二隻のボート


「ただいまー!」
「おっそい!!アンタ何処で道草して――ん?」

 夕食に使う材料の買い忘れに気が付いた明里が、弟の遊馬に最寄りのスーパーまでお使いに行かせたのが一時間ほど前のこと。買い物して帰ってくるだけならば三十分で事足りるだろうに、約二倍もの時間をかけて帰宅した遊馬を怒鳴ろうと玄関までズカズカやってきた明里は弟が連れたずぶ濡れの少年の存在に気が付いて首を傾げた。

「……おじゃま、します」
「ねーちゃん、バスタオル取ってくれよ。シャークずぶ濡れだからさ」

 濡れた傘を畳みんだ遊馬が傘立てにそれをしまいながら靴を脱ぐ。

「どうしたの。アンタの友達?」
「出掛け先で突然降られたから傘持ってなかったらしいんだよ。家まで帰るのに駅行きのバスも良い時間がなくて、駅まで走って行こうとしてるところで会ったんだ」

 あそこから駅まで遠いのにさー。とバスタオルを明里から受け取って少年に渡しながら遊馬が笑う。「うるせぇ」と小さく呟いた彼は受け取ったバスタオルで濡れた髪や服、肌などを拭う。

「そんで家が近いから引っ張ってきたんだよ」
「ああ、なるほど。災難だったわね」

 最近は天気予報もアテにならないから。ある程度を拭い終わったのを見て明里がバスタオルを受け取る。ありがとうございました、と頭を下げる彼は少し緊張しているような表情だった。このままでは風邪を引いてしまうだろうと考え、バスルームに行くことを促す。

「え、あ、でも」
「その間に服、洗濯しちゃうから」
「あの、俺、」
「ほらシャーク。早く早く」

 問答無用。ぐいぐいと引っ張って遊馬が彼をバスルームに引っ張って行くのを見届けて、明里は着替えを探しに部屋へ足を向けた。


「遊馬。俺は傘を借りに来ただけで」
「でもそのままじゃ風邪引くだろ?シャンプーとリンスがこっちで、ボディーソープがこれな。バスタオルは後で着替えと一緒にここに置いとくから」
「遊馬」
「シャワーの使い方はこれ捻るだけだから。服は洗濯機に入れておいて」
「人の話を聞け」
「じゃあゆっくりなっ!」
「おい!」

 ――バタン。

 あれよあれよと説明されて、凌牙はとうとう一人残される。
 何故こうなったと凌牙は珍しく頭を抱えた。自分は愛機を修理に出すために行きつけの店に出掛けただけであり、その帰り道に運悪く雨に降られて遊馬と遭遇し、傘を借りるために遊馬の家を訪れたにすぎない。それなのに何故、自分は今彼の家の脱衣所にいるのか。
 バスルームのドアを開ける。温かい空気と、湯気の立つ随分と古い形の湯船に張られた湯。水を含んだ服からも、濡れて頬に張り付く髪からも、冷えきって冷たくなった体も、ここに入れば解放される。
 凌牙はがっくりと頭を垂れて、『帰る』という選択肢を頭から追い出した。


「遊馬。あの子、名前は?」
「え?シャークだけど」
「そうじゃなくて本名よ」

 揚げ物をしながら明里が難しい顔をするのに対し、遊馬は「なんだそっちか」と笑みを浮かべる。

「神代凌牙って言うんだ。前に入院した時あったじゃん?あの時一緒に入院してた」
「ああ!あのリョウガくん。お見舞い行くといつもカーテン閉めてたから顔知らなかったのよね」
「シャークは人見知りだからなー」

 珍しくお膳立てを手伝いながら、遊馬はあの時のことを思い出す。

「(俺がショック受けてウジウジしてるのが気に食わないって、俺のために喝を入れてくれたんだっけ)」

 そこまで昔のことではないのに随分昔のことに感じるのは、あれから色々なことがあったからなのだろう。本当に色々あった。――ありすぎたかもしれない。そう思うのは、凌牙の態度がずっとよそよそしくなったからだった。あれはもう過ぎたことで、とっくに解決したことなのに。凌牙はずっと自分を避けている。
 だからこそ、偶然会った彼を強引に家まで連れてきてしまった。以前のように沢山の話を聞いてほしかった。以前のように戻りたかった。凌牙から直接別れを告げられたわけではないから、一応自分達はまだ恋人同士なのだし、というのが本当のところである。

「あの、」

 ガチャリと音がして脱衣所のドアが開く。遊馬の服では小さいだろうからと明里が出した彼女のお古のTシャツとジャージに着替えた凌牙が、裸足のままで顔を出した。

「あ、上がった?」
「はい。ありがとうございました」

 風呂から上がった凌牙の髪型は整髪料が落ちてストレートになっていて、一見すると美少女だ。こうしてみると妹と双子であることがよく分かって、遊馬は少し見とれてしまう。

「服は大丈夫?遊馬のじゃ小さいだろうから、アタシのなんだけど」
「大丈夫です。少し大きいぐらいですから」
「ふふっ、良かった」
「あの……それで、ここから一番近いバス停って何処になるんですか?」

