呆気にとられるばかりだったミハエルは、はたと気が付いて自分の浴衣を見直す。けれど何処も着崩れてはおらず、綺麗なままだ。

「兄様。あの、何処か変ですか?」
「ん?いや、何処もおかしくは……あ」

 短く呟いて、笑ってしまう。さっきからずっと一緒だったのに、と。

「お前、合わせ逆」
「――本当だ。いつも練習してたのと逆になってる」

 でも洋服の時と同じ合わせだから良いんじゃないですか?と尋ねるミハエルに、トーマスは「馬鹿」と呟いた。璃緒に着付けを習ったらしいが、何故左前が駄目なのかという理由を教え忘れたらしい。

「男女で合わせが違うのは洋服の時だけだ。和服でそれじゃ、死装束なんだよ」
「し……!?何で早く教えてくれないんですかぁ!!」
「俺じゃなくて凌牙に言えよ!それか璃緒に!」

 言い合いながらトーマスは着替えても問題のなさそうな人気のない場所を探す。花火は八時からだ。時間はまだまだたっぷりあった。人気のない、というと。露店の立ち並ぶ祭りの会場を一度出た方が得策かもしれないと考えて、トーマスは再びミハエルの手を引いた。
 笑う声と二人の足音は距離を広げる。ミハエルが一度振り返ったけれど、鬼灯の簪はもう見えなかった。



「なあなあ、ナッシュちゅわ〜ん」
「キモイ」
「超ひでぇ」

 そういうシンプルな言葉が一番傷付くわぁ。突然後ろから抱きついて来たニヤニヤと笑うベクターが本当に傷付いているのかと言うことは置いておくとして、「なんだ」と凌牙は尋ねる。尋ねなければ果てしなく拗ねて後々面倒になるから。

「――ってのは冗談として。良かったんかい、あれで」
「何の話だ」
「ちびっこパパの次男三男」
「ああ。今頃浴衣直すと称して乳繰り合ってんじゃねぇの?」
「だからそれが良いのかってことだっつの」
「良いんだ。俺がいるからくっつかねぇんだから」

 邪魔なのは俺なんだよ。凌牙が抱えた鮫のぬいぐるみを抱え直す。

「お前からすれば邪魔なのはミハエルじゃねぇか」
「ミハエルがいないところでトーマスは俺のことを好きにならないだろ。良くて同情だ」

 あいつに同情されるくらいなら俺は死ぬ。真面目な顔で言う凌牙に、「もう死んだじゃねぇか。二、三回」と切り返そうかとも思ったが、今ここで果てしなく拗ねられたら自分の命が危ない。これから合流するメラグ的な意味で。折角なので大事にしたいこの命。オトウサン、オカアサン。あなたの息子は自分の命を大切に出来る子になりましたよ。

「今は同情ですらない。だから良いんだよ」
「そんなもんかねぇ」
「そんなもんだろ」
「ま、アンタが良いなら良いわ」

 凌牙の腕に抱えられている鮫の口先を、ベクターがピンッと指で弾く。
我ながらすっかり毒気を抜かれて丸くなったものだと思っていた。殺したい程大嫌いで、一度は殺した男が自分の隣で呑気にぬいぐるみを抱えながら林檎飴を齧っている。それが今のベクターには嫌じゃない。遊馬と、そしてアストラルのせいかもしれないと短く喉の奥で笑った。

「お、レインボーアイスだって」
「ああ?」
「食いたい」
「テメェもういっぺん一億ポイント貯めてやろうか」

 前言撤回。こんな奴やっぱり大嫌いだ。



 露店の並ぶ会場から離れて駐車場の方へ。公園と言う歯の遊歩道が敷かれた林の中に上手く紛れてしまえば、恐らくは分からないだろうと言うほど、背の高い木々はうっそうとしていた。林と言うか、最早これは森といった方が良いのではないだろうか。林と森の違いなど良く分からないけれど、とトーマスは心の中でごちた。

