ギムレットには早すぎる



 天気予報なんてアテにしてはいけないものだと最初に思ったのは小学生の頃。「今日は午後から雨だから傘を持って行きなさい」と言う母親の助言に荷物が増えてが重くなると不貞腐れながらも受け入れたは良いが、結局空は下校の時間まで憎らしいほど青く澄み渡っていた。同級生の子ども達から「天気が良いのに傘を持って来た」と馬鹿にされたのが悔しくて、以来、天気予報を鵜呑みにしてはいけないということを常日頃、肝に銘じて生きてきたのである。
 そんな彼、神代凌牙ことナッシュは窓ガラス越しの土砂降りに視線をやりながら赤黒い洒落た箱から煙草を取り出すと、火を点けて白煙を漂わせ始めた。
 暖房の前でくるんと丸くなっていた生き物がそれを嗅ぎつけたのか、不機嫌極まりないと言った様子のまま起き上がると鼻を摘まむ。
「なぁ、クセェんだけど」
「ああそう」
「……うわ何これくっさ、ありえねぇ!アンタの煙草いつもこんなじゃねーだろ!」
「文句があるなら出ていくんだな」
 大きな鮫の可愛らしいクッションを抱きながら文句を口にするその生き物に、凌牙は一瞥を送ってから徐に立ち上がった。キッチンのコンロに乗せた鍋に牛乳を開け、火にかける間にマグカップを用意して刻んだチョコレートを入れる。
「ありえねぇ。そんなの吸える変人」
 文句を続けながら、テーブルの下においてあった缶を彼が開けた。中に入っていたのは凌牙が今吸っているものとは違う煙草。一箱千円也。
「おいこら。何してやがる」
「自分のが切れたんですぅ」
「買いに行けばいいだろ」
「え、ナッシュちゃん金出してくれんの?やっだ太っ腹」
「ふざけんな」
 思い切り殴って生き物を大人しくさせると、設定したアラーム音が響いてきた。マグカップに温めた牛乳を注ぐと、スプーンで中身をかき混ぜながら凌牙は座っていた椅子へと戻る。デスクの上には資料やら教科書やら本やらが重なって置かれてあり、ノートパソコンのデスクトップは薄暗くなりかけた部屋で唯一、煌々と光るものであった。
「レポート?」
「ただの感想文だ。外国文学」
「ああ、月曜のか」
 三週に一度、読み終えた小説の感想を書いて提出。これが単純計算で五回。テストも無いし小学生かと思うような楽な授業だと思い受講したのだが、これがなかなか骨を折るものだった。何せ他の講義やらバイトやらの時間の合間にやらなければいけない。言ってしまえばそれが想像していた以上に大変だったというだけなのだけれど。
「あれだろ?一年の時にバイト先紹介してもらったっていう教授の……そういや今日バイトは?」
「二十時からラストまで」
 気にも留めないように振り返りもせず、凌牙は彼の声を背に受けながらキーボードを叩き始める。
 冬休みに旅行の予定を立てているらしいと言っていたのは彼の妹。私の知らない間に決めてたのよ、と不機嫌を隠さずに彼女はいじけていた。
 面白くないと鼻を鳴らす。
「冬休みに旅行だって聞いたぜ?良いねぇ大学生って感じ!誰にも邪魔されずにおてて繋いでイチャコラして、夜はベッドの上でギシギシアンアンして『俺達幸せです愛し合ってますラブラブなんですぅ』てかァ!?気持ち悪ィったら」
「ーーベクター」
 マグカップのホットチョコレートを一口飲んだ凌牙は、つらつらと流れる言葉を遮るように彼の名を呼んだ。ベクターは「キモいキモい」と馬鹿にするように連呼して下品に笑っていたのを止めて、視線だけを凌牙に寄越す。
「八つ当たりもいい加減にしろ。何だって俺が毎度毎度テメェらの馬鹿みたいなくだらない痴話喧嘩に巻き込まれなきゃなんねぇんだ」
「なんだと……?」
 ガタッと音を立てて立ち上がったベクターは、衝動的に凌牙をデスクの椅子から引き摺り下ろして胸倉へと掴みかかる。
「あれのどこがくだらねぇ痴話喧嘩だって!?」
「くだらねぇよ。それに本気になって家飛び出して、半月も俺の家に住み着いてるお前もな。馬鹿馬鹿しいにも程があるぜ」