 早く帰らないと家の者も心配するんで。そう言って凌牙はさっさと九十九家から退散しようとする。借りた服は璃緒から小鳥伝いに遊馬に渡してもらえばいいだろうと思っていた。

「え、シャーク帰るのか?」
「ああ」
「そんな!明日は日曜なんだから泊まっていけばいいじゃねぇか!夕食もシャークの分までお膳立てしちまったし」
「いや、そもそも傘だけ借りて帰るつもりだったんだ。そこまで迷惑かけられねぇよ」
「でもっ」
「凌牙くん」

 お互い引かない言い合いに、明里の声が割って入る。

「泊まるにせよ泊まらないにせよ、夕食だけ一緒に食べていって?」
「いや、でも」
「凌牙くんの分も含めて作っちゃったから余ったらもったいないし。ね?」
「……」

 明里の言葉に凌牙が詰まり、とうとう折れる。昼過ぎから出掛けていた祖母の春もタイミング良く帰ってきて、食卓には色とりどりの食事が並べられた。
 家に電話を入れる為に、いわゆる誕生日席に座っていた凌牙はD・ゲイザーを取り出す。帰宅予定の時間から大幅に時間を過ぎていたせいもあり、過保護な家族から何件ものメールと電話が届いていた。遊馬がそれを覗き込んで若干引く。

「すげー着信履歴……」
「揃いも揃って過保護だからな。――もしも」

 
『ナッシュ!!無事か!?無事なんだな!?今何処にい』

 ブチ切り。

 かける相手を間違ったとばかりに凌牙は新たに相手を選んで再びコールをかける。今度は比較的話が通じそうな相手に。遊馬は内心でドルベを哀れんだ。

 例の一件が終わり人間に戻った七皇達は、皆『神代』の苗字を名乗って今はあの旧神代邸で暮らしている。表向きには凌牙と璃緒以外は血縁関係はないけれど、神代の主人に引き取られた七人兄弟なのだとしていた。

 四回ほどコールして、相手が映し出される。神代家の末弟。

『零くんでっす』
「俺だけど」
『知ってる。ドルベのヤツ超泣いてるぜ』
「悪い。手が勝手に」
『気持ちは分かるけどよ』

 ケタケタ。笑う零の後ろの方にソファーに顔を埋めるドルベが見えて凌牙は気まずそうに目を逸らす。許せ友よ。

『にしてもナッシュ。お前、髪ストレートになってるけどどうかしたかぁ?』
「ああ……今遊馬の家で。ずぶ濡れになったから風呂貸してもらったんだ」
『だぁから傘持ってけって言ったのによ。信用しねーんだもんなぁ』
「悪かった。――それで遊馬の家で夕食ご馳走になることにしたから。みんなに言っておいてくれ」

 D・ゲイザー越しにベクターの目が丸くなる。そして暫し後に拗ねるように表情が歪められた。

『まさか泊まるとか言わねぇよな。明日の約束忘れたわけじゃないだろーな、お兄様よぉ?』
「泊まらねぇから。大丈夫、ちゃんと帰る」
『ミザエルに迎えに行かせるからな』
「ああ、頼む」

 通話が切れる。「弟くんかい?」と春に尋ねられて、凌牙は頷いた。

「勝ったら日曜日の予定に丸一日付き合ってくれって言われてデュエルをして。で、俺が負けてしまったので」
「おやおや。お兄さんが大好きなんだねぇ」
「……ちょっと難しい子なので、どうなのか」

 「いただきます」と手を合わせて挨拶を済ませると温かい味噌汁を口に運ぶ。赤味噌。家ではいつも白味噌を使っているので不思議な感じだと思いながら、箸を進める九十九姉弟を眺めた。同じ肉を掴んで取り合っている光景は近頃ではミザエルと零の二人がよく見せるものに似ていて、笑ってしまう。

「なんだよシャーク」
「いや、ミザエルと零に似てると思ってな……あの二人も食事の時によく喧嘩するんだ」

 食事を進める凌牙の食べ方はとても綺麗で、春はそれを見ながら感心していた。明里は「アンタもちょっと見習いなさい」と遊馬に小言を言う。遊馬が面白くなさそうな顔をして唇を尖らせて反論するからオボットのオボミが「ヘタクソ、ウルサイ」と一蹴したので凌牙はまた笑った。


「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
「そう言ってもらえると嬉しいわ。後片付けは私達に任せて、お迎えが来るまで遊馬の部屋で一緒にテレビでも見てて」

