綺麗に着付けられた浴衣姿を姿見に映したミハエルは、パアッと表情を輝かせた。水色の浴衣には薄っすらと桜の花弁が散っており、赤い兵児帯は双輪結びにされている。髪には簪が挿されていて、モチーフの蝶が愛らしく髪に止まっていた。
「わぁっ!」
「よく似合っているわ」
――凌牙の言った通りだわ。どう見ても女の子ね。
余計な一言であろう言葉を如何にか飲み込んだ璃緒は、目の前にいる少女、もといミハエルを見て満足そうに頷く。男性物のはずなのに少女に見えてしまうのは、流石は特注品と言った感じの色合いのせいだろう。男性物の赤い兵児帯などあまり見かけない。因みに簪を挿したのは完全に璃緒の趣味だ。
「簪はちょっと試してみただけだから本番には挿さないけれど、大体の仕上がりはこんな感じよ。兵児帯だから帯を結ぶのも簡単だし」
「ううん……僕にできるかなぁ」
「その為に私がいるのよ。花火大会までにしっかり覚えて練習しましょ」
「よろしくお願いします、璃緒先生!」
浴衣を脱いで畳み、璃緒が練習用に持ってきた比較的安価な浴衣と帯を椅子に掛ける。浴衣を肩から真っすぐ落としてから衿を持ち、両手を広げて背中の縫い目を中心に合わせていく。
「――そう、紐を身体の中心より少し横で左右を重ねて……うん。それで下の紐を身体側の紐に二重に回して」
左右を横に引き、紐の残りを脇に挟みこみ、中心がずれないように余った部分を脇へ持っていく。皺を脇に寄せたり衿を深く合わせたりして前を整える。その状態で璃緒のチェックが入った。ふむ、裾が少し開いてしまっている。
「もう一回」
「ええ!これで五回目だよ!?」
「今度は裾がスカートのようになって開いているわ。これじゃあ格好が悪いし、すぐに着崩れてしまうの」
「うう……」
ミハエルは元来の自分の不器用さを呪った。西洋人の彼はただでさえ和服なんてものに親しみがなかったのに、その上不器用とくれば簡単なはずのものも人の倍時間がかかる。
メソメソと涙を浮かべつつ、しかし、もう一度浴衣を背中の中心に合わせるところから始めるミハエルの手つきはだいぶなれたものだ。
「ねぇ、璃緒ちゃん」
「なにかしら?」
手元を動かしながら話す余裕も生まれており、ミハエルは自分を気にしつつ文庫本を捲る璃緒に話しかける。
「凌牙、何かあったの?トーマス兄様がここのところずっと凌牙に会いに行ってないみたいなんだ」
「……先週の事で凌牙のお人好しに付き合いきれなくなったんじゃないかしら」
「ベクターに会いに行ってたってやつ?」
「私は凌牙が良いなら良いかなって思ったけれど、あの人はそうじゃなかったのかも」
あの人や貴方達にとってベクターは、最初から最後まで敵だったから。
しっかりと裾を合わせて帯紐を縛り、順に過程を済ませていく。姿見の前で一回りしてチェックし、璃緒による最終チェック。
「上出来!合格よ」
「やったあ!」
「お疲れ様。じゃあ今日はここまでにして、今度は明後日にしましょう。次は帯の結び方ね」
兵児帯だから簡単よ。人差し指を立ててウィンクして見せる璃緒に、「ああ、また絶対人の倍の時間がかかるな」とミハエルは一瞬遠い眼をする。
「今日はもうやらないの?」
「一つずつしっかりやったほうが良いと思って。確認テストするから明日はしっかり練習しておいて」
「はぁい」
片付けと着替えを済ませてリビングに戻ると「お疲れさま」とバイロンが見ていたテレビからミハエル達に視線を移した。
「バイロンさん。今日は研究所には行かれないの?」
「ここ最近缶詰めだったから、お休みにしたんだよ」
――僕はまだまだ若いからどうってことなかったんだけど、フェイカーがねぇ。老体は労わってあげなきゃでしょう?