「テメェ……!!」
「本当のことだろ?だからそうやってお前は暴力に頼る。図星だから反論できないんじゃねぇか」
「うるせぇ!!」
「っていうか大体、相手が違うだろ。俺とお前がここで喧嘩してたって何の解決にもならねぇんだから」
「あの野郎と話しても拉致が明かねーし、顔も見たくねぇんだよ!それとも何かァ?テメェは今すぐ帰って俺様が彼奴に謝れって言うのかよ?なんで俺が!?そもそも悪いのは彼奴」
「なら別れろよ」
 意表を突かれたように、ベクターは目を見張った。掴まれた胸倉もそのままに、凌牙は冷めた眼でベクターを見ている。
「そんなに許せないなら別れた方が良いぜ」
「ッ……」
「勘違いするな。俺はお前が煩わしいから極論を言ってるんじゃない。けどな、お前がそこまで彼奴のことを許せないっていうなら別れた方がお前の為だと思ってんだよ」
 ベクターの手が緩む。掴まれたシャツの胸元が皺になっていたけれど、凌牙はたいして気にしない。整えて、一呼吸置いてからもう一度ベクターを見た。
「ミザエルと別れて、お前好みで趣向が同じ男でも女でも、探した方が良いんじゃねぇの?」
 唖然とした表情でいたベクターだったが、凌牙から顔を逸らすと唇を噛み締めて肩を震わせる。そうして暫くすると徐に立ち上がり部屋の隅に置かれたベッドに逃げ込んでしまった。
「お前の好きにすりゃあいいけど」
 いつの間にか外は先程までの土砂降りが嘘のように止んでいる。煙草を灰皿に押し付けて揉み消す。天気予報によれば今夜は曇りで、明日は晴れ。傘を持ってでる必要はなさそうだ。
「取り敢えず、俺が帰って来てもいるようなら家賃と生活費の半額出してもらうぜ」
 黒い革のトートバッグを手にコートを羽織ると、赤いマフラーを巻いた凌牙は部屋を出て行った。


「ふーん……じゃあベクターの奴、今はお前の部屋にいるのか」
 カウンターに座って話を聞いていたトーマスはラスティ・ネールを口に含んだ。グラスの氷がカラン、と響く。店内ではシャンソン歌手の女が一曲を歌い終わったところで、客から疎らに拍手を貰っていた。
「良い女だな。名前は?」
「ディアナ。スウェーデン人のハーフで年は三十二」
「年上か……益々良いじゃねぇの」
「やめとけ。お前の兄貴の女だ」
 品定めするように彼女を見ていたトーマスは途端、顔を顰める。
「……信じらんねぇ」
 何人目だ。指折り数える青年に、グラスを磨きながら数えるだけ無駄だと笑う。クリストファーのそういった恋愛スタンスが凌牙は嫌いではない。
 そこへ、黒いドレスの女が客の賞賛に応えながらやって来た。時計は十時を回った頃。
「凌牙、キティをお願い。それから彼方のテーブルの男性にブルームーンを差し上げて」
「またか」
 セミロングのプラチナブロンドがふわりと揺れて、きつ過ぎないフレグランスが香る。
 指定されたテーブルに座る紳士風の男に薄紫のブルームーンを作り持っていけば、彼は眉を八の字に下げて溜息を吐いた。こんな客は、珍しくない。
「ーー今日はお客さんも疎らねぇ。最近新しく出来たっていうお店に流れちゃってるのかしら?」
「目新しいものが珍しいだけだ。ウチとは趣向が違って、どこにでもあるような居酒屋だったぜ。すぐに落ち着くだろ」
「あら、リサーチ済み?お早いこと」
「するに越したことはねぇよ」
 彼女が鈴の音のような声で笑うのを聞きながら、トーマスはグラスを空にした。ステージでは男性のピアノ演奏が流れ始める。
「ふふっ……そういえば凌牙、こちらはお友達?紹介していただけるかしら」
「ただの腐れ縁だ」
「うわ、ひでぇ」
 拗ねるトーマスが今度はマティーニを注文する。
「飲み過ぎんなよ。ーーディアナ、トーマス・アークライトだ」
「あら、クリスの親戚?」
「話が出たことあったろ。アメリカに行ってた上の弟」