「ほら」
「え……あ、兄様。僕自分でやります」

 しゅっと音を立てて赤の兵児帯が解かれ、腰紐も同じように地面に落ちた。しっかりと左前になっていた合わせが緩るんで、肩から真っ直ぐに落ちる。
 合わせを逆に直し、浴衣の衿を持ちあげたトーマスは、ミハエルが下着として着ているランニングシャツの胸元に覗く白い肌と胸元に突如としてあの時を思い出した。そしてそれが最後、襲ってくるのは性的な欲求だ。

「……」

 思えば凌牙の世話を焼くようになってから、随分とご無沙汰なのである。まだ誕生日を迎えていない十七歳のままの彼にとって、生まれた欲求を無視し続けることなど到底出来ない。

「トーマス兄様、浴衣を着付けられるんですね」
「……一昨年、花火を見に行くのに覚えた。雨で中止になっちまったが」
「そうだったんですね」

 知りませんでした。そう微笑む弟が可愛い。

「この浴衣」
「え?」
「似合うな」
「――ありがとうございます。璃緒ちゃんに貰ってから兄様に内緒にしてお披露目するの、楽しみだったんですよ」
「凌牙のだろ?」
「はい。一昨年仕立てたんだけど、使わなかったらしいんです。去年は去年で……あんなことがあったから」

 今年は新しいのを仕立ててもらったらしく、譲ってもらったのだと話す弟が、本当に可愛い。
ふと、この浴衣を凌牙着ていたとしても、恐らくは似合わなかっただろうとトーマスは思った。それはあの頃の自分が、無意識にやったことだったのだろうか。己の願望が、そうさせたのだろうか。

『お前、昔から“弟が、弟が”って煩かったし』

 あの日の情景が目に浮かぶ。ずぶ濡れのまま、ミハエルと抱きあった唯一の日。今になって思えば、彼を抱くつもりが、いつの間にか彼に抱かれていたようにも思う。

『凌牙の代わりに、僕を暴いて』

 そして思い出した。あの日、兄弟云々など関係なくミハエルを酷く愛おしく感じたということを。
そしてその愛しさの記憶があの頃のトーマスを支えていたことに、漸く気が付いていた。

「トーマス兄様?」

 手が止まったままで自分をじぃと見つめて動かないトーマスに、ミハエルは心配そうに眉を寄せる。そっと手で右頬の傷を撫でればトーマスの手が衿から離れた。
 そしてその手がミハエルの手に重なり、頬から剥がされる。

「兄さ」
「好きだ」

 凌牙はきっと最初から分かっていたのだ。トーマスの心の中に誰がいたのか、きっと、最初から。言わなかったのはせめてもの嫌がらせか。全く聡い男だと心の中で笑いながら、ミハエルと唇を重ねる。

「お前が好きだよ」


  兄が何を言っているのかちょっと良く分からない。先程から分からないことだらけだ。凌牙の言ったことも、トーマスが言ったことの意味も分からない。
 ただ、キスをされた。好きだと言われた。それだけが今のミハエルが頭の中で理解できたことだった。

「好きって……誰が誰を、ですか」
「俺がお前を」
「う、嘘だっ!」
「なんだミハエル。お前、俺の言葉が信じられないのか?」 
「だってトーマス兄様は……だから、僕は、」
「俺も自分では気が付いてなかった。気が付かせてくれたのは、凌牙だ」

 あの日、お前を抱いたのも。愛しさが込み上げたのも。微笑む顔を可愛いと思うのも。

「今お前に欲情してるのも、きっと」
「よっ!?!?」

 ミハエルの目が白黒させる。何を言ってるんだこの人は!!

「と、トーマス兄様は凌牙が好きで……だから、」
「俺が好きなのはお前だ」
「諦めなきゃ、駄目で、だから……ッ」
「お前が好きなんだ」

 再び接吻をされた。ミハエルの大きな瞳から、つ、と雫が伝う。

夢でしょうか?兄が、自分を好きだと言うのは。
夢でしょうか?兄が、自分に接吻しているのは。

「ぼく、も……」

夢でしょうか?夢なのでしょうか?

「僕も、トーマス兄様が、好きです……!」

――夢ではない。兄は、確かに自分を抱きしめている。




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