い。けれども屋敷のエントランスで幼子を力一杯抱き締める彼女は、そんなこと気にも留めなかった。
 それを見守っていた少年は流石に自分の身体も冷えて来た頃合いを見計らって声をかける。
「この子が風邪を引いてしまいます」
「……そうね。ごめんなさい」
 さあ、入って、と己の手と小さな手を繋ぐ。幼子は未だに緊張した様子でラウを見た。小さく頷くと、彼女に手を引かれて屋敷内へと入っていく。

 おかえりさいませ、と初老の紳士が頭を下げる。幼子は、自分に言われたとはちっとも思わずに首を傾げるばかり。彼女はリビングのソファーにちょこんと座った子どもの傍で微笑む。
「これからは此処が、あなたの家です。だから彼はあなたに『おかえりなさい』を言ったのよ」
「……ぼくの、いえ?」
「そう。此処はあなたが住む場所、私達は一緒に暮らすあなたの家族ですよ」
「かぞく……おかあさん?」
「ええ、そうよ」
 覚束ない言葉で尋ねられた言葉に、彼女は感動からまた涙ぐんだ。
「私があなたの……お母さんよ」
 お母さん、お母さん。自分をそう呼ぶ存在がこの世に生まれてくることを、彼女は既に諦めていた。
 結婚してから流産と死産を併せて既に五回経験している。貴女はまだ若いのだからと周囲の者は口々に言うが、もう懲り懲りだ。
 原因は未だに分かっていない。恐らくは母体の方であろうとの医者の見解はあったが。ならばお腹に宿る子を、また産んであげられないかもしれない。ーーそれは最早恐怖以外の何でもなかった。
「私が、お母さんよ……」
 お揃い色をした髪を撫でてやる。自分とは少し違う色合いの青い瞳がきょとんと見つめていた。その現実に感謝して、子どもを抱き締めて泣いた。



「本当は今すぐに此処に引きずってきて殺してやりたいのよ、あの男を」
 赤くなった目元を擦り、彼女はヴァン・ショーの入ったマグカップに口をつける。そして盛大に溜息を吐いた。
「でも……あの子を生み出してくれたことを心から感謝もしたい。どうしたら良いのかしらね……」
「それは僕も同じですよ」
 少年はククッと短く笑う。ちっとも困ってなどいないように見えて、彼女はまた溜息を吐いた。
 とても十一才とは思えない雰囲気。これで少年の正体を知っていなければ『子どもらしさの欠片も無い少年』で済んだだろうに、と。
「まあ、放っておいても害はないでしょう。あの子のことが露見して困るのは、あの狂科学者なのだから」
「あれで結婚当初はまともな人だったのだけれどね……それで、あなたは?」
 やっぱり考えは変わらないのかしら?と、彼女は眉を下げる。少年は、変わりません、ときっぱり言い切った。
「最初のお約束通り、僕は七日であの子の人生から綺麗さっぱりいなくなる」
「……此処にいて良いのよ?此処でずっと一緒に暮らせば、」
「それでは万が一にも僕の正体が露見した時、貴女に責任を負わせることに。それではあの子は平和に暮らせない」
 コーディネイターの成人年齢まで十分に暮らすことが出来る資金を渡してもらう。それと引き換えに、自分はあの子の人生に一切関わらない。
 それが彼女と少年の間に交わされた最初の約束だった。少年にとって最上の条件を、彼女は受け入れてくれた。あの子は平和に生きることが出来るし、自分もプラントでコーディネイターとして生きていくことが出来る。全てが少年の願う通りになる。
「貴女は、あの子のことだけを考えてください」
「……分かったわ」



 大きなベッドの中で、頭から布団をすっぽり被っていた。胎児のように丸くなって眠る子どもの白く柔らかな頬に触れて、少年もそのベッドへと身体を滑り込ませた。
 さして深い眠りではなかったのか、子どもはぱっちりと目蓋を開いてしまう。
「おや、起こしてしまったかい?」
 子どもは黙って首を横に振る。
「眠っていなかったんだな」
 少し間を置いて、小さく頷いた。
「どきどきする。いいにおいのするふくも、ふかふかのおふとんも」
「きっとすぐに馴染むよ」
 ぽんぽんと一定の間隔で背中を優しく叩いてやる。子どもは小さな手で少年の着ている寝巻きを握りしめた。

ーーずっとこうならどんなに良いだろう。

 少年は彼女の誘いを思い出す。この屋敷で、家族としてずっと一緒に。それはおおよそ、初めて与えられた人並みの平凡な愛情だった。そう出来たら、どんなに良いだろうと思う。
 しかし、それでも自分は此処にいるわけにはいかなかった。物心付くか付かないかのギリギリの年頃である幼子が、過ごしてきた今までの全てを曖昧に朧げにしたいならば、今しかない。
 この子どもには、とにかく普通に育って欲しかった。平凡に穏やかな世界で、世界に蔓延るあらゆる禍々しいものとは無縁の、光の中にいてほしかった。
 だからこそ、人間の業の塊のような、出来損ないの自分が一緒にいてはならなかった。

 幼子の目は眠たげではあるもののまだ開いている。しかしながら、これ以上起きていると健康上宜しくない。
「眠れないか?」
「もう、ゆめ、みてるよ。めをとじたら、なくなっちゃいそう」
 背中を優しく叩いてやりながら、少年はふと思いたって小さな声で歌を口ずさんだ。自分も緊張しているらしく、多少声が上擦る。
「それは、なあに?」
「そうだな……今の幸せが、ずっと続く『おまじない』だ。次に目覚めても、なくならないように。これで大丈夫」
「ほんと?」
「ああ。だから安心して目を閉じて、ゆっくりおやすみ」
 漸く目を閉じた腕の中の存在に向けて、少年は歌の続きを口ずさむ。
 古い異国の言葉。何か物語の中にあった歌だったはず。眠らせる為に吐いた嘘ではあるが、安心できるならば良いだろう。
 どうせ此処にいる七日間だけだ。此処を出たら、自分は二度とこんな風に平凡に暮らすことはない。だから、此処にいる間だけは全て何もかも忘れていよう。
 最後の日まで。この子と別れるまで。
 それまでは、世界にただ一人しかいないこの子の父親でいよう。

「おやすみ、イザーク」

 すぅすぅと幼子が寝息を立て始める。
 穏やかに微笑んだ少年も、それを追いかける為に静かに目蓋を閉じた。

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これが奇譚の事始め。


2020.4.4 花房ユギ









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