冗談めかして笑みを浮かべるバイロンに、璃緒は鈴の音のような声で笑う。ミハエルがいそいそとお茶を出す準備を始めた頃、タイミングを見計らったように遊馬から着信が入った。
「いいよ。僕が運ぶから」
「すみません父様」
ティーセットの乗ったトレイをバイロンに預け、ミハエルは通話を受信する。もしもし?と話しながらどうも夏休みの課題のことで聞き漏らしたことがあるという遊馬の用件に、ミハエルは自室に戻った。
「フフッ……思えば君と二人っていうのは、初めてかもしれないなぁ」
「あら、そうだったかしら?」
「そうだよ。そのうち、そのうちって先延ばしにしちゃってたから……本当はもっと早く顔を見て、謝らなきゃいけなかったのに」
紅茶を注いだティーカップを幼い手から受け取って、璃緒は「もういいの」と微笑みながらその琥珀色に視線を落とす。
「でもこれは僕のけじめなんだ」
ティーポットをテーブルに置いてバイロンが璃緒に向き直ると、彼はティーカップを持つ手に自分の手を重ねた。
「僕が君達兄妹を巻き込んでしまったがために、あんな運命を引き起こしてしまった。――本当にすまない」
「……いいの。あれはもう、終わったこと。今更どうしようもできない過去の出来事よ。それに、」
「それに?」
「貴方がこの運命に私を連れてきてくれたの。全てを知って、全てが上手くいって、みんなが幸せになれるだろう未来に」
今度は少女の手が幼い手に重なる。
「ありがとう、バイロンさん」
暫しの間目を丸くしてきょとんとしていたバイロンは、何度か瞬きをするとふっと瞳を細くさせた。
「……だとしたら僕達がしたことにも意味があったのかな」
「あら、生きていく上で意味のないことなんてありませんわ。苦しいことも悲しいことも」
「そうかな?」
「きっとそうよ」
テレビの音だけが効果音だ。バイロンは璃緒の手から自分の手を離し、肩を竦めながらも頷く。
――そうだと良いね、誰にでも。
「凌牙もそう思ってくれていたら良いけど」
あの子、大丈夫?最近。定位置であるロッキングチェアに戻りながらそう尋ねると、璃緒は少しだけその表情を寂しそうにした。けれど大丈夫だと答える。
「最初の頃みたいな自殺未遂騒ぎは、もうないでしょうから」
それは事件解決から間もない頃のこと。凌牙は何度か病院へ担ぎ込まれることがあった。それは朝昼夜問わず、手首を切ったり睡眠薬を多量に服用したことによるものだったりと原因は様々で、けれど目を覚ました凌牙が言う台詞はいつも同じだった。
『 』
最後にその言葉を聞いたのはもう半年ほど前になる。
「余程あの最期の時のが効いたんだね」
“逃げる気か”
「……癪だけれど、感謝してるわ」
「おやおや」
二人は同時に顔を見合わせると、くすくすと笑った。
『うあー助かったぜミハエル!』
「遊馬。言っておくけど夏休みの終わりになってやってないって言っても見せてあげないからね」
『へへっ。大丈夫、任せとけよ!』
D・ゲイザー越しに笑う遊馬に、ミハエルは「本当かなぁ」と溜息混じりに笑って見せる。本当だって、と唇を尖らせて拗ねる遊馬は最初に合った時とちっとも変わらない。
『あ、そうだ。なあミハエル』
「なに?」
『花火の事なんだけど。あの、さ……』
そんな遊馬が珍しく言葉を歯切れを悪く濁らせる。視線を逸らして目を泳がせる遊馬にミハエルは少し怪訝そうな目を向ける。
「どうしたの?行けなくなったとか?」
『いや、勿論行くぜ。あったり前じゃんっ!ただ……その、』
「どうしたのさ。口ごもったりして」
言い辛いことなの?と問えば遊馬は暫し間を開けて、しかし意を決したように顔を上げた。