 案内されるまま階段を上がり屋根裏部屋へと足を踏み入れる。チャンネルを回す遊馬と距離を取りたかったけれど、様々な品が置かれたこの部屋でそれは難しかった。だから大人しく隣に座って膝を抱える。
 D・ゲイザーで時間を確認すれば、八時を過ぎたところ。ミザエルから届いていたメールは、九時に迎えにいく旨の内容だ。『早く帰りたい』と思わず返信してしまって自己嫌悪した。

「なあシャーク、やっぱり泊まっていけよ」
「言ったろ。明日は朝から零の予定に付き合う」
「でもオレ、お前に聞きたいことがある」
「今聞けば良いじゃねぇか」

 姉と祖母から離れると、凌牙は途端にいつも通りの素っ気ない態度を見せる。

「シャーク、あれからずっとオレに冷たいよな」
「そうだな」
「ずっと避けてるし。なんでそんなことすんの」

 凌牙は黙った。D・ゲイザーがメールの受信を知らせる。『すぐ向かう』とだけ書かれた内容を見て、閉じた。息を短く吸った後、深く吐いて凌牙が遊馬を見つめる。

「……お前みたいに『仕方がない』って笑えたら良かったんだろうけど、俺はそこまで人間が出来てない」

「例え嘘で操られあそこに連れてこられたのだとしても、あの世界は俺にとって仲間と出会った大切な場所だった」

「だからあの世界を消滅させたお前を、俺はどうしても許せねぇんだよ」

 凌牙は遊馬から目を離さない。今度は遊馬が言葉を失う番だった。テレビの小さな音量がやけに大きく聞こえる。
 沈黙が痛いほど続いた後、口を開いたのはやはり凌牙だった。

「お前は前みたいに俺と付き合っていきたいのかもしんねぇ……でも、俺は無理だ。何も知らなかった頃みたいにお前と接するなんて」
「シャークッ」

 立ち上がった遊馬は必死に目で、言葉で訴える。

「それでも、オレは……それでも!」

 それでもお前が好きで、一緒にいたくて。

「それでもお前と一緒にいたい!前みたいに笑って、デュエルしたり勉強教えてもらったり……キスもしたいし、え、えっちなことだって!!お前とじゃないと嫌なんだよ!!」

 だから。必死で思っていることをぶつける。拙かろうが子供っぽいと言われようが、遊馬には関係なかった。これが自分の本音だった。
 凌牙の表情が曇っていき、段々と俯いていく。

「……俺だって前みたいにお前と付き合っていきたい」

 ぽつりと呟かれた一言。これが凌牙の本音だった。

「前みたいにくだらねぇ話しながら一緒に屋上で飯食ったりしたい。寄り道してデュエルしたりカードショップ行ってーーキスしてお前に抱かれて……傍に、いてほしい」
「それならっ」
「けど無理なんだよ!!」

 俯いていた顔を上げて叫ぶ。目頭にこみ上げた熱は瞳に涙の膜を作り、こぼれてしまいそうで。泣いてはいけないと言い聞かせながら凌牙は叫ぶ。
 この喉を潰してほしかった。声帯を取り除いて声を奪い、遊馬を傷つけないために、思っていることを口に出来ないようにしてほしかった。

「お前と一緒にいるのが」

 けれど声は紡がれる。血を吐くような叫びとなって遊馬に届く。

「傍にいるのが、辛いんだ……!」

 D・ゲイザーが着信を知らせた表示された名前に、凌牙はとうとう流れた涙を拭って屋根裏部屋を降りた。


 明里が用意してくれたビニール袋にまだじっとりと濡れた服を入れて靴を履いていると、迎えにきたミザエルが九十九家の玄関チャイムを鳴らす。やってきたミザエルは凌牙の様子に気がつくと挨拶も手短にさっさと車に乗り込ませた。

 家について足早に閉じ困った自室には零がいて、己を見つけても終始無言のままベッドにダイブした凌牙に首を傾げる。

「何かあったのかぁ?」
「別に。ただ、」
「あ?」

 零に差し出されたペットボトルの水を飲みながら、凌牙が鼻を鳴らした。

「喧嘩するより仲良くする方が簡単なはずなのに、それができないと説く」
「その心は」
「俺ってなんでまだ生きてんのかな」

 ――死んだ人間がうっかり生き返ってんじゃねぇよって言ってやりたい。

「頭で考えてることも心で思ってることも自分のことなのに、なんで自由にできねぇんだろう」
「あー哲学してんのな。でもそれが人間だし、生きるってのはそういうことだろ」

 仕方ねぇんだよ、生きてるんだから。零がケタケタと笑う。嘲笑うような彼の声が、今の凌牙には何故か心地よかった。



2013.11.18

 みばしさんお誕生日おめでとうございました!!


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