 簡単に紹介をし合って、トーマスは挨拶に彼女の手の甲へキスを贈った。流石は英国似非紳士。猫を被るのはお手の物。
「テレビでお名前を聞いたことがあるわ。プロのデュエリストさんね」
「ここ数年は海外の方で活動していたんですが、日本へ戻って来たんですよ」
「アメリカでは無敗だと聞いていたけれど……わざわざ日本に戻って来たのは、まだ倒してない相手がいるからかしら?」
「ああ、うじゃうじゃいます。凌牙もその一人ですよ」
「今度の大会を楽しみにしてるわ。ーーところで凌牙、例の騒動はどうなったの?」
 薄紅色の唇を微笑ませて、彼女は首を傾げて見せた。凌牙はむぅと唸る。
「その様子じゃ、仲直りしてないのね」
「別れるかも」
「あらあら……」
 キティの細長いグラスを口に運ぶ彼女に「ディアナ、もう一曲」と声がかかり、美しく微笑むと席を立つ。
「青春ね。でもギムレットには早すぎるんじゃないかしら?」
 小説の名台詞を口にしてカウンターを後にしたディアナは、ピアニストと一言二言会話を交わしていた。それを眺めながらトーマスもマティーニのグラスを傾ける。程なくして、フランス語の儚い恋と失恋の悲しみを唄う声がピアノの演奏に寄り添って流れた。

 時刻は午前一時。客がいなくなり静まった店内で、凌牙は窓の外を睨みつける。やはり天気予報なんてアテにしてはいけなかったのだと唇を尖らせた。しとしとと雨が降っている。誰だ今夜は雨なんて降らないとか思った奴は。俺だ。
 時間潰しの為にと作ったモスコミュールを飲みながら、さてどうするかと考えていると「神代くん」と呼ぶ声は白髪混じりの老紳士。店のマスターだった。
「お迎えが来ているよ」
「……迎え?」
「何だったら一緒にもう少し飲んでいくと良い。店の奢りだ。二時半までなら好きにして構わない。帰る時に声をかけてくれ」
 そうして店に引き入れて来られたのは思ってもみない人物で、マスターは微笑み「ごゆっくり」と告げて自宅として居住している二階へと姿を消した。
「……どうしたんだよ」
「どうせ傘を持たずに出掛けて、店で立ち往生していると思ってな。正解だったようだ」
 お見通しだと言わんばかりの表情にムッとなったけれど、図星なので騒ぎ立てはしない。
 凌牙はカウンターに立って彼の注文を聞いた。カルーソー。グラスを差し出せば彼、天城カイトは一口飲んだ後に口を開いた。
「すまなかった」
「何が」
「昨日のことに決まっている。ーーあれは俺が言い過ぎた」
「……ああ」
 凌牙は口数も少なく酒を口に運ぶ。カイトの方から素直に謝罪してくるなど珍しいことだ。
「だが、そういう人間もいるのだと覚えておけ」
「……俺も悪かった。勢いで、つい言っちまって」
「あそこまでお前に言わせてしまったのは俺だ。気にすることはない」
 カイトが微笑みを浮かべたので、凌牙も漸く笑う。
 仲直りさえ終われば後はもういつもの二人だった。迎えに来たは良いけれど、そういえば傘が一本だとか、明日は久々に一日休日が貰えただとか、いつものような何気ない会話に花を咲かせる。
「そういえば」
 グラスの酒を何方ともなく飲み干してグラスを片付けた頃、カイトが思い出したように同僚の名を口にした。
「ミザエルからメールが届いていた。お前に迷惑をかけたと」
「ああ、ベクターのことだろ。ってことは帰ったのか」
「というかあの二人、まだ喧嘩していたのか……」
 一体どんな原因だったんだ。呆れを通り越して感心したようなカイトに、凌牙は「泣ける話なんだよ」と溜息を吐いた。
「知っているのか?」
「知ってる。号泣もんだぜ?ハンカチの準備しとけ」
「良いから聞かせろ」
 呆れた笑みを浮かべ、凌牙は告げた。自分達とたいして変わらない理由だ。
「ーー鍋の出汁は昆布か鰹節か」





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