三日間連続での徹夜の仕事を終えて帰宅が許された正午。天城カイトが自宅マンションの玄関を開けたら床に神代凌牙が転がっていた。何色もの絵の具が塗り重ねられた青いキャンバスが立てかけられたイーゼルの前でアイボリーのブランケットに包まっている彼は、はっきり言って邪魔だ。邪魔でしかない。ついでに言うとここは基本土足仕様の部屋だ。どんなに行き届いた掃除をしていたとしても、床は汚い。どんな神経をしているんだと内心で罵倒しながら、しかしこの状態の彼がどんなに起こしても無駄だということは分かっているから無視するに限る。
 コートとマフラーをポールスタンドに掛けて、ふと見ると部屋の隅にあるケージの主がノロノロと動いていて何かを訴えているように思えた。しゃがみこんで膝をつき、様子を確認するが、ケージの中は清潔に保たれていて異常はない。おかしなやつだ、と首をかしげる。
 ケージの主は凌牙が愛育しているリクガメで、名前は『ミケ』という。一時期日本を出ることになった際に七皇達が暮らす屋敷へ宅急便で送ってからは離れていたが、この度目出度くカイトの家で暮らす凌牙が引き取って来たのだ。

 亀なのにミケという名前が付けられていることを笑う人間もいるだろうが、これにはれっきとした理由がある。
 ミケは元々、凌牙の祖父の元にいた亀だった。病気で祖母を亡くして一人になってしまい塞ぎ込んでしまった祖父のために、凌牙は璃緒と共に父にお願いしてこのリクガメを買ってもらい『ミケ』という名前を付けて祖父にプレゼントしたのだという。その祖父というのは実は大変な愛猫家だったが、自身はアレルギーを持っていたために猫を飼うことが叶わなかった。その代わりに亀。幼い孫が祖父に長生きしてほしいとの思いもあったのだろう。泣ける話だ。
 結局、凌牙の祖父は彼が小学校を卒業する年の春に亡くなって、後には大切に育てられていたミケだけが残った。そしてこの兄妹の元に再び戻って来たというわけである。

 ミケの様子を観察していると、「うう、」と小さな呻きが聞こえた。凌牙が深い眠りの世界から戻りかけている。カイトは立ちあがってその傍に行き「起きろ」と声をかけた。が、凌牙は大人しく目覚めない。ので蹴る。仕方ないのだ、こうでもしなければ起きやしない。
「凌牙、起きろ」
 しかし起きない。カイトは深々とした溜息を吐くと、凌牙が被っているブランケットを勢い良く引っぺがした。重力に逆らえない凌牙の体は音を立ててその場に落ちる。ゴツン、と強く鈍い衝撃音。あ、これは死んだ。
「……いてえ」
――石頭め。
「気の所為だろう」
「あーそうかも」
 欠伸をした凌牙が寝ぼけ目を擦りながら起き上がり、カイトを見る。いつ帰って来たのかと聞いていた。
「さっきだ」
「何時?」
「十二時」
  あちゃあ、と凌牙が表情を険しくする。流石にここまで長寝するつもりはなかったとぼやいてパタパタとキッチンへ向かった。薬缶を火にかけてから戻ってきたその手にあるのは緑豊かな青梗菜。
「悪いな、ミケ。腹減ってたろ」
「なんだ。今までずっと寝ていたのか」
「一昨日からずっとかかりきりだったからな。眠くて」
「仕事か?」
「あー、CDのジャケット。終わった」
 カイトはイーゼルに立てられたキャンバスを手に取る。垣間見える影や光の他は、只管青い。澄んだ青空の色ではないそれを見ていると、真っ暗で深い青の底が見える気分になる。凌牙はそんな絵を描くのが得意だった。
「相変わらず、引きずり込まれそうだな」
「何処に」
「青の中へ」
「そう」
 昔、凌牙を支援していたという老紳士もこの青に惹かれたのだろうか。この青の奥深くにある、真っ暗な底で凌牙が見ているものは一体なんなのか。カイトは青いキャンバスを見つめながら考える。
――絶望だ。
 凌牙が煙草に火を付けた。白い煙を吐き出しながら、ミケの甲羅を撫でる深い色に染められた爪。
 薬缶がけたたましい音を立てて人を呼ぶ。珈琲を淹れるというので、カイトは自分の分も頼んだ。トレイの上にはマグカップが二つと角砂糖。凌牙が七つ放り込んだのにカイトが眉を顰めるのはいつものことだ。
「なあ」
 ソファーに座って適当な映画を見る。甘くなった珈琲を飲みながら凌牙はぽつりと呟いた。

 あの日、終焉の淵で青を見た。あの瞳の奥に青い世界が見えた。純粋無垢な無生の青。それが凌牙を救った。そして絶望させた。
 理屈を薙ぎ倒す絶望に、本能は終わりを知る。

「俺にはあれが、赤に見えるんだよ」

20150216



 
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