『オレ、シャークのことも誘いたいんだ。でも一人じゃ流石に無理かもだろ?だからWに頼んで一緒に来てもらえたら良いかなって思ってさ』
「え……でも遊馬。凌牙は、」
『――分かってる。カイトもシャークのことは焦らずに今は見守っていた方が良い言ってたけど……やっぱりオレ、嫌なんだよ。このままでいるなんて』
先程とは打って変わった強くルビーの瞳が真っ直ぐにミハエルを見据える。迷いも曇りもない、赤。
『焦らず見守って、それで本当に前みたいに戻ってくれるなら良い。でもオレ、このままにしてたら、この先ずっとこのままになっちゃう気がするんだ』
「遊馬……」
『多少強引でも引っ張って来て、俺達が何も変わってないことを教えたい。シャークに、何も変わらなくて良いんだって教えてやりたいんだ』
遊馬の気持ちは分かる。痛いほどに。ミハエルは唇を噛んだ。そうして悩む。今ここですぐさま返事をしても良いのだろうか。D・ゲイザーを持っていない左手をきゅっと握り、拳を作った。
「分かった」
『本当か!?よし、じゃあ』
「でも条件がある。トーマス兄様と璃緒ちゃんに聞いて、どちらかでも駄目だと言ったら今回は諦めて。別の機会を作ろう」
花火大会ってだけで結構ハードル高いからね。そう言うと遊馬は何か言いたげにし口を開きかけたけれど、こくりと深く頷く。
「今璃緒ちゃんが家に来てるから、聞いてみるよ。また連絡する」
『頼むぜ!ミハエル』
通話を切り、自室からリビングに戻れば父が璃緒と談笑していた。なんだか不思議な光景だなと思いつつ、ミハエルもその輪に入った。
「ね、璃緒ちゃん」
「何かしら?」
「あの……花火大会のこと、なんだけど」
「ええ」
「遊馬がね、出来れば、ええと……」
「……凌牙のことね」
先程の遊馬のように目を逸らして視線を泳がせていたミハエルは、その一言に弾かれたようにして璃緒を見た。彼女の瞳は優しく細められている。ミハエルは目を丸くしてしまっていた。
「遊馬が凌牙の事も誘いたいと言ってくれたのでしょう?」
「う、うん。そうなんだ。だから僕、璃緒ちゃんとトーマス兄様に聞いてからと思って」
「そうねぇ」
紅茶を口に運びながら、璃緒は目を閉じる。
「良いわ。どうせトーマスさんと一緒に行く予定のようだし」
「本当!?」
「お祭りの会場で鉢合わせすれば良いんじゃないかしら。トーマスさんとミハエルくんで示し合せて」
「あ、そっか」
「折角の人混みを使わない手はないわよ」
女王の微笑みを浮かべる璃緒に、これであとは兄が了承してくれれば、とミハエルが思う。海外で開催されているデュエルの大会トーナメントに出場しているトーマスがこちらに戻るのは祭りの三日前だ。早急に連絡を取らなければならない。
「トーマスさんには私から連絡を入れておくから心配しないで」
璃緒が帰宅するのを玄関まで見送りに行くと、徐に名を呼ばれた。
「どうしたの?」
「遊馬に伝えてほしいの。――ありがとうって」
「……うん。伝えておく」
『――と、いうことなのよ』
滞在先のホテルで、トーマスは映し出された少女の話を聞きながら深く深く溜息を吐き、酷く悩んでいた。一連のことを報告されて小さく唸りながらこめかみに手をやる。
「凌牙を遊馬達と、か」
『私は良いと思ったの。でも貴方の協力なしには実現しないから……御尽力いただけないかしら』
「確かに、そろそろ良い時期かもしれないが」
そう言葉を紡げば彼女、璃緒の表情はパァッと明るくなった。
「……時間をくれ」
『トーマス?』
「考えさせてほしい」
そう言って、璃緒の返事も聞かずにトーマスは通話を切ってしまう。椅子の背凭れに盛大に体重を預けて息を吐く。
はっきり言って、トーマスには自信がなかった。WDCでトロンの胸中を把握することなど出来なかった自分だ。同じように、凌牙の心の中に今何があるのか。何を考えているのか。見当がつかないでいる。それに拍車を掛けてしまったのは先日、凌牙に最後に会った時に分かった例のことだろう。
徐に先程まで璃緒が映っていたパソコンのテレビ通話のボタンを押した。発信相手を選ぶ。
『――どうした、珍しい。今は海外で大会のトーナメントに参加しているとクリスから聞いたが』
何度かのコール音の後、映し出された青銀の瞳と金の髪に強い安堵を覚えた。最近になって掛けられるようになった眼鏡は、完全には元に戻らなかった彼の視力を補っている。
「さっき、璃緒から電話が来てな」
「ほう」
一連の事を青銀の瞳の青年、天城カイトに話す。カイトは静かに瞼を閉じると、最後まで黙ってトーマスの話を聞いていた。
日本は夜も遅いだろうに、しかも施設に入院している人間に。情けないとは思ったが、頼れる人間は彼しか思いつかなかったのである。
「……ってわけ」
『成程』
大方を話し終えると、カイトは伏せていた瞼を開き、腕を組んだ。ずれたアンダーリムの黒縁眼鏡を直しながら『それで』と尋ねてくる。
『貴様はどう思っているのだ』
「良いことだとは思う」
これは本当だ。凌牙にとって元の交友関係を取り戻せるきっかけになるだろうこの機会は、またと無いチャンスになるやもしれないのだから。その気持ちに偽りはなく、自分もまたそれを望んでいる。
「思うけどな……」
『納得は出来兼ねているようだな』
「もう良い時期なんじゃねぇかと思う。でも、もしかしたらまだ早いのかもしれないとも思っちまう」
今会わせて、もしもまた不安定に逆戻りしてしまったら。今だってまだ不安定には違いないだろうが、もし反動で最初の頃のように戻ってしまったら。そう思うと恐ろしくて、首を縦に頷かせることができなかった。凌牙がそこまで弱すぎるとは思わない。けれど不安は拭いきれずトーマスの中に居座っていた。
「そう考えたら、どうしてやるのが一番なのかが分からねぇんだ」
『貴様は凌牙に構い過ぎる』
呆れるように溜息を吐いて見せたカイトが言葉を紡ぐ。
「どういう意味だよ」
『心の何処かで凌牙が、自分無しでは何もできない人間になっていると思っているだろう』
トーマスが目を見開いた。その反応を見たカイトは『図星か』と目を細める。
『最初は確かにそうだったのかもしれない。だが、今は違う。そして貴様はそれを快く思っていない』
「そんなことは、」
『ベクターの件はそれ故だろう。貴様は今の凌牙が自分の知らないところで思考し、行動しているのが気に食わないだけ。子どもが人形を一人占めしたい我儘と同じだ』
「違う、俺はあいつを」
『“愛している”とでも言うつもりか』
馬鹿馬鹿しい。見当違いも大概にしろ。
カイトが短く吐き捨てた。
『同情と罪悪感で傍にいられても人間は幸せにはならん』
驚愕し、トーマスは目をこれでもかと言うほどに見開く。マゼンタの赤い瞳が揺れて、唇はわなわなと小刻みに震えだした。
カイトだけがそれを至極冷たい眼で見つめている。ナイフのような青銀。恐ろしいはずなのに、トーマスはそれから目が離せない。
『いい加減に気が付いたらどうだ。貴様は凌牙を愛してなどいない』
トーマスの思考が過去へと回帰する。
あの日。そう、バイロンがまだトロンだった時。一家が復讐に囚われ何もかもが醜く歪んで壊れていた時の話だ。無機質な数字を与えられていた、トーマスがアジアチャンピオンになりたてだった頃。
あの日を。凌牙を手酷く捨てた日を、トーマスが忘れるはずはない。